バルセロナ旧市街の再生
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密集市街地を多孔質にする 都市計画道路と旧市街の再生

 

■1980年代頃の旧市街の居住環境

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 市街地の多孔質化によるバルセロナ旧市街の再生は、建て詰まった所に広場を作ってそこが再生しましたという単純な話以上に、近代都市計画が引いた非人間的な計画道路を人間中心の空間づくりという命題と絡ませながら、どのように再設計し、解決に結びつけていくかというきわめて現代的な都市計画的意義があります。

 旧市街が抱えていたのは、相当な建て詰まりとインフラの未整備に起因する様々な居住環境の問題でした。街区と街区の間をなんとか細い路地が通っているといった状態で、ほとんど手入れがされてなくて、まるで廃墟のような街区が連なっているのが当時の旧市街の風景でした。当時というのは1970〜1980年頃を想定していただくといいと思いますが、最大で旧市街に20万人近く住んでいた人口が急速に減速していて8万人ぐらいまで下がっていました。人口が減少していく中で、住民の構成もどんどん変わっていきました。地区に残る人、あるいは出て行きたくとも留まる以外に選択肢がなかったのは高齢者、低所得者などの経済弱者でした。

 また、もう一つの特徴として居住者として不法滞在移民が増加していたことも挙げられます。特に北アフリカから移住してきたマグレブ系の移民です。伝統的な居住者であったスペイン人がどんどん外に出ていく一方、代わりに不法移民が増加し、旧市街のコミュニティが変質していきました。不法移民はどうしてもインフォーマルな職に手を染めることになってしまいますので、徐々に治安も悪化していきます。

 それと旧市街はインフラが脆弱ですし、通風や採光の問題もありますから、平均寿命が短いと報告されています。市の統計によれば、旧市街に住む住民の平均寿命はバルセロナ平均よりも6〜7歳低い。日本に住む私たちにはにわかに想像しづらいですが、それほど環境が悪いということです。

 旧市街ですから、当然ながら建造物の老朽化という宿命的な課題があります。老朽化に加えて、狭小な住宅、未整備な上下水道、エレベータの不在といった設備の問題も未解決のままでした。狭隘な路地のみが外部空間といったように、住民が共有して認識できる公共空間も不在でした。

 こうした環境の改善を阻んでいた原因のひとつが、地権者の所有権の構造でした。スペインでは、共同保有形態と個人保有形態の優勢の二種類がありますが、旧市街では両者の比率がちょうど1:2程度ということで、だいたい7割ぐらいが一棟所有で、もともとは旧市街が街そのものでしたから一棟所有者は名士が多いのですが、彼らは所有権だけ残して環境の良い外の新市街に住んでいまして、旧市街のケアはほとんどしないという状況が続いていました。それによって、旧市街の荒廃がさらに進行します。

 所有者が建造物にほとんど投資を行わない一方で、所有者本人が賃貸物件としてフラットをどんどん区割りして、窓のない部屋が大量に発生したり、あるいは賃借人が勝手に他人に又貸ししたり、それをまた又貸ししたり...という事態を招きます。そうした非人間的な部屋に不法移民が住み着き、かつ公共空間も少ない地域ですからさらに旧市街の環境が悪化する。物的空間の悪化だけでなく、地区の雰囲気が剣呑になっていきます。公共空間の不在は、地区での活動の地下化、すなわち麻薬や売春といった非合法な取引の拠点になることを、結果的に後押ししてしまいます。こんなふうに悪循環がどんどん出てくる状況にありました。

 ですから、再生政策が着手されるまでの旧市街は、市民は決して近づかない場所でした。そういう話は私も実際何人からも聞きました。特に訪れるメリットのない場所でしたし、ランブラス通りを夕涼みに歩く程度でした。とてもその一歩裏の路地には入れない。麻薬と売春と暴力の巣窟であり、都心部にありながら誰も近づけないブラックスポットになっていたのがその頃の旧市街だったのです。これが再生の前段階としての状況としてありました。

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 所有権構造の問題もあるのですが、やはり都市政策上、図21に示すように、未完の2本の都市計画道路がこの地区の再生を長年にわたって阻んでいたという経緯があります。セルダの計画以降、歴史遺産の保存との兼ね合い等から、道路の設計は部分的に修正されていきますが、都市計画道路の予定自体はずっと生きていました。フランコ時代には、当時の市長の名前をもじってポルシオラス主義と呼ばれる政策、これは開発主義的な都市政策のことを指しますが、そうした政策の中では、旧市街を切り裂く形で道路を設計し、オフィス街へと変えていく案が地区レベルの計画として構想されていたのです。

