プランナーとプレイヤーの両立は可能か?
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プランナーとしての仕事

 

■他都市で展開する難しさ

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若狭

 他都市で展開する難しさは、大きく分けて3つあります。

 一つは、尼崎の事例はよそでは通用しないということ。

 尼崎のことをみなさん「尼」って呼ぶんですよ。世界中探しても、街を愛称で呼ぶのはロサンゼルスの「ロス」と尼崎の「尼」しかない。それぐらい、良くも悪くも尼崎のキャラクターは濃い。つまり、尼崎で成功した「メイドインアマガサキコンペ」をそのままよそに持っていけるかという話なんですよ。すぐ隣の伊丹市では「メイドインイタミコンペ」は出来ないなと思っています。

 二つ目は、我われに求められている役割がそもそも違うということです。

 これは、僕らも本当に勉強になったことですが、つまりよその街にはちゃんとその街のプレーヤーがいるということです。どこの街にもプレーヤーはきちんといて、その人たちとの棲み分けと言いますか、立場をわきまえないで仕事をしようとすると痛い目に合うということを感じたりします。

綱本

 特にデザインがちょっとできるからと言って、地元の優れたデザイナーを無視して我われよそ者が地元をろくに知らずに下手くそなデザインをしてしまうと、当然地元は「何やってるんだ」と思いますよね。実際、僕らも尼崎でやっているところによそから来た人の仕事ぶりを見ていて、常々感じることなんです。だから、やっていることがバッティングしたらいけないんです。

若狭

 我われはよその街では完全にアウェーなんですよ。この会場にはコンサルタントもプランナーの方もおられると思いますが、みなさんもそれは経験があると思うんです。大体、初めての会議で、最初にみなさんの心をつかむことって無茶苦茶難しいじゃないですか。基本的に僕らは「おう、兄ちゃんらは何をしてくれんねや」とか「お前、なんぼ金もろてんねん」というみんなの視線で貫かれるはずです。そこがすごく大変で、よその街では役割が違うのだと認識して入らないといけないんです。

 アウェーの街ですから、我われが知っている人は誰もいない。人脈がない所から何かを組み立てるのは、なかなか難しいところです。

 だから他都市で僕らが展開する時に、僕らが一番最初にするのはその街のプレーヤー探しなんですよ。この街で頑張っているのは誰ですかといろんな人に聞いて、会いに行きます。それから「今度この街でこういう仕事をすることになったんやけど、何か良い方法ないですか」と聞いていきます。つまり、その人たちから話を聞いていかないことには、よそから来たよく分からんプランナーが勝手なことをやっていると思われたら、その時点で仕事は失敗だと思っています。

 あともうひとつ難しいのは、そのプレイヤーたちに一つのテーブルに着いてもらって、そこから一緒にやるためのチームを作ることです。これはとても大切なことで、よその街で仕事をする労力の6〜7割はそこにかかっていると言っても良いぐらいです。そこが成功すれば、仕事は成功に向かって動き出すと感じています。

 次に、その具体的な事例についてご紹介します。


■プレイヤーだらけの街 伊丹

若狭

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 よその街の仕事として、我われに最初に声をかけてくれたのは尼崎の隣、伊丹市でした。伊丹については「プレーヤーだらけの街 伊丹」としてご紹介させて頂きます。

 ご存知かもしれませんが、伊丹は今「伊丹まちなかバル」というイベントなどわりと元気に発信して「なんか今、伊丹はオモロイな」というイメージができつつあります。我われが呼ばれたのは2005年で、今から7〜8年ぐらい前になります。

 最初に呼ばれた時、我われは「メイドインアマガサキ」事業をやっていましたから、伊丹でも伊丹ブランドを発信する事業をお願いしたいというのが向こうの要望でした。

 さっき失敗したと言ったのは実はこの時です。伊丹でもメイドインアマガサキのノリで「伊丹でもオモロイものやディープなものを発掘しましょう」と会議に入ったら、伊丹は雰囲気が違う。伊丹は格式が高い街だったんですよ。「尼と一緒にすな!」とめちゃくちゃ怒られてしまいました。その時に、「あー尼崎と同じじゃいかんのや。よその街にはよその街の作法があるんや」と学んだわけです。

