実現しなかったバルセロナ改造計画 |
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城壁都市で建設用地が限られていますから、古い市街地は当然ながら建て詰まってきます。その上、バルセロナはスペインでは最初に(おまけにほぼ唯一の)産業革命が起きた都市でした。ですから、古い市街地の中にどんどん工場が立地していきます。市街地が建て詰まり通風や採光の問題が発生するだけでなく、窓のない部屋に何家族もが住んでいて、インフラも未整備でしたので一度伝染病が発生するとバタバタと人が死んでいくような状況にありました。イギリスで最初に近代都市計画が誕生した時と同じような状況だったのです。
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もう一つ重要だったのは、交差点に隅切りを導入したことです。セルダは新たな交通機関の登場が都市を変えていくことをかなり明確に予見していました。隅切りは、新たな交通がスムーズに都市内を移動するにあたり、不可欠でした。セルダの「都市化の一般理論」を読むと、当時の蒸気機関車の回転角度を考えながら計算式を編み出し、それに基づいて隅切りの細かな設計がなされていることが分かります。
ちなみにこの113.3mという単位ですが、京都の都心部を構成するグリッド(一区画)の縦の長さをご存知ですか。これは110m弱でして、バルセロナの一辺とほぼ同じくらいの長さになります。京都のグリッドとバルセロナのグリッドでは形成時期がまったく異なりますが、それでも洋の東西を問わず昔の都市の街区が有していたひとつの寸法感覚が似ていて、大変興味深く思っています。
セルダは平等主義的、あるいは思想を別にすれば技術的には純粋に工学的なアプローチで、新たな交通手段が登場する時代に相応しい都市をつくろうとしました。都市環境を改善し、貧富の差をなくすという社会改革を、セルダは都市形態を改造することで実現しようとします。旧市街には特に大きな意義を与えず、地区を横断、縦断する道路を何本か計画しました。
セルダはアメニティの正否を街区内に住民共通の中庭空間を確保することに託します。街区はその後徐々に建て詰まっていくわけですが、グリッドがまず2側面、そこからコの字型になった時も、セルダはなんとか中庭を残そうとします(図10)。最終的にはロの字型になり、中庭のために想定した敷地は完全に消失してしまいます。皮肉なことに、市は現在、失われてしまった中庭を取り戻そうと事業を行っているところです。この取り組みについては後にお話ししますが、セルダの構想の意義が再考され、現在の政策に重要なインパクトを与えているという点で、とても面白い事例です。
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プッチ・イ・カダファルクはセルダのグリッド市街地を解体しようとして、新たにコンペを開催しました。それが1903年の国際コンペです。このコンペで一等賞を取ったのがフランス人建築家レオン・ジョセリーの案です(図12)。セルダ案通りにグリッド市街地が形成されつつあるところは仕方ないとして、まだ市街化が進んでいない部分はパリのようにバロック的な都市設計を志向しました。同時代的な流れで見ると、シティ・ビューティフルならびにボザールからの強い影響が見て取れます。「これが実現された暁には、最も美しい地中海都市になる」と審査の際に評されたこの案は、けれど政治的経緯もあり、結局実現されないまま終わります。
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社会派を標榜する彼らは、前の世代の建築家、つまり建築や都市に美しさを求めた世代を「われわれの街は美しさを求めている場合ではない」と厳しく批判しました。「旧市街は人間がもはや住めないほどひどい環境で、極めて高い死亡率を示している状況」を変えるべく、生活環境の改善を提案します(図14右)。
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当時の彼らの主張で今でも非常に示唆的なのが、セルト達の「道路の拡幅あるいは新しく計画道路を建設することはあまりにも経済的なコストがかかりすぎる」という考えです。道路を作るにはそれだけ多くの収用や補償が出てきますので、それよりは建物をいくつか抜いて空間を確保する方がローコストだし、より具体的な界隈の再生につながるということだと思います。今でも計画道路の実施が問題となる地域がたくさんありますが、一つの興味深い観点だと思います。