 そこで、1975年以降の民主化政府が立てたプランニングに期待が高まったのですが、旧市街に限ってみれば、従来からの都市計画道路はそのまま残されたままでした。

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 都市計画道路の存在は不動産維持管理の放棄を促しました。1859年にまずセルダのプランで計画道路が決められており、その後着手されるのが1980年代だとすると、1世紀以上放っておかれた状態にあったんですね。1世紀以上、ここを都市計画道路にしますよという政策になっていましたので、やはり不動産所有者としては、そこに積極的な投資をするという姿勢にはなりませんでした。「どうせ収用対象なのだから、維持管理をしても仕方がない」ということです。結果、道路計画の対象地の建造物は目も当てられないような劣悪な状況に陥ります。


■プランからプロジェクトへ

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 こうした状態が変化を見せたのは1979年からです。地元の建築大学の教授であり、すでに建築家・建築史家として名が知られていたオリオル・ボイガスが、市の都市計画局長に就任しました。彼は着任するや否や、1976年のバルセロナ大都市圏のマスタープランを批判します。「マスタープラン的な考えだから、計画道路をいつまでも引きずって、結果環境の悪化を招いてしまったではないか。重要なのは、環境の悪い市街地に住んでいる人々が、都市計画によって自分たちの界隈が少しでも良くなったという実感だ」と主張し、プランニングの論理ではなくプロジェクトベースで都市を変えていくことを提案しました。

 ボイガスが1979年に着手して最初に作ったプロジェクト集が1982年に出版されています。Plans i Projectes per a Barcelonaという本ですが、これは非常に面白い内容でして、今でもバルセロナの本屋さんに行くと市が出版している30センチ四方のプロジェクト集が売られていますが、そのひな形がこれなんですね。この本の表紙をめくると、1ページ目にバルセロナの再生事業の対象地が都市の全体の地図にプロットされた図が出てきます。ここでは合計50箇所を対象にしていました。数えると3分の1の16ほどが旧市街に集中しています。それほど、旧市街の再生が重要な課題として認識されていたということです。

 バルセロナの都市政策にお詳しい岡部明子さんも書かれていますが、ひどい所から改善に着手した代表例が旧市街なのです。ボイガスは旧市街をメインにプロジェクトを進めていきます。例えば、相対的に環境の悪化が深刻ではなかったグリッドの市街地には、この時期、積極的な提案をしていません。やはりひどいところをまず再生することで、わが町が改善されつつあるという効果をもたらしたり、都市政策が有効であることを知らしめたり、そうした意図があったのだと思います。実際に彼にインタビュ−した時、彼は「実現に10年も20年もかかる壮大な全体構想を練るのではなくて、すぐに取りかかることのできる公共空間再整備事業を中心に捉え、公共空間を市内の様々な場所にできるだけ産み落としていくことを狙った」と言っていました。

 ですから、ボイガスはマスタープラン的な考え方を捨てたと言うよりは、計画立案の際の専門的な観点からの論理ではなくて、とにかく住んでいる人が再生を実感できることを何よりも優先したということだろうと思います。当時は都市計画という社会技術に対して、相当な不信感がありました。計画道路が1世紀以上動かない、動いたとしても地区は壊れるという状況でしたから。だから、そういう計画じゃなくて、都市計画が自分たちの生活環境を好転させうる技術なんだということを証明したかったのではないでしょうか。彼自身は都市計画の復権という言葉を使ったわけじゃありませんが、都市計画の復権を目指した政策を着任直後から展開していったのです。

 ボイガスの政策チームの大きな特徴は、建築単体のプロジェクトではなく、「都市」のよさを引き出すプロジェクトを志向した点にあります。重要なのは目に見える多くのプロジェクトを通して、具体的な再生を市民に実感してもらうことでした。行政内部のロジックはどうでもいいと言うか、それは市民には響かない話なので、いかに響く話をできるかを考えると、やはり目の前の空間がよい変わることでしょう。暗かった路地に光が入るとか、住まいに面していた建物が修復されていくとか、新しいお店が入る、子どもが遊ぶ空間ができる、そういうことが再生の実感だということをボイガスは主張し、その通り展開していったわけです。

