プランナーとプレイヤーの両立は可能か?
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尼研でのプレイヤーとしての活動

 

■尼崎南部再生研究室の立ち上げ

若狭

 この会社に入ったことが、「プレイヤー」の部分となっていくのです。「尼崎南部再生研究室」というNPOの立ち上げに関わっていくことになりました。

 その経緯についてお話しします。我われが就職した地域環境計画研究所は都市計画の事務所でしたが、そこの所長である浅野が尼崎大気汚染の公害訴訟の支援をしていたのです。裁判が終わって和解した時に、和解金を使って裁判所の和解条項にあった「地域の再生」を実現するためにNPOを立ち上げようということになったのです。ただ、公害の被害者である患者さんたちがそれをするのは、高齢であり病気のこともありますから、できれば尼崎に関心のある若い人たちでやってもらいたいとなったのです。

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 NPOには我われの恩師である片寄先生に顧問になってもらい、「尼崎南部再生研究室」を立ち上げました。

 具体的にここが何をやっているかと言うと、患者さんたちが作った「南部再生プラン」(写真左)である「夢の尼崎」を実現しようということです。

 実は尼崎には「南北問題」とも言われる地域の格差があるんです。尼崎の北側、阪急の武庫之荘とか塚口あたりに住んでいる人は、「どこから来たんですか」と言われると尼崎とは言わない。「武庫之荘からです」とか「塚口に住んでます」と言うんですね。下手すると「神戸から来ました」と嘘付いたりする(笑)。つまり、ハイソな住宅街というのが北側のイメージ。

 一方、南の方は阪神沿線で、「出屋敷センタープール前」とか、どんな駅名やねんと思いますけど、そういう雰囲気の街です。

 同じ街の中にありながら、二つのタイプの街があるのです。で、我われは尼崎の南部の方、いわゆる「ディープ」と呼ばれる庶民的な街の方をなんとか再生しようということになったのです。

 その時に、患者さんたちは再生した街の「夢のプラン」をイラストにまとめられたのです。例えば、「国道や阪神高速を地下に埋めて、公害道路にならないようにしよう」というものがありました。ボストンの「ビッグ・ディグ」のようなものをすでに1996年に考えていたのです。それとか「尼崎の運河を使ってベネチアのような住宅街にできないか」というのもありました。「尼でベネチア」ですからスゴイ発想力やと思うのですけど、そういう夢をいろいろ考えてもらいました。これを実現しようと、2001年3月にNPO「南部再生研究室」が設立されたのです。

 我われはそこのスタッフとして、設立と同時に活動を始めました。ここから、プランナーとプレイヤーとして2足のわらじをはいていくことになるんですね。

 具体的に我われがやっていることは、フリーマガジン『南部再生』の発行、運河クルージングの発足、「尼いも」という伝統野菜のさつまいもを復活栽培したり、その他尼崎の面白いことにどんどんコミットしていっています。


■フリーマガジン『南部再生』

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若狭

 お手元にあるフリーマガジンの『南部再生』についてもう少し詳しくお話ししますね。

 尼崎の南部というとどうしてもちょっとネガティブなイメージが強くて、市民の方々はあまり自分たちの街を誇りに思えない気質がありました。それを「良いところもたくさんあるよ」と地元の人自身に知ってもらい、尼崎の魅力を発信しようと雑誌を作り始めたのです。

 『南部再生』と雑誌名はとても硬派なんですけれど、中身は市民目線で知ってるようでよく知らない街のあれこれを掘り下げて特集しています。扱う話題は「草野球から市長選まで」と幅広いのですが、例えば「尼の神様仏様」という特集では尼崎の神社とお寺を調べてみました。また、「市長というお仕事」という特集では市長選について考えました。このほか、建築特集、農業特集、沖縄特集など、尼崎という街をいろんな視点から見て、その魅力を雑誌を通して発信していくという活動をずっとやっています。

 1万部、年に4回の発行で、無料です。この雑誌は変わってまして広告がないのですが、定期購読料で印刷代をまかなっているのです。記事を書いてくれる執筆陣は、今日も何人か会場におられますが、ボランティアで寄稿して頂いております。角野先生に記事を書いて頂いても、それは無料でお願いしています。ですから、手弁当で出来ている雑誌です。

 この雑誌を発行し、プレイヤーとして学んだことがあります。ひとつは、この雑誌を作る前は、我われは全然尼崎に縁もゆかりもない人間でした。ですから、NPOとして何かやろうにも、街へ飛び込んでいくツールがなかったのです。でもこの雑誌を作ることで、街に飛び込み、取材と称していろんな人と出会うことができたのです。「話を聞かせてください、僕たちこんな雑誌を作っているんですよ」と言って、雑誌が自分たちの自己紹介してくれるツールになったなと思いました。