 ただ、外から見た当時の伊丹のイメージは、空港と日本酒の街だったんですよ。それ以外のイメージがない。それを街の人たちもなんとなく感じていて、我われは「それだけじゃなく他にも良いところはいっぱいあるよね」というところから始めました。関学の学生さんたちと一緒にいろんな調査をしたんです。例えば、伊丹には百年ぐらい続いている老舗のお寿司屋さんがあるとか、他にも老舗があったり、職人さんもいるとか、今まで日本酒の街というイメージに隠れて出てこなかった部分を一生懸命掘り起こしました。それをまとめて『伊丹まちなか手帖』というちょっとしたパンフレットに作り上げました。

 この『伊丹まちなか手帖』を作る時は、いろいろ研究もしたんです。今出ている伊丹のパンフレットやマップを見たら、だいたい同じような感じでした。

綱本

 かなり用途が限定されているマップが多かったんですよ。「歴史を見て歩く伊丹」とか「美味しいもの伊丹」とか、使い道がこれしかないというマップはたくさんあったんです。それを見た時に、実際に僕らが見て歩いた伊丹の街の魅力がそこで切り刻まれているという印象がありました。

若狭

 だから、まず最初に形として『伊丹まちなか手帖』にして、みなさんが思っている伊丹の街ってこういうことですよねとお出ししました。それを見たいろんな伊丹のプレーヤーの人たちは「そうそう、俺らが良いなと思っている伊丹の街はこれやねん」と共感してくれたんです。それが出来たことは、我われにとって良かったことになりました。そこで、地元の人達からある程度信頼してもらえたかなと思っています。

 そうすると、我われにもプレーヤーたちのことが見えてきました。彼らもプレーヤー同士つながっていて「あいつら、なかなか分かってるぞ」と情報が行き交いしたのか、いろんな情報も入ってくるようになりました。例えば写真左は「伊丹市文化振興財団」の仕事です。伊丹は市内の中心部にかなりたくさんのホールや美術館があるのですが、そこをまとめている文化振興財団が「街の情報を出せるツールを作りたい」ということでそのお手伝いをいたしました。学芸員やスタッフが街に飛び出して、いろんなメディアを作るということのお手伝いです。

綱本

 そこの財団の前の情報誌は、本当に公演情報を羅列しているだけの形でしたから、それを財団の職員の顔が見えるような雑誌に変えたいという依頼でした。我われは、最初の何もない白紙の状態から練り直していったのです。

若狭

 あと、『伊丹まちなか手帖』を作った時に出会ったいろんな街のプレーヤーの人たちの話を聞いていると、自分たちが思っている街の良い所はもっと他にもあるということなんです。街の自慢をしたい人たちばっかりが集まっていますから、「じゃあ、みなさんが自慢できる仕組みを作りましょう」という話が進んでいきました。

 そして始めたのが「aruco」というプロジェクトです。これは「尼崎一家の人々」にニュアンスが似ていますが、要はその街の人たちが案内する伊丹の街ツアーです。例えば、美術館の学芸員の人が案内するパブリックアートの見つめ方というツアーがあって、町中の銅像ばっかりを見て回るツアーを組みました。また、鍼灸接骨院の人は「歩くのは身体にええことや」と言って、まち歩きイベントの時は一番最初に来て体操を教えてくれました。こんなふうにプレーヤーが輝ける舞台を作っていくことを伊丹では心がけました。

 本当は我われもプレーヤーとしてやりたいんですよ。ガイドなんてむちゃくちゃやりたいことなんですが、でも僕らがそこでやったらダメなんです。この人たちが街で生き生きと動ける舞台を作れるように心がけました。

 けっこう、街のみなさんはいろんな思いを持っていて、「こんなことしたいなあ」と思っていてもそれを形にすることが難しいことなんです。我われはイラストを描いたりデザインをしたりすることで、みなさんの思いを形にするお手伝いをしたと思っています。

 例えば「伊丹まちなかバル」という仕組みは、函館バルから移植してやったことですが、その広報物のお手伝いをしたりしました。また、まち歩きをしている時に出会った主婦の人の話もそうです。まち歩きに参加されたパワフルな主婦が「自分もこういうことをしてみたい。商店街で映像祭をする」と言い出されて、そのポスター制作などでお手伝いしたこともあります。それから、バルに参加してない飲食店の方からも「自分たちは屋台村をしたい」と要望が出て、屋台村の見せ方や広報の仕方などをお手伝いしました。

