バルセロナ旧市街の再生
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実現しなかったバルセロナ改造計画

 

■19世紀に始まった都市改造プラン セルダの案

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 では、ここからバルセロナの都市がどのように成り立ってきたかを説明していこうと思います。一言で言うと、「バルセロナのプランニングはほとんど実現されてこなかった」。もともと近代都市への改造計画は19世紀半ばに城壁都市の都市問題が深刻化したところをスタートとしています。

 城壁都市で建設用地が限られていますから、古い市街地は当然ながら建て詰まってきます。その上、バルセロナはスペインでは最初に(おまけにほぼ唯一の)産業革命が起きた都市でした。ですから、古い市街地の中にどんどん工場が立地していきます。市街地が建て詰まり通風や採光の問題が発生するだけでなく、窓のない部屋に何家族もが住んでいて、インフラも未整備でしたので一度伝染病が発生するとバタバタと人が死んでいくような状況にありました。イギリスで最初に近代都市計画が誕生した時と同じような状況だったのです。

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 そこで、城壁を壊して、城壁都市の周辺に広がる平野に近代的な都市を建設することになります。現在のバルセロナの市街地の原型は、イルデフォンソ・セルダ[Ildefonso Cerda]という土木技師のプランにありますが、実はバルセロナの意向は別のプランにありました。バルセロナは、セルダのプランに先行して独自にコンペを開いていました。その一等賞に選ばれたのが、Fig09のアントニ・ロビラ・イ・トゥリアス[Antoni Rovira i Trias]によるプランです。旧市街と新市街の接点部分に広い美しい広場を作って、そこから放射状に市街地が伸びていくパターンです。しかし、中央政府はセルダの案を採用します。なお、セルダは地元カタルーニャの出身でしたが中央政府の役人でもありました。美しい都市実現の夢は、ここでまず潰えます。

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 セルダの拡張計画案(1859年)は、最近では都市計画に限らず、建築史の書籍でもしばしば目にするようになりました。こうしてバルセロナの拡張計画が作成されたのが、ちょうど19世紀の真ん中あたりです。実はセルダと、パリの近代都市計画を進めたオスマンは交流がありました。オスマンがパリのプランニングをしたのはこの少し前のことですが、セルダは彼のプランの良い点、悪い点を横目で見ながら自分のプランを進めていったのですね。オスマンがある時セルダに「一緒にパリで働かないか」と誘ったエピソードも見つけたことがあります。それぐらい当時のラテン系の技術者のネットワークがあったということです。

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 400m単位のユニットが市街地を構成しています。400mのユニットを3等分し、20mの通りを引きました。ですから、区画の一辺は113.3mになります。彼はそうした区画の2側面だけに建物を建てるようにし、区画の中央は庭園空間にすることを構想します。面積で見ると、庭園面積だけで市街地全体の42%を占めています。高さは4階建ての16mに制定されました。低層で、ゆったりとした空間に、貧しい者も富める者も一緒に住むことを夢想します。

 もう一つ重要だったのは、交差点に隅切りを導入したことです。セルダは新たな交通機関の登場が都市を変えていくことをかなり明確に予見していました。隅切りは、新たな交通がスムーズに都市内を移動するにあたり、不可欠でした。セルダの「都市化の一般理論」を読むと、当時の蒸気機関車の回転角度を考えながら計算式を編み出し、それに基づいて隅切りの細かな設計がなされていることが分かります。

 ちなみにこの113.3mという単位ですが、京都の都心部を構成するグリッド(一区画)の縦の長さをご存知ですか。これは110m弱でして、バルセロナの一辺とほぼ同じくらいの長さになります。京都のグリッドとバルセロナのグリッドでは形成時期がまったく異なりますが、それでも洋の東西を問わず昔の都市の街区が有していたひとつの寸法感覚が似ていて、大変興味深く思っています。