 それと、雑誌という切り口を通して、街を見る視点を磨くトレーニングができたと感じています。

綱本

 1万部発行といっても、これを手渡しでみなさんにお配りするのは無理な話でして、実はいろんな所に配布協力をしていただいています。尼崎には「尼崎信用金庫」という信金がありますが、そこの全支店に置かせてもらったり、市内全域の郵便局に置かせてもらったりしています。窓口になるところにまとめて「お願いします」とドンとお渡しして、みなさんに配ってもらえるという関係をいろんな所で作れたことが、この1万部の発行を支えています。

 実は、最初は「南部再生」というタイトルが硬派なものですから敬遠されていたんですよ。「何だ、それは?」と言われるような反応が多かったんですけれど、配布先が尼信さんや郵便局というみなさんがよく利用される所ということもあって、段々と信頼されるようにもなってきています。最近では、知名度も少しずつですが上がってきまして、以前よりは取材もしやすくなってきたなと感じているところです。


■伝統野菜「尼いも」の復活栽培

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綱本

 先ほど尼崎南部のマップを見て頂きました。今でこそ尼崎の南部は工場地帯や物流の基地と言われていますが、江戸時代まで遡るとここはほとんどが農地でした。特に、このあたりは武庫川と猪名川から流れてきた土砂が堆積した地域で、遠浅の海岸が続いていて非常に埋め立てがしやすかったのです。そういう歴史的な経緯があって、地元の農家は一生懸命埋め立てて、新田地帯を作りました。

 ただ、海を埋め立てて作った農地ですから、栽培する物は基本的に塩分に強いものでないといけません。当初は綿花や藍を作っていたのですが、海岸に良く咲いている昼顔系のさつまいもなんか植えたら良いのではないかと地元の人が気づいて、さつまいも「尼いも」を栽培し始めたのです。しかも、この「尼いも」はさつまいもの旬である秋ではなく、夏の暑い盛りに収穫して出荷しました。日本人て何でも初物を尊ぶ習慣がありますから、夏に初物として出すことで、高値で売りさばくことができたという言い伝えが残っています。一説によると秋に売られるさつまいもの3倍の値段で売られていたとも言われています。それを神戸や大阪の京都の料亭に卸したという記録も残っています。

 そういう立派なブランドいもが尼崎にはあったのですが、つい最近までは忘れ去られた存在でした。やっぱり海に近いところは高潮など水害の影響を受けやすいものですから、度重なる水害のせいで一度は絶滅してしまっていたのです。ただ、今は高齢化した尼崎の公害患者の方々は、その尼いもを子どもの頃に食べていて「死ぬ前にもう一度尼いもを食べたい」という強い要望がありまして、我われは何とか出来ないかと一生懸命調査して、尼いもを手に入れる取り組みを始めました。

 いろんな紆余曲折がありましたが、結果的に茨城県つくば市の農業研究センターから苗をもらうことになりました。この研究センターには、日本国内にある1600種類のさつまいもを全て育てながら保存している機関があるんです。その中から尼いもの特徴とおぼしき品種の苗をいくつかもらい、試験栽培を繰り返しました。その中から「これじゃないか」と思える「四十日藷」という品種を「尼いも」として復活宣言して、今栽培しています。

 僕たちはこの尼いもは地域の歴史を知るための教材と考えておりまして、小学校の総合学習の時間で子どもたちに育てて食べてもらうという取り組みを始めています。

 また、さつまいも料理はものすごく奥の深い世界です。実は尼崎には、奄美や九州などさつまいもの本場から移住されてきた方が非常に多い。だから、尼崎にはさつまいも料理のレシピも豊富に伝わっているんです。だったら、そうしたレシピや調理方法も研究しようということになりました。その上、片寄先生の奥さんが栄養学の専門でしたので、我われの仲間に入って頂いて、さつまいも料理のいろんな調理会をやって食べるということもやっています。

 さらに最近では、尼崎市の農政課と酒販組合がこの尼いもを使って芋焼酎を作ろうと取り組み、販売までこぎ着けました。毎年3月末から4月上旬に発売されています。

 ただ、せっかく復活栽培しても食べて終わりじゃ面白くないなと思いまして、もっと地域に戻したいと考えました。もともとさつまいも畑が広がっていたところには、地域の氏神様である貴布禰神社があるんです。そこに奉納したら新しいお祭りが作れるんじゃないかと思いまして、「尼芋奉納祭」というのも考えました。まるで昔からあったお祭りがあったかのように演出してやったりもしています。

 こういうことをやっていますと、農家の人とのつながりも出来たり、お酒関係の商売の人ともつながったりします。また、「昔尼いもを食べたことがある」という年輩の方々ともつながりができました。尼いもでいろんな人たちとつながっていく仕掛けができるなと思いました。しかも、もともときっかけが公害訴訟から始まっている活動ですから、どちらかというと「左寄り」と思われる活動なんですが、「右寄り」の神社のみなさんとつながることで活動のバランスがとれたかなとも感じています。みんなの思いを集める「尼いも」になったと思います。


