ニューヨーク、ボストンの都市デザイン最新事情報告
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ブロードウエイとは

 

■ブロードウエイの歴史

 タイムズスクウェアという場所へは、みなさんの中で行かれた方もあるでしょうし、行ってなくてもそこがニューヨークを代表する場所ということはご存知でしょう。例えば、大晦日のカウントダウンイベントでも有名です。なぜこの場所が世界中から注目される広場になったのでしょう。そこに私は興味を持ち、歴史を少し勉強してみました。

 ウェブを検索しているうちに、1921年当時のタイムズスクウェアの写真を見つけました。ジャック・デンプシーとジョージ・カーペンターのボクシングの対戦結果を知るためにニューヨークタイムズのビルの前に群衆が集まった時の光景です。カンカン帽とスーツの大群衆が広場を埋め尽くしてビルの方向を見つめています。つまり、ある情報を求めてここに集まるということが、タイムズスクウェア誕生の当初からすでにあったのです。

 タイムズスクウェアは昔はLongacre Squareという名前で呼ばれていました。また馬の取引市場があったために、かなり「臭う場所」だったとある文献には書いてあります。馬が消えて車社会になっていくと、タイムズスクウェア界隈は興行街という顔と同時に、馬に取って代わった車のディーラーの街という側面も生まれたそうです。

 しかし、よく知られているのはやはり劇場街としてのイメージです。タイムズスクウェアという名前に変わる前から、つまり19世紀の終わりぐらいからこのへんに劇場が集まってきたようです。その反面、1880年代には「盗人の街(Thieves lair)」とも言われて、かなり怪しげな街だったようです。Tenderloin Districtという街がここに隣接していたのですが、そこから劇場や売春宿が進出してきました。

 劇場街として有名になったのは、オスカー・ハマースタイン1世という興行主がオリンピア劇場を作って以降です。劇場街としてのグレードアップが図られ、1890年代初頭までには中上級クラスの劇場やレストランも増えて、これらを飾るためのイルミネーションもなされるようになりました。

 この街が「タイムズスクウェア」と呼ばれるようになったのは、1904年にニューヨークタイムズ本社が42丁目に移転してきたからです。それと同時に地下鉄が開通し、最初の電照広告が46番街とブロードウエイ交差点の銀行側壁に設置されました。この年から年越しイベントも始まっています。当初はタイムズ本社ビルの屋上から花火を打ち上げていたそうです。実はニューヨークタイムズの本社はすぐにブロードウエイから移転してしまったのですが、広告部門はここに残しました。それで、ここがニューヨークタイムズのビルであると認知されて、タイムズスクウェアと呼ばれるようになったわけです。

ニューヨークタイムズのビルができ、また劇場街として有名になるとともに、ウォルドルフアストリアホテルの前身であるホテルアスター等、高級ホテルも進出してきます。また、ニューヨーク−パリ間のカーレースの拠点にもなりました。タイムズスクウェアの南東角が、大陸を横断するリンカーンハイウエイの東の起点になっていたのです。

 20世紀の初頭から1920年代には、このシアター街に大物俳優も出入りするようになります。Tenderloinという名前が俗称として使われていたそうです。ところが、1929年に大恐慌が起こって以来、街の状況が悪くなりました。業務機能が街から出ていった後に、ポルノショップやピープショウなどの風俗営業が台頭して、娯楽・風俗街へと至るわけです。

 


■サインタワーとしてのタイムズビル

 さて、タイムズビルは出来た時から年越しイベントを行うなど、タイムズスクウェアの顔となる存在でした。このビルの屋上には、大きなポールが立っていたのですが、それに大きな光るボールを付けて落とすという年越しイベントが1907年から始まりました。この時から年越しのカウントダウンが始まっていたようです。このボールそのものは時代と共に変化していきまして、2008年にはLEDになって常設化されています。

今は年越しイベントだけじゃなく、バレンタインやハロウィンの時にも使われているそうです。現在こうしたイベントは、タイムズスクウェア・アライアンスという団体がこのビルと一緒になって取り仕切っているということです。

 もともとこのビルは25階建てのテラコッタタイルを貼った立派なものだったのですが、時代と共に所有者が変わっていく過程で1963年にコンクリートの壁になってしまいました。その時以来、このビルは広告の土台として生き残るという道を選んだのです。

 現在は壁が全面広告になっていますから、上階にはテナントは入れていません。一番低層部にだけ、ドラッグストアが入っています。テナントを入れるよりも、看板として広告収入を狙う方が遥かに売上げが良いという場所だそうです。


■ブロードウエイの再生

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 最近の話をします。1930年代に入り、大恐慌の後に周辺環境が悪化したと先ほど言いました。第二次大戦を経てやっと1980年代になってから、大きく変わり始めました。まずブロードウエイ西側で商業ビルが建ち始めました。1990年代に入ると、有名なジュリアー二市長が本格的な再生を進めます。ポルノや麻薬の販売人、スクイージメン(交差点等で停車中の車の窓を勝手に拭いてチップを要求する輩)を一掃しました。

 何よりも大きかったのは、ブロードウエイにディズニーを誘致してきたことです。ディズニーを誘致したことで、健康的で子どもたちが来たくなる街になったということで、このことを「ディズニーフィケーション Dizneyfication」と呼んでいます。

 また、1990年代にはニューヨーク市は歴史的な劇場の9軒のうち6軒を入手して、修復・再生をNPOと一緒に行いました。シアターとして蘇ったもの、商業施設となったもの、あるいは取り壊されたものがあります。

 またニューヨーク市のゾーニング条例で、このエリアのビル所有者にイルミネーションサイン設置を義務づけています。これを「スペクタクラース spectaculars」といいますが、イルミネーションサインを必ず付けなさいということです。サイン密度はラスベガス並みだそうです。

 そういう広告の設置競争の中で、ソニーとパナソニックが熾烈な争いをしていたことはよく知られています。「ジャンボトロン」という名前はソニーのパテントなのですが、アメリカではジャンボトロンは一般名詞化しています。それでパナソニックが奪取したり、現地のDaktronics(LED大型映像の最大手)というメーカーと広告の取り合いをしているということです。2008年12月には太陽光発電のビルボードも登場しています。

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