 こんなふうに、みなさんの思いを形にするお手伝いをしたのが伊丹での仕事です。この伊丹の仕事はもう8年にもなりますが、今も継続的に続いています。


■次々と挑戦する街 有馬温泉

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綱本

 次は別のよその街の事例で、「次々と挑戦する街 有馬温泉」とタイトルをつけました。実はこの見出しを付けるのに、ちょっと悩みました。ちょっと綺麗にまとめすぎたきらいがあります。当初、タイトルに悩んでいた時は「いろいろやり散らかしている街 有馬温泉ではないか」という話もしました。

 どういうことかを少し説明します。僕たちが有馬温泉で最初にお会いしたのは「御所坊」という有名な温泉旅館をされている15代目のご主人金井さんでした。金井さんは国土交通省の「観光カリスマ」にも選ばれて、ものすごいアイデアとすさまじい行動力で有馬温泉のまちづくりをひっぱっている方です。

 だけども、いかんせん身体よりもアイデアの方が先に走ってしまって、たくさんの事業を手がけるんだけどひとつひとつに十分な検証やブラッシュアップをしないままに次の事業に着手してしまって、残された人たちが困るというやり方をしているようでした。分かりやすく言うと、そういう街だなあという印象を僕らは持ったのです。

 金井さんと僕らが最初にお会いしたのは、僕らが「メイドインアマガサキ」に関わっている時で、名前の響きが面白かったせいか金井さんも興味を持って下さったようです。

若狭

 ゆたんぽをグランプリにしたのが面白かったそうです。

綱本

 金井さんからは「とりあえず有馬温泉に来て欲しい」と言われて、ひとつの会議に参加させてもらいました。

 有馬温泉は有名ですからみなさんいろんなイメージをお持ちだと思うのですが、一番大きなイメージはやはり、「高級=値段が高い」というものでしょう。実際そのイメージがある程度のブランド力を持っているのかもしれませんが、連泊を敬遠されて宿泊客が伸びないというお話をうかがいました。

 それならば、有馬で連泊するアイデアをみんなでまとめて、それを核として発信するのはどうですかと提案致しました。そのアイデアをまとめたのが「1週間滞在マニュアル」というパンフレットです。だけど実際に有馬温泉に1週間泊まろうと思うと、出費がかなり大変なことになりますよね。別にこれは1週間滞在してもらいたくて作ったんじゃなくて、有馬温泉で何日か過ごそうとした時に何が出来るかを考えたものなんです。

 例えば、有馬温泉の隣には六甲山がありますので、温泉とハイキングを組み合わせるプランができます。あるいは、今の季節だったら近くにイチゴ農家がたくさんありますので、イチゴ狩りと温泉を組み合わせることができます。そういう身近な滞在プランを考えたのです。

 それと、遠方から来た人向けのプランも考えました。有馬温泉の近くには、世界遺産の姫路城があります。大阪の天満「繁昌亭」で落語を楽しむプランも組み合わせることができます。なぜこういう演出をしたかというと、有馬温泉は、はるばる遠方から来られる方が割りと多い温泉なんですよ。九州や北海道、最近では海外からも来られます。そういう方々にとっては、関西在住の我われと違って、有馬+姫路、有馬+大阪というのは充分行ける範囲なんです。ですから、有馬と周辺地域の連携を実際にやってみたのです。

 そうしたプランを考えていましたら、もっと有馬のいろんな魅力作りを若い人たちとやっていきたいとの要望が出てきました。特に今の日本では若い人の温泉離れが憂慮されているとのことで、「有馬温泉ゆけむり大学」という試みが始まりました。これは端的に言うと、最近流行っている「街ゼミ」という仕組みとよく似ているんです。有馬温泉という空間を使って、有馬の人たちがそれぞれの特技や技を見せていくという試みです。この「ゆけむり大学」では、有馬温泉の旅館の女将さんが「女子力アップ講座」をやったり、温泉の若いスタッフが学生さんたちを連れて六甲山で「ノルディックウォーク」のインスタラクターをしました。杖を突きながら山を駆け上がっていくというやつですね。

 そういう試みをやっているところですが、このゆけむり大学には大阪音楽大学×近畿大学×神戸芸術工科大学×武庫川女子大学の4大学が参加しています。武庫川女子大はスポーツ系の学部の学生さんが参加しています。近畿大学は…何の学部でしたっけ?