■尼崎運河クルージング

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綱本

 先ほどのマップでは、尼崎には運河が川のように通っているのがご覧になれたかと思います。この運河沿いには工場が建ち並ぶ風景が広がっています。そこが深刻な大気汚染公害を生んだという歴史的な背景もあるのですが、僕たちは最初この風景を見た時に、面白いなと思ったのです。実際に世界の工業地帯を見渡してみても、ドイツのルール工業地帯ではまだ現役の運河を観光できるツアーがあります。こうした産業資産の活用をテーマに、若狭が卒論を書いているんです。

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 そうなんですよ。学生時代に片寄先生に「尼崎の工業地帯をやるんだったら、本場のドイツの工業地帯を見なアカン」と言われ、先生と一緒にドイツを回ったことがあります。本当は卒業旅行に行きたかっただけなんですけどね。先生とドイツで合流しまして、エムシャーパークプロジェクトをずっと見て回ったんです。もちろんいろんな建築プロジェクトも見学しましたが、一番感動したのはそこで行われていたクルージングなんですよ。

 工業地帯のクルージングでは、鉄くずとか砂利をクレーンがガッシャーとつかんでいるのを見ながらドイツ人は優雅にワインを飲んでるんです。すごいなーと思いました。尼崎でもやり方によっちゃできるんじゃないかと思ったのが、ひとつのポイントですよね。だから、やりたいなという気持ちはあったんです。

綱本

 尼崎運河クルージングでは、結果から言うとかなりそれに近いものに今なってるんです。だけど当初は、遊覧船なんてなくて地元の元漁師のおっちゃんたちの釣り舟を借りて、みんなで救命胴着を着て舟に乗ってたんです。

若狭

 お客さんをきったない座布団に座らせてね〜。

綱本

 端からは「死体でもあがったんか〜」と冷やかされながら、クルーズするという感じだったんです。でも近年は「工場萌え」なんて言葉も出てくるようになった風潮とも無関係ではないと思いますが、けっこう「こういう景観が好きなんだ」という方が増えてきました。公害という負の歴史はあるにせよ、やはり日本の高度経済成長を支えた場所であることに別の価値観が出てきたこともあって、かなりいろんな所から注目されるようになってきました。

 具体的に何が起こっているかを紹介します。最初僕たちは思いつきでこれを始めました。地元の漁師さんたちに舟を貸してくれるよう話をつけて、ついでに舟も運転してくださいという形でお客さんだけを乗せる形式だったのが、いつの間にか兵庫県が注目するようになってきたんです。「やはり運河は大事だ」「運河は重要な景観である」と言い出して、運河を使った地域づくり、まちづくりをやろうじゃないかという話をするようになりました。尼崎市も最初は関心なさそうだったのに、運河沿いにある水門や跳ね橋を見て学ぶ良い機会であると言い出しました。いつの間にかいろんな人がクルージングプロジェクトに乗っかるような形になって、わりと賑やかになってきたなと感じているところなんです。

 実際、尼崎市の南部には今「21世紀の森構想」というプロジェクトがあります。これも公害の歴史とは無関係じゃないんですけど、ここに兵庫県の植物をいっぱい植えて百年かけて森を作ろうとする壮大なプロジェクトです。この人たちとも最近は一緒に活動していて、徐々にクルージングプロジェクトに広がりが出来つつあるところです。

 今は僕たちもクルージングのガイドをやってまして、一見灰色の四角い箱しか見えない風景なんだけど、そこで何を作っていて、それが僕たちの暮らしとどう結びついているかを説明しています。

若狭

 こんな感じです。(ガイド口調で)「みなさま〜右手に見えます工場は〜大阪チタニウムでございまぁす。こちらの工場では〜世界のチタンの4分の1を作っております。みなさまお手持ちの眼鏡や時計、ひょっとするとこの工場で作られた物かもしれません」。

 こんな調子でガイドすると、お客さんも「へ〜」って感心してくれるんです。面白いことに、当初お客さんは地元のマニアックな人たちだけかと思っていたら、電話の申込みを聞いていると芦屋の北の方から家族連れ、友達連れで来ていたりとかするんです。多分、下々の暮らしがどんなものかと見に来るんでしょうね。よそから来る人がいるとは、僕らも予期してないことだったんで、このクルージングプロジェクトで新しい価値観、新しい視点が提案できたのかなという話もしているんです。

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 最初は地元の人のために「こういう面白い場所がありますよ」とやっていたんです。蓋を開けてみたら、クルージングの参加者は市内と市街が半々ぐらいですね。たまに広域で新聞記事が出たりすると、遠くからも参加者がやってきます。堺や滋賀とか。