■セルダ案とロビラ案の比較

 二つのプランを比べますと、ロジックがまったく違うことが分かります。ロビラの計画のもとに体現されようとしていたのは、支配階級である中産階級の意向を踏まえた、明確な中心性を持つ美しい都市空間でした。その際、旧市街はバルセロナの歴史そのものだとして、保存が原則とされます。

 セルダは平等主義的、あるいは思想を別にすれば技術的には純粋に工学的なアプローチで、新たな交通手段が登場する時代に相応しい都市をつくろうとしました。都市環境を改善し、貧富の差をなくすという社会改革を、セルダは都市形態を改造することで実現しようとします。旧市街には特に大きな意義を与えず、地区を横断、縦断する道路を何本か計画しました。

 セルダはアメニティの正否を街区内に住民共通の中庭空間を確保することに託します。街区はその後徐々に建て詰まっていくわけですが、グリッドがまず2側面、そこからコの字型になった時も、セルダはなんとか中庭を残そうとします(図10)。最終的にはロの字型になり、中庭のために想定した敷地は完全に消失してしまいます。皮肉なことに、市は現在、失われてしまった中庭を取り戻そうと事業を行っているところです。この取り組みについては後にお話ししますが、セルダの構想の意義が再考され、現在の政策に重要なインパクトを与えているという点で、とても面白い事例です。

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 グリッドはどんどん建て詰まり、最終的に中庭空間は消失してしまうという運命をたどります。容積は計画当初の4.5倍になり、人口密度も4倍ぐらいになりました。これは何を意味しているかというと、アメニティの消失ということですね。逆に結果論として言えば、容積が増えたので爆発的に増える人口をこの新市街が吸収できたということも言えますが。図11が現在の街並みです。ご覧のように建て詰まっていて、ほとんど中庭がないことがお分かりだと思います。大通りは50〜60mあり、一般道は20mという市街地構造になっています。


■20世紀以降 国際コンペの開催

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 今までお話ししましたように、セルダは地元の意向中央政府からの対抗馬という不幸な経緯をたどったこともあり、その後の建築家、政治家はセルダ案を徹底して嫌います。特に嫌悪感を隠そうとしなかったのが、ジュゼップ・プッチ・イ・カダファルク(Josep Puig i Cadafalch)でした。彼は、主に審美的観点から、徹底的にセルダの計画を批判します。

 プッチ・イ・カダファルクはセルダのグリッド市街地を解体しようとして、新たにコンペを開催しました。それが1903年の国際コンペです。このコンペで一等賞を取ったのがフランス人建築家レオン・ジョセリーの案です(図12)。セルダ案通りにグリッド市街地が形成されつつあるところは仕方ないとして、まだ市街化が進んでいない部分はパリのようにバロック的な都市設計を志向しました。同時代的な流れで見ると、シティ・ビューティフルならびにボザールからの強い影響が見て取れます。「これが実現された暁には、最も美しい地中海都市になる」と審査の際に評されたこの案は、けれど政治的経緯もあり、結局実現されないまま終わります。


■旧市街に引かれた都市計画道路

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 新市街のコンペが開かれる一方、旧市街はどうなっていたかをお話しします。図13はゼルダが新市街のブロックを作った時、旧市街に3本の道路を計画しました。セルダは旧市街についてはこの計画道路以外、特に大きな提案は行っていません。「環境の悪い旧市街は、いずれ取り壊されるだろうから、取りあえず都市計画道路だけ引いておくぞ」というプランニングでした。実はこの3本計画された道路のうち、港に繋がるライエターナ通りだけが実現され、残りの2本は実現されないまま残りました。この実現されない都市計画道路が旧市街をずっと政策上苦しめることになります。


■20世紀中盤 モダニズム登場

 アール・ヌーボーの流れを汲んだ当時の建築家の後、颯爽と現れたのがモダニズムの建築家グループです。これは政治体制の変化と密接に関係しています。バルセロナを中心とするカタルーニャ、ビルバオを中心とするバスク、ポルトガルの北に位置するガリシアの3地域に自治を認めた第二共和制が1931年から始まりましたが、ちょうどモダニズム登場の時期とも重なっていまして、カタルーニャの建築家を中心にスペイン版モダニズム運動が展開されていきます。