 もちろん、道路体系の整備はこの地区の長年の懸案事項でした。バルセロナに限らず、近代から現代に移行する過程での都市は、近代的な道路計画の論理をどのように乗り越えていくかが求められます。バルセロナの旧市街において道路空間が必要だったことは明白だったわけです。密集市街地ですから道路的な空間は絶対必要なのですが、それを既存の地区環境を破壊する形では実施しませんでした。つまり、ある部分では道路幅員は一緒でなくてもいいということです。あるところでは広くとってもいいけど、別のところではちょっと狭めるといったように、道路空間にももう少し広場的な要素を付け加えていくということを、後のプロジェクトはやっていきます。


■多孔質化の手法で市街地を再生

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 稠密な市街地は多孔質化することで再生する手法をとりました。すなわち、全部取り壊すのではなくて、いくつかのポイントで取り壊してそこに空間を入れることで、市街地全体の交通回遊を促し、地区全体の環境改善につなげるやり方です。建て詰まった市街地に穴をあけることで風通しをよくするようなイメージで、これを多孔質化と呼んでいます。そして新しく作った空間は、カフェや商店などの地区住民に必要な経済活動の場として位置づける政策を展開していきました。

 環境悪化が著しいカオス的な界隈だった旧市街−暗い、風が入らない、悪臭がする、空気がよどんでいる、売春街−に、場所や空間の感覚を取り戻すことを、ボイガス以降の都市政策は徹底的にやっていきます。

 それをまとめると、「点的な整備」「実感できる」「事業の断片化、短期化」ということになるでしょう。つまり、ある1点をできる限りスピードをもって作ってしまうんですね。それを作って、まず地区住民に「我われの近所が良くなった」と実感してもらう。

 また「部分から全体へ」ということも良く言われていました。全体から部分を決めていくような旧来のマスタープラン的アプローチでは、多孔質化による公共空間の創出は難しかったでしょう。さきほどの話とも関連しますが、まずはご近所レベルの「部分」の改善から開始して、それを地区レベル、ひいては都市レベルの話にまでつなげていくストーリーをしっかり考えましょうということです。

 結局、大文字で「都市計画」と言っても人々には響かないのだから、あそこに広場ができたという実感をどう持ってもらえるかを考えていったのです。すなわち「実感を我われの手に」というプロジェクト主義の再生政策というわけです。


■実際のプランについて 文化拠点へと再生

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 旧市街の多孔質化で最も議論を呼んだのが、旧市街の中で最もスラム化が進んでいたラバル地区の中央部において、5つの街区を撤去して整備したラバル遊歩道でした。穴を抜くと言うにはけっこう大きいですし、道路を通すような感覚ではあるんですね。かなり数の立ち退きを要求することになりますから、かなり批判も多かったのですが、図のようにどんどん抜いていきました。

 まず北側の修道院や孤児院等が多数残っていた地区が取り組まれています。そこは市所有の土地だったので、コンバージョンや再開発は相対的に難しくなかったのです。荒廃が進んでいた修道院の一つは建物を活かして文化センターにし、その表側にはほどよいスケールの広場とリチャード・マイヤー設計の現代美術館を埋め込みました。つまり、一つの文化拠点を整備したのです。

 ですから、バルセロナ旧市街再生の第一期は、スラム地区北側の修道院施設をうまく利用した、地区の文化界隈化政策でした。それが、オリンピック関連の事業と並行する形で、比較的うまくいきました。その流れの中で公共空間がぽつぽつと生まれてくるようになりました。そこと、2000年代まで続くスラム地区の穴抜きを連鎖させながらプロジェクトが進んでいきました。


■ラバル地区の再開発

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 ラバル地区では、密集市街地を縦断する都市計画道路が決定されていました。セルダ計画以降、1980年代半ばに地区レベルの再生プランが描かれるまで、ほぼ唯一の地区における都市計画事業だったと言えるでしょう。道路体系をちゃんと整備しなくてはいけないという命題と、人間中心で住んでいる人が心地よく歩け住んでいて楽しいと思える空間設計という両者を満たす形で設計されたのが、右から二つ目の案です。真ん中だけはしっかり抜くけれど、後は少しずつできるところだけ多孔質化し、広場とする。そうしてできた広場と広場をつなぐ街路を中心に歩行者ネットワーク整備を実施していきました。

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 図27はラバル大通りの現在の様子です。上段の写真のように、多孔質化で抜いたところには今いろんなアクティビティが生まれています。