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 この間は近江八幡から来た人もいましたよ。イケメンの二人連れがものすごい長いレンズを持ってやってきて、工場の風景が好きなんですかと聞くと「いや、僕らは工場の方じゃなくて、水門の方なんですよ」と、水門の写真をバシャバシャ撮っておられました。

綱本

 尼崎市にはパナマ運河方式といって、前後に二つの扉が付いた水門があるんです。尼崎市南部はほとんどがゼロメートル地帯ですので、水害から守るためにこういう水門で水位調節をしているんです。そこを実際に舟で通って、水位の差を体験することもクルージングでできるんです。

若狭

 尼崎南部は工業専用地域ですから、一般の人はまず行かないところです。ですから人が行くような仕掛けを今しているところです。

 こういう風にプレイヤーとして尼崎南部と関わっている話を紹介させて頂きました。つまり、僕たちは「いちびる」ことが大好きでして、他にも尼崎ではこんなことをしています。


■その他の「オモロイ」仕掛け

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若狭

 例えば、阪神尼崎駅前にある旧警察署の建物は、今は市の教育委員会に移管されて管理されていますが、使われてなくてほとんど廃墟のような状態です。ただ、市の総合計画ではここは歴史文化ゾーンだという位置づけで、壊すに壊せない。売却もできないんだと思います。僕らは市の方と一緒に、これを使って何かできないかと考えました。

 昭和40年代まで警察署の建物として使われていましたから、地下の留置所や取調室がそのまま残っているんです。留置所の中なんて、壁に爪で「絶対に出る」と彫り込んだ文字や勾留期間を数えるカレンダーがあったりして、その生々しさがすごいんです。これを使ってイベントしたいなと思って、我われが警察の格好をして案内をしました。もっとも僕たちはあんまりガタイが良くないんで「警備員の方ですか」と言われてしまいましたが。それとか、せっかくですから取調室でカツ丼を食べようと近所から出前してもらって遊んだりとか。

 ラジオ番組も昨年から始めました。「8時だよ、神仏集合!」というタイトルです。これは尼いも奉納祭でもお世話になっている貴布禰神社の宮司さんと、やはり近所のお寺のお坊さん二人で番組を作ってもらうというものです。この二人でラジオ番組を始めますと、記者発表までしました。すると、新聞記事になって、さらにyahooのトップニュースで「尼崎で神仏集合始まる」と報道されました。それを見た宗教関係者から「神仏習合とは何事か」とお叱りの電話まで受けてしまい、タイトルは「8時だよ、神様仏様」と変更しました。

 なかなか宗教ってタブーがいろいろある世界ですよね。みんなも気になって聞きたいことがあるでしょうから、それをラジオでみんなの質問を受け付けようという番組です。「お葬式で手を合わせる時どんなことを考えたら良いんですか」とか「神主さんやお坊さんて着る物が大変そうですね。トイレに行きたくて失敗したことがありますか」など、いろいろ質問に答えてもらっています。

 また、今日お配りした『南部再生』にも特集されていますが、「尼とギャンブル」のテーマで特集を組みました。尼崎には園田競馬と尼崎センタープールという二つのギャンブル場があります。ご存じない方もおられるでしょうが、あれは公営競技でして、つまり役所が取り仕切っているギャンブルなんです。役所がギャンブルを仕切るって不思議だなあと思って、そのまま疑問をぶつけてみた特集です。日本は戦後の復興のために公営競技をあちこちで繰り広げたんですが、尼崎に二つもある理由は何なのかという話から、今のギャンブル場が置かれている状況などを硬派に取り上げようと思ったんですが、競馬を取材していたら万馬券が当たっちゃってつい興奮して浮かれた記事も書いてしまいました。

 つまり、堅い話から柔らかいものまでうまく包み込んでみなさんにお示ししたいなと思っていますので、今度は5月にこんなセミナーを開催する予定です。「センタープールはなぜ潰せないのか? 意外と知らない公営ギャンブルの経営学」。こういうタイトルで関学の会計学の先生に講演頂きます。もちろん、ピット見学や舟券の買い方もやります。

 こんなふうに遊んでばっかりのことをしているんですけれど、綱本は私と違って特殊な技能を持っているんです。その辺がどう絡んでくるのかについて、話してもらいます。


■ものづくりを描く

綱本

 実は僕、関西学院大学大学院の総合政策学部に行く前は、多摩美術大学で建築を学んでおりました。JUDIセミナーも学生の頃によく聴講させていただいたんですが、まさか自分がしゃべるはめになるとはと、今日は非常に緊張しながらこの場に座っている次第です。

 多摩美で建築を勉強していて、どうも建築デザインでは目が出なかったものですから他のことをしようと関西学院大に転がり込んだのですが、今の会社に入る時「絵だったら描けます」と言ったことがポイントになったようなのです。当時の社長が表現のできる人材が欲しいと考えていたようで、僕が絵を描けるということで採用してもらいました。