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 雑誌『AC』(図14左)は、GATEPACという「現代建築の発展へ向けたスペイン人建築家・技師集団」によって創刊された専門誌です。リーダーは後年ハーバード大で教鞭を執ったホセ・ルイス・セルトでした。セルトはコルビュジェの弟子ですので、当然建築設計にも都市計画にもモダニズム思考・理論を積極的に展開していきます。

 社会派を標榜する彼らは、前の世代の建築家、つまり建築や都市に美しさを求めた世代を「われわれの街は美しさを求めている場合ではない」と厳しく批判しました。「旧市街は人間がもはや住めないほどひどい環境で、極めて高い死亡率を示している状況」を変えるべく、生活環境の改善を提案します(図14右)。

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 そこで出てきた概念が「旧市街の多孔質化」です。私の本でもけっこう書いていて、「多孔質化」と訳しましたが、既成市街地に計画道路を通すのではなくて、特に劣悪な街区を選択的に取り壊して、そこをオープンスペースとする、あるいは必要な公共施設を置く。建て詰まった旧市街の市街地環境に、「空気を入れていく」という案でした。

 当時の彼らの主張で今でも非常に示唆的なのが、セルト達の「道路の拡幅あるいは新しく計画道路を建設することはあまりにも経済的なコストがかかりすぎる」という考えです。道路を作るにはそれだけ多くの収用や補償が出てきますので、それよりは建物をいくつか抜いて空間を確保する方がローコストだし、より具体的な界隈の再生につながるということだと思います。今でも計画道路の実施が問題となる地域がたくさんありますが、一つの興味深い観点だと思います。

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 とはいえ、この「穴抜き」多孔質プランは提案されたにすぎず、すぐ後に発表されることになるマシア計画に取って代わられる格好になります。セルトは同時期にコルビュジェをバルセロナに呼び寄せます。当時のカタルーニャ自治州の大統領であったマシアの強力な政治的バックアップもあり、コルビュジェに「一緒にバルセロナの将来像を作りましょう」と呼びかけたのです。

 そこでコルビュジェが「わかった、ちょっと旧市街をエスキスしてみる」と作ったのが図16です。そこでは旧市街が4分の1ほど削り取られる大胆なプランで、そこにY字型の高層ビルができるという案でした。これは「マシア計画」と呼ばれる結構有名な案ですが、これは当時の政治体制を考えると、もしスペイン内戦が起きなければ実現されていた可能性が高かったのではないかと思います。

 バルセロナは矛盾に満ちた街でして、自分たちが主導してやろうとした計画がことごとく日の目を見なかったがゆえに、いまのバルセロナの魅力の多くの部分が保たれている、というふうに、不思議な歴史をたどることになるのです。

 マシア案もこの例に漏れず、スペイン内戦が1936年に勃発したことで実現が不可能になりました。内戦は1939年まで続きます。この内戦のせいで、モダニズム思想で活躍した面々はちりぢりになってしまいました。リーダーのセルトはアメリカに亡命し、南米でも実作を残しつつ、最後はハーバード大で教鞭を執ることになりました。


■20世紀後半 道路建設、リゾート計画をめぐっての反対運動

 内戦後、バルセロナに対する積極的な公共投資はあまり行われず、民間による開発主義的な建設活動に身を任せざるを得ない状況に置かれます。市街地の環境は徐々に悪化していくことになります。

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 そうした中、1970年代後半のスペインの民主化後において、公共空間を求めるバルセロナの市民運動に大きな影響を与えることになる住民運動がいくつか発生します。そのひとつが図17にあげた「旧市街地区プラン」をめぐる反対運動で、旧市街の都市計画道路を巡る問題として表出します。