会場から(近畿大学)

 経営学部です。新製品開発ゼミでやらせてもらっています。いろんなマーケティングの手法を実践的な場で学ぶのが趣旨です。

綱本

 このように、学生たちが新しいサービスを商品として開発していこうという視点で、いろんなことを考えてくれています。有馬温泉からちょっと山手の方に登りますと、六甲山から綺麗な神戸の夜景が見えるところがあり、それを商品として売り出せるのではないかと考えてくれています。去年はそれを1回やってみようとして、「これは商品として売り出せるのではないか」と有馬温泉側もわざわざ会社を立ち上げました。「有馬もうひとたび社」を立ち上げて、その中で学生さんたちのアイデアやプランを商品化して売り出していく試みを始めているところです。

若狭

 観光地は今、「着地型観光」に方針を転換しようとしていて、観光地からどこかに連れて行くという提案が注目されています。有馬としても、その幅をどこまで見せられるかがこれからの生きる道になっていくだろうと思います。実は、夜景ツアーなどもそれぞれの旅館でやっていたことでもあるんですよ。「どこか夜景が見られるとこない?」と聞かれたら「それなら、どこそこが良いですよ」と答えられるだけのノウハウは街にたくさん蓄積されていました。でも、各旅館がバラバラにやっていたから、外からはそれが見えなかったんですね。全体として有馬にどんなメニューがあるのかが見えなかったのですが、それを我われや大学生という外からの目で「良いのがあるじゃないですか」と指摘し、それをお客さんにも見える形にしましょうねというのが我われの仕事の大きな柱なのかなと思います。

綱本

 最初、「有馬温泉はアイデアをやり散らかしている」と雑な言い方をしてしまいましたが、たぶんこれまでのやり方だと、アイデアがプランに落とされていく時に形として表現されてこなかったという経緯もあると思うんです。ですから、旅館のオペレーション上困ったという話もいくつか聞きました。僕たちのようなよそ者の関わり方というのは、アイデアを形に落としていくことが、まずは大事かなと考えます。


■多文化が絡みあう街 新長田

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若狭

 もう一つの違う街の事例は、神戸市の新長田です。震災復興でも注目を浴びましたが、最近では「鉄人の町」としても脚光を浴びました。こちらとのお付き合いも、もう2005年ぐらいからになるでしょうか。ちょうど、尼研を始めて4、5年経った頃にいろんな町からお声がけをいただくようになりました。

 この街で最初に関わったのは、「丸五市場」です。新長田は駅の南側の西半分は再開発エリアで、東半分は再開発がかからなかった地域で今も震災前の市場や商店街の雰囲気が残っています。どちらかと言うと、ぼろぼろの街なんですよね。その小売市場は空き店舗だらけで、もうガサガサなエリアになってしまって「どうしようか」ということで声がかかりました。

 市場の理事長さんや商工会議所からいろんな相談を受けて、いろいろ話を聞いていると、どうも新長田の駅南側はアジア系外国人がたくさん住んでいるらしいということが分かってきました。もともと新長田はケミカルシューズの工場がたくさんあって、そこで働くために来た人たちです。それこそ駒ヶ林小学校は、外国人が多く、それもベトナム人が多いそうなんです。

 そういう状況を聞いたので、じゃあここはアジア的な要素を市場の再生に使えないかなとまず考えました。

 ですから、小売市場の再生と多文化共生という二つのお題をもらったことになります。

 アジア系外国人と言うと差別の問題もあったりしますから、今まで新長田ではそれを打ち上げてうまいこといったためしがなかったのです。でも食べ物の話やったらそんなにもめることもないだろうと、いろいろ調査をしてみました。すると、新長田地域にはアジア関係の飲食店がかなり集積していることが分かりました。ベトナム、タイ、韓国、中国とたくさんあって、こうしたエスニックな雰囲気の飲食店をこのガサガサな市場に誘致しようと考えたんです。市場の店舗は家賃ゼロみたいな状態になっていましたから、そういうコンバージョンにチャレンジしようと始めたのが「丸五アジア横丁」というテナントミックス事業です。この事業には、兵庫県の空き店舗補助の制度も合わせながら行いました。