 僕の絵がどこで活かされたかというと、神戸新聞の連載を『工場は生きている』(神戸新聞業出版センター)『工場を歩く』(かもがわ出版)の2冊の単行本にまとめる時です。尼崎で運河クルーズをやっていても思うことですが、ものづくりの現場は外から見ていても何をやっているか分からない世界なんですよ。じゃあ包み隠さず記事にして写真も撮らせて欲しいと思っても、企業秘密がありますから写真までは撮らせて貰えないことがあるんですね。しかし、法廷スケッチみたいに「絵だったいいよ」というケースが非常に多いので、そこに目を付けた神戸新聞の加藤さんという記者さんがこの企画を通したという話なんです。

 実は加藤さんと僕たちは学生の頃からの知り合いでして、僕たちが関学のほんまちラボでいろいろやってた時に加藤さんは三田支局の記者だったのです。加藤さんはよく「君らのやっていることは面白いな」と言ってよく記事にしてくれました。「大人になったら一緒に仕事しようね」と言って下さって、もちろん僕たちはそんなの大人のずるい社交辞令だと思ってたんですが、実際にこの企画の時、僕らのことを思い出して声をかけて下さったんです。

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 図にあげたのは川崎重工の進水式の様子ですが、他にも兵庫県には小野市のソロバンだとか西脇市の播州織りなど伝統的なところから現代までのいろんなものづくりの現場があります。それを実際に見て、取材するという連載でした。

 こういう絵を描くためにいろいろ工場見学をしていると、目が肥えてくるんですよ。どうやって説明したら聞いている方に伝わりやすいかという知恵が付いてきまして、今では尼崎のある工場の見学のアドバイスをさせていただくというふうに結びついております。

 これはたまたま工場の絵ですが、そもそも僕が心がけていたのはまちづくりや都市計画のような一般の人になかなか伝わりにくいもの、見たことがない取り組みやイベントをどう伝えようかということです。そういった時に描いて伝えることをしたいと思って今の会社に入ったこともあります。最初の志はこういうところにあったということです。

 『南部再生』でもイラストや文章を書いたりしていますが、そういうことをやっておりますと、実際に雑誌作りを生業としているプロの人たちから「一緒に仕事をしない?」と声がかかりました。最初は京阪神エルマガジン社から「阪神沿線を丸ごと特集するから、尼崎ページを手伝って欲しい」と声がかかってご縁ができました。その延長で大阪の方にも派生していきました。

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 これは、『月刊島民』というフリーペーパーですが、京阪中之島線が出来た時の特集で中之島線だけをPRするのではなく、中之島という地域全体をクローズアップしてそこのポテンシャルを紹介していきたいという趣旨の依頼を受けました。実際、この雑誌の取材を通して文化人の方や小説家などいろんな方との出会いがありました。今は、そこからも派生して「ナカノシマ大学」という月1回のトークイベントにも発展しています。

 それから、残念ながらこの4月2日で休刊してしまいましたが『大阪人』という雑誌にも、ちょうど1年前のリニューアル創刊の時に声をかけて頂き、「大阪名物製造工程」というページを担当させてもらいました。大阪の名物と思われる商品が出来るまでを追っかけるという取材です。僕も若狭も同じ会社に入ってもう十数年になるのですが、実はこれが初めての共同作業で、二人で一本の記事を書いたのは初めてでした。割りと面白くてやりがいも感じていたのですが、休刊になってしまったのは残念でした。

 実際に編集のプロの方々と一緒にお仕事をさせてもらうと、やはり仕事の仕方が全然違うことに驚きました。ものすごくスピーディにされますし、適当に書いた記事でも的確に直され、分かりやすいキャッチコピーを付けます。そのてきぱきとした仕事ぶりを拝見していると、デザインだとか独りよがりの文章ではなく、何よりも「誰かに伝える」ことに重きを置いた仕事なんだなあということが分かってきました。誰かに話したくなる物語の書き方とか、行きたくなる紹介の仕方など、そういうノウハウに長けていることを発見できたのは、勉強になったと思っています。


■地元で仕事をするということ 「メイドイン尼崎」

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若狭

 今綱本が話した雑誌の編集やライターの仕事や先ほどの尼崎南部再生研究室の活動(僕らは略して「尼研」と呼んでいます)は、どちらかと言うとプランナーの仕事と言うより、プレイヤーの仕事なのかなと思っています。それはそれで面白いのですが、我われとしても食べていかないといけませんので、このままじゃいけないということで、ここからは「仕事」をより意識した活動について紹介していきます。

 まず、大学を卒業して尼崎でごそごそと動いている段階では、もちろん誰かが「仕事を任せるよ」なんて言ってくれません。だから、まず仕事をしようと攻めるのは地元なんです。