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そこでコルビュジェが「わかった、ちょっと旧市街をエスキスしてみる」と作ったのが図16です。そこでは旧市街が4分の1ほど削り取られる大胆なプランで、そこにY字型の高層ビルができるという案でした。これは「マシア計画」と呼ばれる結構有名な案ですが、これは当時の政治体制を考えると、もしスペイン内戦が起きなければ実現されていた可能性が高かったのではないかと思います。
バルセロナは矛盾に満ちた街でして、自分たちが主導してやろうとした計画がことごとく日の目を見なかったがゆえに、いまのバルセロナの魅力の多くの部分が保たれている、というふうに、不思議な歴史をたどることになるのです。
マシア案もこの例に漏れず、スペイン内戦が1936年に勃発したことで実現が不可能になりました。内戦は1939年まで続きます。この内戦のせいで、モダニズム思想で活躍した面々はちりぢりになってしまいました。リーダーのセルトはアメリカに亡命し、南米でも実作を残しつつ、最後はハーバード大で教鞭を執ることになりました。
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セルダの市街地改造計画が旧市街に設計した3本の計画道路のうち、2本が未完のまま生きている状態でした。そのうちの1本は、伝統的に町工場が多く立地する下町で、市内で最も環境の悪い界隈だったラバル地区を、一気に計画道路で切り裂いて、オフィスが建ち並ぶプランでした。地区の実情をまったく考慮しない暴力的な計画だとして、反対運動が起きました。このプランが示された1959年はまだフランコ独裁政権時でしたが、それにもかかわらず反対運動が起きたのです。論点としては、「昔の案をそのまま実現するのはおかしい。誰が決定するのか。計画道路があるからと言って、そのままやるのはいかんだろう」というものでした。
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当然、リゾート計画に対する大反対運動が起きました。地元の新聞も連日、これに対し「我われの答えはNOだ」と書き立てました。「我が町バルセロナを海に開放しますか? それとも、我が町バルセロナを私企業の土地投機のために利用させ続けますか」という文章が新聞紙上で踊りました。
この当時、こうしたプランが出てくる背景に何があったかと言いますと、バルセロナ市が民間投資の後押しをすること以外に明確な政策を持っていなかったということがあります。だから、こうしたプランは行政の後押しということも手伝って、とんでもないプランが出てくることになるのです。
ここで反対運動を専門的に手伝ったのが、地元の大学研究室および若手の建築家でした。現在のバルセロナに残っている魅力的な空間の少なからぬ部分は、当時のこうした無名の専門家たちの奮闘によって支えられているといっても過言ではないと思います。海岸線の反対運動に関しては、地元の建築大学の「Laboratorio Urbanismo」、訳すと「都市学研究室」の活動が決定的に重要な役割を果たしました。彼らは勝手連的に、リベラ計画に対するカウンタープランを作成し、世に問います(図18)。
実を言うと彼らの案もメガストラクチャーな都市構造となっています。しかし、海岸線の重要性を主張していまして、さらに市街地からの連続性をプラン上で示しているのです。彼らのメッセージとしては「我われの公共空間はどこにあるのか。海に面する水辺こそが我われの最大の公共空間なのだから、民間投資のために犠牲にできない」というものでした。この主張が全市民を巻き込んだ論争になり、結局リベラ計画は1971年に頓挫することになるのです。この1971年というのは、もうフランコ政権の末期でして、こうした反対運動の相当の影響力を持ちながら、民主化後にもつながる大きなうねりとなりました。
よく「なぜバルセロナは民主化後すぐに、公共空間をベースとした都市再生に乗り出せたのか」と聞かれるのですが、その理由の一つに、民主化直前の公共空間を求める大きな住民運動の存在があったことが挙げられます。
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これは、フランコの独裁政権時代で疲弊しきった地域をなんとか取り戻そうとする、民主化後の精力的な都市政策の大きな枠組みとなったという点で、評価されることの多いプランです。とはいえ、旧市街に限っては再検討の余地の多い内容となっていました。次は、それを踏まえて旧市街の話をしていきます。