 まず「アジアごはん屋 始めませんか」というチラシを作って、街を回り誘致活動をしてみました。それで3店舗が最初に入ってくれたんですね。ミャンマーのカレー屋、台湾の水餃子などマニアックな店が入ってくれたんです。だからと言って企業マインドの高い店かというと、そうじゃなくて旦那さんがミャンマーの人で近所の工場で働いていて、奥さんがミャンマーカレーが好きだから作りたいということでかなりスモールビジネスなんです。そういうことを始める場所として、この「丸五アジア横丁」を仕掛けていきました。

 この紹介ポスターでは、アジアの飲食ネットワークを紹介しながら、以前からあった既存のお店も紹介しています。以前からの丸五市場もイメージチェンジを図っていこうと考えています。

 今では夏の時期になると、6月から毎月1回のペースで「丸五ナイト屋台」を始めています。その日は一日屋台村になって、人が歩けないほどの賑わいを見せています。それが将来的にどうなるかは、実はナイト屋台に試しに出店した人が「じゃあこの市場でお店をやってみよう」となるからくりです。今それですごい人気店になっているのが、焼酎専門店の「今井やん」です。乾物屋さんだったところを居酒屋に改装して、最近はその隣も「今井やん」になりました。そのうち、丸五市場は全部焼酎専門店になるかもしれません。

 今の世の中、生鮮小売市場は業態としてはまったく成り立ちにくくダメになっていますから、こうした形で飲食店街へ変えようという仕掛けを考えてみました。


■地域のブランドを探る街 茨木

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 今からちょうど1年ほど前から、茨木の方にも行っています。ここは「地域のブランドを探る街 茨木」とタイトルにしましたが、みなさんは茨木のイメージがありますか。そもそも「いばらぎ」なのか「いばらき」なのかも分からへんでしょう。この街の場合も我われの「メイドインアマガサキ」を評価して呼んで頂いたのですが、「尼崎のように街のイメージを発信したい」と依頼を受けました。

 ここで何かできないかと、「茨木産研究会」(略して「イバサン研究会」)を立ち上げ、今我われは研究会のコーディネーターをしています。

 ここでも他の街と同様、プレイヤー探しから始めて、茨木の面白そうな人に片っ端から会いに行きました。「今度、茨木のブランドを考えて発信する事業をしたいんやけど、協力してくれへん?」というめちゃくちゃ怪しい勧誘の仕方なんですけど、それでも何とかテーブルを囲むだけの人数を集めました。集まった人たちがけっこう面白くて、いろんなタイプの人が来てくれました。元々広告業界にいて今は茨木でアジアの飲食店をしているオーナーさんとか、現役バリバリで活躍しているデザイナーとか、高感度な方々が茨木には住んでいます。こういう人たちを集めてチームを作ったら、絶対面白いものができると思ったんです。

 そういう方々と一緒に街の調査をしました。出てくるものはいろいろですよ。味付け海苔を作ってるとか、塗料を混ぜる機械を作っているとか、地味だしどうすればいいのか分からないものが出てきたのですが、こういうものをその人たちは「オモロイ」と言うんですよ。のりは「ひさごのり」という所のものですが、そのキャラクターの「ひさちゃん」がめちゃくちゃ可愛いと人気で、「これでキャラクターグッズを作ろう」とみんな勝手なことを言って盛り上がっています。とりあえず、こんな感じで街の企業や地域資源を楽しむような気運づくりをお手伝いしています。

 今目指しているのは、地域のフリーペーパーの発刊です。我われがやっている『南部再生』を紹介しましたら、「これ、めっちゃ良い」「僕らも作ろう」という話になって、デザイナーを中心にフリーペーパー『いばらきさん』の創刊を準備しているところです。