 尼崎で培ったネットワークを使って、何とか地元で仕事をしようと始めた事業が「メイドインアマガサキ」というものです。

 これは2003年から始めたのですが、もともとは地元の物で尼崎らしさを自慢できる物を紹介しようとコンペを開催したことから始まりました。再三出てきましたように、尼崎は柄が悪いとか自分の街に誇りが持てないなどネガティブなイメージがあって、それを覆すためにも尼崎の良い物をもっと上手に見せたいという話はずっと商店街の人たちと話してたんですね。そういう話の流れで、我われは商店街の人たちに「じゃあ、尼崎産商品のコンテストをしてみたらどうか」という提案をしてみたのです。それが「メイドインアマガサキ・コンペ」です。

 最初は2、3人に提案してみたところ、「まあいいんじゃない、名前は貸してあげる」ということで、早速我われが動き始めました。この時は、仕事というより半分はプレーヤーとして動いていたと思います。

 蓋を開けてみたら、コンペの反響にはすごく大きなものがありました。市民から推薦された商品が品評会で選ばれる形式で、片寄先生にはコンペの審査委員長をしていただきました。片寄先生が審査するというだけで、だいたいがピリピリした雰囲気のコンペではないことが分かります。ポイントは「尼崎らしいもの」「自慢できるもの」という審査基準で、第1回目に集まった物からグランプリに選ばれたのは「ゆたんぽ」と「てんぷら」です。

 ゆたんぽは、当時尼崎が国内シェア6割を占めていた金属製のもので、「こんな可愛い物を選んで誰が文句つけんねん」という訳のわからん講評で選ばれました。

 固いもんだけを選ぶのもなんやから、柔らかいもんも選ぼうかと「てんぷら」もグランプリに選ばれました。これは「升千」というお店で作られているてんぷらです。尼崎は元々が漁港でここで揚がったものを練り物にして京都などに出荷する産業が発達したという経緯があり、今でもそういう会社が沢山あります。尼崎が漁港だったということは今の尼崎の姿からは想像つかないのですが、そういう物語がこのてんぷらからはにじみ出てるよねという理由からグランプリに輝きました。

 第1回目が好評だったことから、その後もこのコンペは続きました。

 第2回目のグランプリは、「薄板ばね」という小さな部品と「近松豆腐」です。「薄板ばね」はマニアックなものですが、ビデオカメラの液晶パネルの根元の位置の部品や、自動車のリクライニングレバーの中の部品などとして使われていて、4000種類もの製品があるそうです。あまり知られてないところで尼崎の技術が支えているんだということで、これは誇らしい。尼崎は大手企業の中小の下請け企業が多いし、これをグランプリに選んだら尼崎の企業は勇気付くんじゃないかということで選ばれました。

 こういうコンペが過去9年続いて、今年は10周年です。コンペが始まって以来、今までに249件も「メイドインアマガサキ」として認証してきました。「バネからおばちゃんまで」と幅広く選ばれています。この「おばちゃん」というのは、タイガースの格好で応援しているおばちゃんがいて、これも「尼崎らしい」と認証されるという次第で、もう本当に面白いコンテストなんです。

 最初は遊びで始まったんですが、いつの間にかこれが阪神尼崎駅を中心とする中心市街地活性化計画の基幹事業にまで成長していきました。ただ、品評会で選んでいるだけじゃ、ただ遊びで喜んでいるだけで終わってしまいます。ここから、コンペは選ばれた企業同士をつないだり、こういうものを積極的に発信していくシティプロモーションにつながっていきました。

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 例えば、選ばれた尼崎の産品を集めたアンテナショップを空き店舗にオープンしています。他にも、「尼の秘伝調味料セット」と名づけ、それぞれ違う会社で作られている「ワンダフルソース」や「しょうゆ」「ひろたのぽんず」をセットにして発売しました。「ワンダフルソース」は甲子園球場で使われている焼きそばの業務用ソースなんです。普段は一升瓶でしか売ってないのを、おっちゃんに「一般消費者は小瓶でないと買うてくれへんで」と無理言って作ってもらいました。それをしょうゆやぽんずをギフトセットとして売り出しました。これは、中心市街地活性化事業を進めるためのTMOという組織の収益事業としてやっています。TMOに僕らはコンサルタントとしていろんなお仕事をさせてもらいました。

