近世大坂の釣りと漁業 〜新発見の絵図を参照して〜
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漁法と魚市場

 

■江戸時代の漁法

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出典:摂津国漁法図解
 
 明治16年(1883)に第1回水産博覧会が催され、「摂津国漁法図解」が出品されました。この図解には「大阪本」と「長崎本」の2種類があり、府立図書館にあるのは大阪本の方です。福村にいた樋上さん、おそらく村長だった人でしょう、この人の名が出品人として記されています。

 長崎本の方は、佃島から天保町までいずれも戸長の名前が書いてあります。一説によると、長崎本の方が本物じゃないかと言われているようです。ただし、書いてある内容はほとんど一緒です。この中に、これらの漁村が行っていた漁の仕方が図解で解説されていますので、少しご紹介します。全部を紹介するのは大変なので、どういう魚が捕れていたかを記録してみました。これを解説した論考も世に出ていますので、ちゃんと読みたい人はそちらを見て下さい(『大阪府漁業史』に掲載)。

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ツルヒキアミ(ボラ、フナ、コイ、ナマズ、大口(タラ)、ダボハゼ、川ギス) 大和田村・九条村。出典:摂津国漁法図解
 
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トアミリョウ(ボラ、コイ、コノシロ、フナ、イワシ) 大野村・福村。出典:摂津国漁法図解
 
 トアミリョウは比較的ポピュラーな漁法ですが、それを大野村・福村が得意としていたようです。

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タテアミリョウ(コノシロ、カニ、アカエイ、ハゼ、シラウオ、アユ) 天保町。出典:摂津国漁法図解
 
 天保山にも漁師さんがいたという記録でもあります。

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マカセギアミヒキリョウ(タチウオ、ハヤ、エビ、イワシ、ウボデ、タコ、イカ、チチカブリ、青前魚(サワラ)、ハモ、ハマチ、アジ、マナガツオ) 大和田村・福村・佃村・大野村・野田村。出典:摂津国漁法図解
 
 これはけっこう大がかりな漁です。いろんな村がやっていたようです。大がかりな漁ですが、現代人の目から見ると高級魚はあまりないという感じです。

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マキリョウ(ハマグリ、サルボ、アカガイ、アサリ) 大野村・九条村。出典:摂津国漁法図解
 
 これは籠を底に引いて魚を獲る漁のようですね。自分で船をこぎながら、籠を引いて掬うのでしょうか。つまり、底がとても浅いということですね。

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カチアミリョウ(ボラ、セイゴ) 大野村・野田村。出典:摂津国漁法図解
 
 カチとは歩くということで、絵のように船が魚を追うと、網を持って待っていた人がそれを掬うというけっこう原始的なやり方です。

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サデアミリョウ(ウナギ、ハゼ、フナ) 福村・野田村。出典:摂津国漁法図解
 
 サデアミとは「左手網」と書きますが、これも子供が遊びでやるような単純なやり方の漁です。

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ヨツデアミリョウ(フナ、コイ、コダコ、ハゼ、カニ) 大野村・福村・野田村。出典:摂津国漁法図解
 
 これは今でもよく見かけることのできるやり方です。今では岸からやることが多いですね。

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タグリアミリョウ(タコ、エビ、イワシ、タチウオ) 難波村・天保町。出典:摂津国漁法図解
 
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ウオヤナスリョウ(ウナギ、エビ、カニ) 福村・野田村。出典:摂津国漁法図解
 
 これは仕掛けをしておいて魚を獲るやり方です。

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スキマリョウ(エリ(?)の一種、季節によりさまざま) 九条村・難波村・野田村。出典:摂津国漁法図解
 
 これも仕掛け漁のひとつです。ここに魚が入る込むわけです。

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コイツカミアミカセギリョウ(コイ) 福村・大和田村・野田村。出典:摂津国漁法図解
 
 これは網で囲って、鯉を自分で捕まえるというやり方です。

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タンボウナギリョウ(ウナギ、ハゼ) 福村・野田村。出典:摂津国漁法図解
 
 これも仕掛けをしておいて魚を捕るやり方で、今でも子どもが遊びでやったりします。

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エイツキリョウ(アカエイ、カレイ、コチ、カニ) 大野村・福村・野田村。出典:摂津国漁法図解
 
 これは上から突くんですね。浅くないと魚がみえない。

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ハマグリリョウ(ハマグリ、シジミ) 福村・野田村・九条村
 
 これは底を引いて貝を捕るやり方です。

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トリガイ・アカガイリョウ(トリガイ、アカガイ、サルボ、ヨウケン(鋏の大きなカニ)、タコ、エビ、イカ、カレイ、コチ) 福村・大野村・九条村。出典:摂津国漁法図解
 
 大きな船で底をさらっています。少し深いところでしょうか。

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シジミリョウ(シジミ) 野田村・九条村。出典:摂津国漁法図解。出典:摂津国漁法図解
 
 これも底を掬っている感じの獲り方ですね。

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ウナギリョウ(ウナギ、ドジョウ、ハゼ、カニ、カレイ、コチ) 福村・野田村・難波村。出典:摂津国漁法図解
 
 これはなかなか難しそうですね。引っかけるだけの漁とは技術が要りそうです。

 こんなふうに各村々でいろんな漁をしていたわけですが、佃村・大野村の漁師達は四国・中国地方などへ遠出をして鯛などを取りに行ったようです。しかし、大阪湾近海の漁師達はほとんど川魚や中水域の魚、底ものを捕って生業としていたようです。