 セルダの市街地改造計画が旧市街に設計した3本の計画道路のうち、2本が未完のまま生きている状態でした。そのうちの1本は、伝統的に町工場が多く立地する下町で、市内で最も環境の悪い界隈だったラバル地区を、一気に計画道路で切り裂いて、オフィスが建ち並ぶプランでした。地区の実情をまったく考慮しない暴力的な計画だとして、反対運動が起きました。このプランが示された1959年はまだフランコ独裁政権時でしたが、それにもかかわらず反対運動が起きたのです。論点としては、「昔の案をそのまま実現するのはおかしい。誰が決定するのか。計画道路があるからと言って、そのままやるのはいかんだろう」というものでした。

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 それともう一つ、海岸線をめぐる再開発の問題がありました。現在オリンピック村になっている地区ですが、海岸線をリゾート用途に再開発する「リベラ計画」が1967年に発表されました(図18)。ポブレノウと呼ばれるこの地区は昔からの漁村でして、かつ19世紀からは繊維工業や製造業で発展し「カタルーニャのマンチェスター」とも称されていた地区でした。その海岸線を一気に取り壊して、高層のホテルが建ち並ぶリゾート地にする、地元有力者の魂胆が色濃く反映された開発計画です。

 当然、リゾート計画に対する大反対運動が起きました。地元の新聞も連日、これに対し「我われの答えはNOだ」と書き立てました。「我が町バルセロナを海に開放しますか? それとも、我が町バルセロナを私企業の土地投機のために利用させ続けますか」という文章が新聞紙上で踊りました。

 この当時、こうしたプランが出てくる背景に何があったかと言いますと、バルセロナ市が民間投資の後押しをすること以外に明確な政策を持っていなかったということがあります。だから、こうしたプランは行政の後押しということも手伝って、とんでもないプランが出てくることになるのです。

 ここで反対運動を専門的に手伝ったのが、地元の大学研究室および若手の建築家でした。現在のバルセロナに残っている魅力的な空間の少なからぬ部分は、当時のこうした無名の専門家たちの奮闘によって支えられているといっても過言ではないと思います。海岸線の反対運動に関しては、地元の建築大学の「Laboratorio Urbanismo」、訳すと「都市学研究室」の活動が決定的に重要な役割を果たしました。彼らは勝手連的に、リベラ計画に対するカウンタープランを作成し、世に問います(図18)。

 実を言うと彼らの案もメガストラクチャーな都市構造となっています。しかし、海岸線の重要性を主張していまして、さらに市街地からの連続性をプラン上で示しているのです。彼らのメッセージとしては「我われの公共空間はどこにあるのか。海に面する水辺こそが我われの最大の公共空間なのだから、民間投資のために犠牲にできない」というものでした。この主張が全市民を巻き込んだ論争になり、結局リベラ計画は1971年に頓挫することになるのです。この1971年というのは、もうフランコ政権の末期でして、こうした反対運動の相当の影響力を持ちながら、民主化後にもつながる大きなうねりとなりました。

 よく「なぜバルセロナは民主化後すぐに、公共空間をベースとした都市再生に乗り出せたのか」と聞かれるのですが、その理由の一つに、民主化直前の公共空間を求める大きな住民運動の存在があったことが挙げられます。

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 フランコ将軍が1975年に亡くなり、30年弱の独裁政権に終止符が打たれます。その直後の1976年には、バルセロナを中心とするマスタープランが発表されます(図19)。このマスタープランは、周辺の26自治体と一緒に作った広域圏のマスタープランです。かなりの修正が個別的に加えられながら、現在でも有効な都市レベルのマスタープランです。

 これは、フランコの独裁政権時代で疲弊しきった地域をなんとか取り戻そうとする、民主化後の精力的な都市政策の大きな枠組みとなったという点で、評価されることの多いプランです。とはいえ、旧市街に限っては再検討の余地の多い内容となっていました。次は、それを踏まえて旧市街の話をしていきます。

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