 ちなみに、「ひろたのぽんず」も面白い商品でして、立花市場の八百屋のおじさんが開発したポン酢です。この人、かなりの食通でして、昔八百屋が儲かっていた頃に毎晩大阪のミナミまでふぐを食べに行っていたそうなんです。ところが、「どうもワシの口に合うポン酢がない」ということで、自分でポン酢を一生懸命作ったんだそうです。店に来るお客さんに味見をしてもらって、「こんなもん全然美味しないわ」「味ぽんの方がましや」と手厳しい評価を下され、試行錯誤の末に2年後に生み出したのがこの「ひろたのぽんず」です。お客さんから「これは美味しい、売ったらどうや」と誉められて、ひろたさんは54歳にして八百屋をやめてぽんずの会社を立ち上げたんですよ。このベンチャースピリットがスゴイということで、盛り上がっているところです。

 ひとことで「メイドインアマガサキ」のポイントを言うと、いわゆる「地域資源」の磨き方に的を絞ったということですよね。ただのポン酢だったら、こうはならない。でも、ひろたさんの物語が付くことで、付加価値が生まれるということをここで学びました。それが、ひとつのビジネスになったかなと思っています。

 他にも尼崎の特産関係ではいろんなプランニングをさせてもらっていますが、続きは綱本からどうぞ。


■人がつながるプランニング

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 先ほどは、プレイヤーとして遊び半分・仕事半分で作っていると紹介した「尼いも」ですが、これがどう仕事になっていったかという話です。

 みなさん芋掘りをしたことがあるかと思いますが、普通食べるのはおいもだけで、草や蔓、茎は捨ててしまいますよね。昔は、茎の部分も食べていたそうなんです。特に食糧難の時代は、茎に栄養分があると佃煮やきんぴらにして食べていたと聞きました。それを「尼いも」をPRするひとつの商品として使えないかと着目しました。

 これは、尼崎の商工会議所が「尼食(にしょく)倶楽部プロジェクト」として、日本商工会議所の助成を得て始めました。今、尼崎市内には尼いもを育てている農家がいますから、その方たちに茎を無償で提供していただいて、それを尼崎市内の佃煮屋さんで実際に茎の佃煮を作ってもらって、料理研究家や大学の先生や学生たちに試食をしてもらいました。なんとかして尼いもを捨てることなく隅々まで食べ尽くしたいと思って、佃煮の商品開発をしています。

 ひとつ嬉しかったのは、本当は「こんな地味なもん食べる人がいるのだろうか」と思っていたのですが、これを東京の展示会に出品してみたところ、割と東京のみなさんに「美味しい」と言っていただきました。気をよくしまして、なんとか今年の秋にはこれを商品として発売できるよう、今一生懸命パッケージを作ったりレシピを調整したりしています。

若狭

 元々我われは尼崎のプレイヤーとして活動していたのですが、そのいろんな芽を何とか仕事としていきたいと思うようになったのです。例えば、メイドインアマガサキコンペであれば中心市街地活性化事業という役所の仕事であったりとか、TMO尼崎という会社の仕事にしたりしました。この尼いもの茎の佃煮の場合は、商工会議所に提案しながら、我われもプランナーとして仕事をさせていただいてます。

 他にも、自分たちが見つけたものをどう見せるかというところで仕事に結びついた例があります。


■地元愛を育てる編集の仕事 『メイドインアマガサキ本』

若狭

 我われの仕事のひとつに、雑誌を作ったり自費出版で本を出したり、ガイドブックを作るというものがあります。

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 写真左側は『メイドイン尼崎本』と言いまして、コンペで選ばれた商品を紹介する本で、1冊480円で売り出しました。大手の出版社から関西の都市を紹介する本はいろいろ出版されていますが、尼崎はあまり紹介されることがない。そこで尼崎だけで本を作ってみたのです。売れるかなと心配しましたが、結果的に1万5千部売れたんです。割りと売れ筋本になって、梅田の紀伊国屋さんでは「週間ベストセラー2位」にもなりました。3位がさくらももこの本ですからすごいことですよ。なんでも店長が尼崎の人だったそうで、売場をしっかり確保して売ってくれたんですね。こういう情報って売れるんだと気をよくしたTMO尼崎は、すぐに『メイドイン尼崎本2』も出すことになりました。

 最初の本は初版5千からスタートしましたが、これが1万5千売れたことで、『2』は初版2万にしたのですが、全然売れずに在庫を抱えて困っているという失敗もしてしまいました。

 また、尼崎の紹介をする出版物としては、『尼崎一家の人々』というガイド本も出しました。これは3年前に阪神なんば線という近鉄と阪神の相互乗り入れが実現したのをきっかけに作成したのです。

 なぜかというと、阪神尼崎駅というのは観光客目線というのが全くなかったからです。尼崎という街自体が、長いこと観光という視点がまずありませんでした。みんな働いて生活する街ですから、よそから来る人を意識しないでも良かったからです。でも、今は都市観光が脚光を浴びつつある中で、尼崎はそこそこ大きい都市なのに全然そうした気配もありませんでした。駅を降りて、地図を探そうにもどこにも置いてないんですよ。隣町の伊丹駅とは大違い、伊丹だったら腐るほど置いてあるのに。だったら、ガイドブックを作ってみようと思いたちました。