■魚市場の様子

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雑喉場(ざこば)魚市の図 浪花名所図絵(広重)
 
 雑喉場の歴史についても大きな研究書があって、なかなか細かいところまで調べられています(『雑喉場魚市場史』など)。

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雑喉場(ざこば) 浪花百景
 
 この絵は浪花百景の中の雑喉場魚市の様子です。

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京橋詰 川魚市場 摂津名所図絵 寛政8年〜寛政10年(1796〜1798)
 
 川魚を扱うこちらの市場は、今の雑喉場と比べるとあまり大きな感じはしませんね。

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雑喉場 神平焦点の荷主の分布 文化12年〜明治18年(1815〜1885)(酒井亮介『雑喉場魚市場史』より)
 
 さて、大坂の漁師たちの獲る魚はあまり上等なものはないので、雑喉場では手広く遠方からの魚も扱っていました。これは、雑喉場にあった神平商店の荷主の分布を見た物です。これを見ると、ものすごく遠いところから魚が運ばれていたことが分かります。大坂で食べる上等な魚はこういう所、和歌山、淡路、徳島あたりから来ているわけです。広い取引先から魚が来ていたということです。

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生魚船(酒井亮介『雑喉場魚市場史』より)
 
 この時代、冷蔵庫もない時代にどうやって遠くから魚を運んだかという話ですが、図のように特殊な船を使っていたようです。

 船底に穴を開けて、海上ではそこに海水を環流させながら魚を運んできて、淀川に近づくと栓をして川水の進入を防ぐわけです。そうして船の上で一匹ずつ絞めて、血抜きをしながら雑喉場に入ってくるのが常だったそうです。

 価格の高い天然魚は漁獲後、少なくとも2〜3日は生け簀に「生け込み」をして、体内にある摂取物を消化させ、無駄な脂肪分を除去しました。それが魚の美味しい食べ方だそうで、「活け作り」という食べ方はもってのほかだと著者は言っています(酒井亮介『雑喉場魚市場史』)。現代の生け簀自動車輸送でも、最初の頃は餌止め、生け込みをしないで出荷して、しょっちゅう輸送中に死なせていたそうです。


■昭和に入ってからの漁村の変遷 昭和30年(1955)頃の状況(野村豊著『漁村の研究』による)

 大阪の漁村の姿と市場としての広がりはとても広いのですが、それが昭和30年代になるとどんどん変わっていきました。

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千舟地区・大野地区・福地区
 
 千舟地区は、佃と大和田を含む地区です。昭和22〜23年頃には水質の悪化に伴い漁獲高が減少し、操業を中止しています。今では長柄ダム下流の新淀川が唯一の漁場です。漁民は地区に44戸しか残っていません。

 大野地区は、明治の頃まで魚介を大阪雑喉場に売ったり、大阪市中へ振り売りに行ったりしていました。漁場は今は、新淀川の下流長柄ダムまで、海面は大和川河口から神崎川河口までの沖合2キロぐらいまでの間です。漁民は地区に24戸です。

 福地区は、明治の頃は「福の行商」として有名でした。現在の漁場は、新淀川の下流とその河口付近、神崎川の河口付近。漁民は35戸です。

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此花地区・出崎地区
 
 此花地区の漁民は此花区伝法町、福島区玉川町付近に集住しています。伝法町は、味醂・焼酎・味噌・醤油などの醸造地としても有名でした。終戦当時に、各種工業が麻痺状態になったとき、各河川も浄化されて漁獲が増加し、漁業に従事するものが急激に増加したというエピソードがあります。流行ったり廃れたりということは、いつでも出来るという類の漁なんでしょうね。しかしその後は減少し、現在は52名。

 玉川町は、旧野田村の地です。現在の漁民は14名。

 出崎地区の場合、もともとこの地区の漁民は旧天保地区に居住していましたが、昭和24年の安治川改修工事にともなって移転してきた人たちです。昭和になってからも他地方からの転住者で漁業を営む者が増加しました。現在の漁民は44名。

 かつての漁師方五カ村組合の一員だった九條村は、明治の頃はまだ漁業が続いていましたが、やがて漁村としては消滅しました。

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長柄地区・住吉地区
 
 長柄は新淀川の上流ですので、長柄ダム下流の新淀川および守口付近〜桜宮大橋付近までの旧淀川においてコイ、フナ、アユ、ウナギを漁獲する河川漁業を続けています。その殆どが戦後の操業です。

 住吉地区は、大阪市住吉区加賀屋町を中心として、北島町・御崎町・粉濱等を含む地区です。73人の漁業者が主に大和川、その周辺海域を漁場としています。漁獲物は、ウナギ、アナゴ、シラウオ、ハゼ、カレイ、コノシロ、ボラ、かたくちいわし、スズキ、セイゴ、モガイ、シジミなど。昭和の頃にはいろんな漁をしていたようで、ここにもいろんな地域からやってきた漁師さんがこの地区にいたということです。住吉の浜は、江戸時代には名産の蛤、蜆を産して、旧暦3月3日は潮干狩りで有名でした。大坂町人のレクリエーションの場でもあったのです。住吉神供漁場でもありました。この漁場は昔は難波村が独占していました。勝間村も蛤、蜆の名産地でした。これらの両村は、今では漁民が消滅しています。

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