 土曜日、日曜日になるとフリーマーケットが開かれます(図27上段右)。ここでいくつか特徴的なのは、やはり移民街ですからエスニックな雰囲気のお店が多く出店していることです。例えば、モロッコのミントティー専門店や手作りの革細工の露天とか、この地区の多文化共生の雰囲気が伝わるお店が多いです。これを見に、旧市街以外の地区からも人々がやってくるようになりました。15年前には考えられない光景です。昼間ここへ行くと遊歩道沿いのカフェなども非常に賑わっています。

 住み替え用の住宅は、近くにしっかりと作りました(図27中段)。建物を壊す時に居住者は立ち退きを余儀なくされることになるのですが、その人達が郊外のスラムに移り住むのでは元の木阿弥と言うか、事業の意味がありませんから、その人達が地区に住み続けられるための事業も重点的に行いました。市が持っていた土地をうまく活用して、住宅を作っています。この住宅整備にも批判はありまして、安普請で作っているから一見で住み替え用住宅だと分かるんですね。社会的排除を可視化しているという批判もありますが、住み続けられるまちづくりのひとつの試みの結果ではあります。

 住み続けるためには住み替えの住宅だけでなく、既存住宅の修復という手法もあります(図27下段)。そうしないと数が足りませんでしたから。近くの空き家が多かった街区を中心に、積極的に修復して、そこも住み替え用住宅として提供しました。

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 図28は現在のラバル大通りの午前11時ぐらいの写真です。スラムの中にあるとは思えない風景でしょう?

 ともあれ、この周りの界隈はまだ再開発以前の密集した移民街ですので、環境は必ずしも良いとは言えないところがあります。しかし、この大きな空隙ができたことで、ここが地区全体の大きな中庭のように機能しています。お昼前、そして夕暮れ時と、みんなここに出てきて、思い思いに過ごしています。この界隈の多様性を最も感じられる空間になっているところが好きで、私はよくここを散歩します。

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 図29は夕方の光景です。夕方になると、移民もスペイン人も留学生も、大勢通りに出てきます。子どもも出てきて遊んでいる。とにかくこの空間ができたことで、初めて賑わいというものがこの界隈にできた。共通の庭がなければ街路は通過するだけですし、密集した中では今のようなアクティビティが生まれる余地はなかったですから、地区に穴を抜いたことの意味はそういう人の流れの広がりということにあるかと思います。

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 ところで、いくら傷んでいるとはいえ、旧市街の街区を取り壊すというのは相当な荒療治です。歴史的環境を一気に破壊することになりかねません。しかし、図30の例で言えば、教会前の建物を取り壊し、新たに広場に整備することで初めて、教会のファサードが都市の風景として見えるようになりました。今は壊した建物の跡地の広場に面してデザイン・スクールができたり、カフェがせり出したりしています。ある意味、選別的な歴史性の演出かも知れませんが、多孔質化による取り壊しで、歴史的な風景が私たちの前に姿を現している。これも多孔質化することのひとつの効用なのかなと思います。

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 この、上空から見ると三日月型をしている広場も多孔質化により生まれた空間ですが、通常の広場設計なり街路設計ではあまり生まれない造形の広場になりました。意図的に三日月型の広場を設計するということはかなり稀なことかと思います。その意味で建築のコンバージョンの感覚に近く、建築で言うところの冗長性みたいなものが市街地の中で生きた例です。結果的には、この界隈の空間的な付加価値になっていて、あたかも昔からあったような広場に見えるというのが多孔質化の一つの特徴かと思います。

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 壊した後の平地になったところにカフェや児童遊園が出るというのが、多孔質化事業の典型です。写真で見ると単純ですが、これによって地域の人が集まる場がぽつぽつと、密集市街地の中にできてきました。

 世田谷区の太子堂などでも歴史的にやってきたことですが、バルセロナの旧市街の場合は壊す対象の規模が大きいですから、新たに生まれる広場も大きさがかなり違います。人々の集まりが自然に生まれる寸法感覚と、都市問題を解決に導く再整備のロジックをいかにすりあわせることができるかが、カギになります。単に空地を作ること以上のインパクトを地区にもたらしたい時には、この視点が重要になるのだろうと思います。

 図32の左上も同じく壊した後にできたカフェで、ピカソ美術館の裏側のところです。壊したことによって周辺の建物は新たな都市の背景になるわけですから、壊さない限りここが建物のファサードになるチャンスはなかったわけですよね。やはり壊すことによって、周辺建物の修復も進むという効用にもつながっていきます。

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