 それが中心市街地協議会が中心になって作成し、出来上がったのが写真右の『尼崎一家の人々』です。これはけっこう変わったガイドブックで、尼崎一家という架空のキャラクターである尼崎三和(みつかず)、尼崎愛、尼崎昭和(あきかず)たちが街を案内するという設定になっています。これって大切なことで、従来のガイドブックでは街を紹介する時、誰の目線で紹介しているのか分からないって多くないですか。駅前でもらえる観光マップって、誰に向けた目線で描かれてるんだろうと思いませんか。そういうのじゃなくて、高校生の僕が好きな街とおばあちゃんが好きな街のお店は全然違うわけだから、そこをキャラクターを設定することで分けて紹介しようと思ったのです。そうしたガイドブックを作ることで、観光PRも展開しました。

 ただ、ガイドブックや本を作ってそれが売れたと喜んでいるだけだったらもったいない。我われは出版社でもないので、それを発展させていくことを考えなくてはいけません。つまり、本当に人に来てもらうためにいろんなツアーを企画しました。

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 図左側は、2008年に尼崎商工会議所の依頼で作った「尼崎観光を始めます」のポスターですが、メイドインアマガサキのコンペに登場したものづくりの会社を見て回るツアーを企画したのです。例えば、3回目のコンペでグランプリを取った「菰樽」の会社で、樽を締めるところを見たり、参加者が実際に締めたりする。あと、ワンダフルソースの会社では絞りたてのソースを味見する。その後、薄板ばねが出来るところを見る。そういうツアーを設定して、商品として売り出したんです。

 これは1回2千円のツアーで設定しましたが、平日の開催にもかかわらず定員40人のところ100人超の申込みがありました。

 反響が大きく良かったと言いたいところですが、このツアーは企業側の受け入れメリットがないんです。一般のお客さんがばねの会社でばねを見て、「気に入ったから2万個いただくわ」と言うわけないじゃないですか。だから、企業側のメリットをどう打ち出すかが難しいところです。でも、菰樽の会社に関してはコンペで良い反響が出てまして、小さな「ミニ菰樽」も商品開発したんです。それをツアーの参加者で作るツアーもお手伝いしました。

 また、せっかく尼崎の架空のキャラクターを作ったんだったら、彼らの案内で街を散策するツアーも欲しいと企画しました。実は、このキャラクターは実際に尼崎に住んでそうなキャラクターなんです。尼崎あいちゃんは、阪神難波線に乗って難波に通うOLという設定です。「あいちゃん、家どこ?」と聞かれて「尼」と答えるのは恥ずかしいというメンタリティの持ち主でもあります。尼崎ミツカズ君は野球バカという設定で、野球の練習が終わったら商店街で買い食いしてる子です。尼崎昭和(あきかず)は旋盤工で、融資の相談で信用金庫に行ったらそこで出会った窓口係のみそのママと結婚したというストーリーを考えました。

 このキャラクターたちを実際に演じてくれる人いないかなと募集したんです。そしたら、20人ぐらいが応募してくれました。主婦やサラリーマン、中にはミツカズ役の高校生を現役高校生で野球部のキャプテンが「僕やったげるよ」と来てくれました。

 こうして、その人たちの案内で街を見るというガイドツアーを企画しました。旋盤工のあきかずのおっちゃんは尼崎の飲屋街を歩くというガイドになって、みんな知らん人同士が最後は肩組んで六甲おろしを合唱するツアーになって面白かったですね。あいちゃんはスイーツの食べ歩きをガイドして、最後は貴布禰神社で恋愛成就の祈願をするというコースを設定しました。

 このツアーは、今TMO尼崎が事業として行い「商店街ツアー」として定期的に実施されています。さきの写真は工場見学の様子ですね。この工場見学の時は面白かったですよ。「これ何ですか」と質問したら「これはコンビニの入り口の取っ手」という答えが返ってきて、身近な物が意外なところで作られてるんだなあ、とみんなで感心できたりしてなかなか楽しめる見学でした。

 こういうふうに、シティプロモーションを仕掛けていくことを仕事としてさせていただいております。

 ただ、今まで報告したような「尼のプレイヤー」としてやってきた部分の延長で仕事をするのは、割りとやりやすいんです。10年もやっていると、尼崎の人たちは僕らのことも知ってくれるようになるんですよ。「また、あいつらが面白いことを考えよったで」と言って話を聞いてくれるから、まさに尼崎は僕らのホームなんですよ。「あいつらに頼んだら、オモロイことやりよるで」と思われて、それはそれで良いんですが、我われは尼崎だけではとうてい食べていけないのが正直なところです。だから、尼崎で展開できたことをなんとか他の街でできないかというところで、次はその辺の難しさをお話し致します。

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