 こういう感性が響く人たちのチーム作りはけっこう大切です。僕らは行政などの仕事で委員を集めましょうということになると、割りとよく見る人たちばかりになることが多いんですよね。実際には手を動かさない人だったり、言うだけの人が多いんです。そういう人たちからは何も生まれないので、出来れば地域の中で実際に動いている人たちをピックアップしてチーム作りをするのも我われの大きな役割だと思って仕事をさせてもらっています。


■震災復興支援1 神戸市須磨区

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綱本

 ここからは事例を二つ、震災復興に関わる仕事の話をいたします。今までした話はけっこう遊び心重視で、自分たちが見つけたものをいろんな視点で面白く見せるという試みだったと思います。しかし、我われはきちんと成果を出して欲しいと言われる仕事もたまにはやっているのです。そんな話も紹介したいと思います。

 この事例は神戸市須磨区の千歳地区で公園を作ったという話です。

 実はここの公園づくりには、僕は学生時代の頃からアルバイトなどで関わっていました。2000年から参加して、2005年に完成した公園です。

 初めて参加した2000年は、ちょうど阪神淡路大震災から5年経った頃です。その頃の会議の様子を思い出しますと、個人個人のお家の混乱はだいたい落ち着きを見せていて、地区をどう復興させるかをようやく話せるようになってきた時期です。神戸市の場合は、市役所がかなり早い段階で都市計画決定を打って、道路幅を広げようとか防災公園を作ろうという計画を出していました。しかし地元が復興計画を前向きに取り組めるようになってきたのが、ようやく5年目になった頃だったんです。特に僕らが関わった須磨区千歳地区は、地元の連合まちづくり協議会の結びつきが強固であったがゆえになかなか折衝が前に進みませんでした。それで、専門家が第三者的に派遣されるという形で、僕らもここに入ったのです。

 僕らが関わった頃は、公園の図面も何もなかったんです。一つ決まっていたことは、地元にあった千歳小学校の跡地を防災公園に変えるということだけでした。子どもさんの数が減って統廃合で一つの大きな学校を作るという計画が決まっていて、千歳小学校を廃校したらここに1ヘクタールの土地ができるから、それを防災に役立つ公園にしようという計画でした。こうした企画概要もメモ書きみたいな箇条書きで決まっていたのですが、それを実際にはどういう形に落としていくかに関わらせてもらいました。

 写真に見える大木は千歳小学校に生えていたメタセコイアです。あと、ここにはクスノキの大木があります。その2本の大木を小学校時代の記憶として残そうという話もあって、この木を活かしながらどういう公園を作るかという話が始まりました。

 ただ、こういう話が最初から理路整然と出来たわけじゃなくて、最初の頃はよく地元の人に怒られました。僕もまだ学生のぺーぺーでしたから無邪気にいろんな絵を描いて持っていっていたのですが、やはり素人の考える絵は思いつきでいろんな提案をしてしまうので、会議では当然「それはどんな意味があるのか」「地元が本当に欲しいのは何なのか」という意見が噴出しました。毎回怒られながら、僕らは千歳地区の被害の状況や被災した時に困ったことは何かというヒアリングを重ねていきました。それで地区に必要なことはこういうことではないかとまとめていったのが、右側の図です。

 この千歳地区は、震災で住宅の9割方が焼失してしまったところなんです。地元の人達は自分たちの家財道具から想い出の写真まで全部焼かれてしまった。ですから、火事に対する危機感、警戒心が非常に強かったのです。地元の人からの要望として「避難できる場所の回りに十分な緩衝緑地帯を取って欲しい」「井戸水が常に出るようにしてほしい」「水が枯れてもトイレだけはすぐに使えるようにして欲しい」などいろんなことが出されました。僕らはそうした多様な要望をどこに落とし込むのが良いのか考え、実際に整理していく作業になりました。

 この作業が被災後5年経ってから行われたというわけですが、実際の地元の人の意向を聞きながら形を決めていくことの大切さは、ここで勉強させてもらったわけです。去年起きた東北の震災復興でも、我われはちょっとした関わりができて再び同じような作業に取り組んでします。


■震災復興支援2 岩手県宮古市

綱本

 実はここの復興支援は、ウチだけが入っているわけではありません。全国商店街支援センターというところからの専門家派遣という形で入っています。

 現場の人たちといろんな会議をしたり、折衝したり、行政の人たちと会ったりなどするのですが、折衝については別の人がやっています。もともと新長田のまちづくり会社におられた東朋治さんで、彼が今中心的に動いて下さっています。実はその方が編成したチームに僕たちも混ぜてもらったわけです。ですから、ご紹介する絵は僕らの成果というより、そうした人たちから受け継いでやらせてもらったというレベルの話です。

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 写真左は、津波で全壊してしまった地区のガレキを取り除いた状態です。右は高さ5〜6メートルの堤防が、津波で破壊された様子。テレビ報道でご覧になった方もおられるでしょうが、市役所の職員が市庁舎の上から、濁流が防波堤を超えて市街地に侵入していくのをビデオで捉えていました。その防波堤です。

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 こうした凄まじい被災地に入ったプランナーの方々は、だいたいが最初の頃は壮大な地域復興のパースを描かれていたと思います。でも、それは下手すると押しつけかなあという思いもありました。

 やはり、我われは押しつけるのではなくて地元の人のために何を描くのかが問われることだと思います。実際に我われが描いているのは、このレベルの絵なんです。これぐらい誰でも描けると思われるでしょうが、この絵で目指したのは地元の人達の議論の材料にしてもらうことです。そういう確認をして描きました。

 津波後の被災地ですから、建物は全壊してしまいました。自分のお家やお店は丸ごと流されてしまったところです。しかし商業の復興を急がないと、お客さんがどんどん郊外の大型店に取られてしまうという心配が地元にありました。復興を急がないといけないのだけれど、宮古の場合、被災前から中心市街地に訪れるのは高齢者が多いのが実情でした。やはり、日本の地方都市はモータリゼーションが進んでいて、車利用の買い物が常識なんです。復興プランはそのことも考えないといけません。

 復興計画を考える時、自分の敷地だけで復興するのも良いんですが、僕たちがこういう可能性もあると提案したプランがあります。それが何軒かまとまって共同で建て替える案です。何軒かでちょっと大きめの建物にして、真ん中に駐車場を置いたらどうですかと提案しました。これで車利用の買い物客も利用できます。現状を聞くと、郡部の方からタクシーで乗り付けて、タクシーをお店の前に止めて買い物される人がかなり多いそうです。自分の車を止めたら駐禁を取られますから、車の問題はけっこう大きいことなんです。でもお客さんに来てもらうためには、なんとか車問題と折り合いをつけないといけませんから、こういう絵で提案してみたのです。

 実は、この絵の前にもいろんな提案をしていました。各家ごとに建て替える方法などいろんなバリエーションで提案していました。要は、地元の人が考えるための材料にして欲しかったのです。だから必ずしも「こうあるべき」という提案ではありません。逆にどんどんダメ出しをしてくれたら、また考えますというやり取りをしています。


■「いのちを守る都市づくり」 表紙絵

綱本

 先ほどの写真の左下に「いのちを守る都市づくり」という本があります。これは大阪市立大学が出版したもので、我われもそのお手伝いを少しさせていただきました。

 大阪市立大学は全学を挙げて震災研究に取り組もうと、去年1年間かけて被害や現状の分析をされていました。オール大阪市立大学ですから、医学部もあれば生活環境学部もあるし、地質など本当に幅広いジャンルの教員の方々が現地調査をされて、それをレポートにまとめました。

 しかし単にレポートとして出しても、誰にも読んでもらえない。これを書籍として出したいと大阪市立大学の方々は考えたんですね。それで書籍として出版されたのがこの本です。

 本屋さんに行かれたら分かると思いますが、東日本大震災関連の本の表紙はだいたいがタイポグラフィーで言葉だけがあるか、そうでなかったらガレキで破壊され尽くした街の風景の写真です。大きく分けるとその2パターンが震災関連の本なんですよね。アマゾンで検索しても、9割以上がそういうやり方で本を作っていました。

 しかし、大阪市立大学の方々は「そういう本にはしたくない」と話されました。「むしろ、今後の生きる力につながるような本にしたい」と話され、もうちょっと展望が開けるような絵が欲しいと要望されていました。それで、僕がイラストを描かせてもらいました。僕が描いたのは、坂道をみんなで駆け上がるという絵です。津波からの一次非難は、まず高台に逃げるということでしたので、それを端的に表現しようと思いました。


■両立こそが生きる道

若狭

 今日はいろいろと僕らの仕事を紹介させていただきました。僕らのキャリアもちょうど10年になります。

 実はこの10年間に、ウチの事務所での仕事も大きく変わりました。行政委託から現場仕事へと大きくシフトしたのです。私も適当なことばかりを言っていますが、ちゃんと総合計画のお仕事をしたりもしているんですよ。マスタープランや地区計画を作ったり、そのためのアンケート作成とか、そういうこともずっとやってきたのです。でも、そういう調査の仕事が随分減ってきたと思っています。それはみなさんも実感されているんじゃないでしょうか。それとも、あるところにはあるんでしょうか。

 では今多い仕事は何かというと、商業、つまり中心市街地の活性化とか地域商店街の再生、あるいは都市のプロモーションなどです。そして、どれにも関わりますが、新組織の立ち上げや地元の人々をコーディネートするなど、そういう仕事がすごく増えてきています。これが良いのか悪いのかは分かりませんが、街に関わる仕事としてこういう部分が増えているなと感じています。

 最後に、今日のテーマである「プレイヤーとプランナー 両立は可能か」ということですが、我われは「両立こそが自分たちの生きる道」だと思っています。どちらかだけというのは、これからは難しい。私たちがやっている仕事の中では両立出来なければこれからは生きていけないのではと考えています。若い人たちがこういう仕事をするにしても、この二つの目線は必要じゃないかと思っています。

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 その理由は3つあります。

 まず一つは、プレイヤーをすることで現場感覚がトレーニングできるんです。20代、30代なんていきなり仕事は任せて貰えないんです。だから、時間もあって関心の幅も広く、頭も柔らかい20代、30代のうちに、何か街に関わりながらプレーヤーとしての実績を作っておくことはすごく大きいものがあります。我われが地元尼崎でお仕事させてもらえたり、それがきっかけで他の街の仕事に結びついたのも、プレーヤーとしていろいろ活動してきたせいかなと思っています。

 二つ目は、実験的なことをどんどんやってきたからこそ生まれる発想というのがあると思うんです。運河クルージングなんかその最たるものですが、そういうことをしていると「近代化遺産を再評価したい」という仕事が我われのところに来たりするんです。それを、今までとは違うアプローチで提案できたりします。

 三つ目は、プランナーとして仕事をする時、プレーヤーの気持ちが分かるプランニングを出せることです。街の仕事はいろんなプレーヤーが関わる仕事ですから、我われがプランニングを実行したり、あまりにもいい絵を描きすぎるのはどうかというところがあります。結局、長く続くまちづくり活動とは、そこの街のプレーヤーが機嫌良く活動できることなんです。だから、我われがよその街に行った時も、プレーヤーの気持ちが分かることが大事なんです。プレーヤーの「こういうことをやりたい」という思いに対して、ちゃんとサポートの手が出せるようなプランニングをこれからもやっていかねばいけないと思っています。

 プレイヤーとプランナー、食べていかなあかんのはプランナーの方なので、ぜひみなさんからもどしどし仕事を依頼していただきたい。

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 ただ、我われはやっぱりプレイヤーが楽しくて、今もいろんなことでごそごそ動いています。尼崎に三和市場という空き店舗率が8割というどうしようもないところがあるのですが、ここで何か出来ないかと考えているところです。ここは昔闇市があって「阪神間の台所」と呼ばれた所ですが、そこで「尼崎横丁」という屋台村のイベントをしたり、乾物屋をみんなで改装して「チャレンジスペース虎の穴」を作って「ヒーロー酒場」「怪獣酒場」というマニアックなイベントを開催しています。こういうわけのわからんことをしながら、私はこの横丁でスープを作って売ったり、綱本はワインを売ったりしています。屋台系コンサルタントと自称していますが、そういうトライアルをしながらきちんと仕事もしていきたいと思っています。

 今日のテーマは「プレイヤーとプランナー」でしたが、その間の部分をどうしようという悩ましいところも聞いていただきました。どうもご静聴ありがとうございました。

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