都市環境デザインの再生
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近代都市計画から方向転換した欧米

 

■田園都市と輝く都市の失敗

 理想の都市としてレッチワースがよく挙げられます。いま行っても自立型の都市が成立しています。働く場所も用意されています。ところが日本のニュータウンは住む場所に特化してしまいました。

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 またル・コルビュジェは建築家としては尊敬していますが、都市という視点でみると、あの当時は理想の都市だったのでしょうが、広い道路とオープンスペース、塔状の建築群が描かれています。その姿はまるで今の横浜のMM21や東京の臨海都市のようです。外部空間が空虚ですし、人がほとんど歩いていない街のように見えます(Fig 3)。

 実際、1960年代に行われたアーバンデザインの理想像といわれるものは、味気ないんです。いまだにこれを理想の都市として教えている先生がいるということに、私はぞっとします。

 特にボストンでは、かつてはこのような高層型の再開発が行われましたが、ある時期からこういう再開発はやらなくなりましたね。これも教科書にでているシカゴのイリノイセンターですが、今いくと高層ビル街、歩くにはだだっぴろいですね。

 東京計画1960なんかは、学生時代に丹下先生から見せられて、これが理想の都市だと思っていたのですが、その姿が具現化したのがMM21なんですね。大高正人先生が中心になってつくられました。高度成長期の計画だけに、今考えると事業規模が大きすぎて、期間が長くなったのが敗因ともされ、まだ売れない土地を抱えています。建物の中にはたくさんの人がいますが、外部空間はまったく人の存在感が見えない。


■車から歩行者への動きがはじまる

 私は若い頃に3ヶ月間、ヨーロッパの都市を放浪しました。そのときの教科書が「street for people」というOECDがつくった本です。ヨーロッパの都市が歩行者空間整備を大々的に進めていくバイブル的存在になった本ですが、当時の印象は、まだまだ日本のほうが元気だというものでした。歩行者空間といっても、まだぎこちなく、それほど魅力的な商業空間になっていませんでした。それが今はどうでしょう。

 あとで調べて知ったのですが、その当時すでにヨーロッパの中心市街から人がいなくなっていたのです。日本の20〜30年先を走っていたという感じです。それを踏まえて、衰退した中心部をどう再生するのかという議論が行なわれていました。

 それより早く、アメリカではジェーン・ジェイコブスの四つの原則が出ています。

 同じことがイギリスでは「都市回復運動」とでもいうべき形で1968年から大々的に行なわれています。

 またドイツ、フランス等で、歩行者空間の整備が始まりました。

 そのとき、居住機能の回復を大前提として、ある一定のゾーンで車を排除していきました。

 ところで、その当時、ジェーン・ジェイコブスの影響を受けた日本の人たちは多いのですが、特に建築家の人たちは「日本の都市計画はこれとは違ったことをやっているんじゃないか!」と考え、多くの人が「都市」から離れていきました。


■居住空間としての街の再生

 同じ頃、1970年前後からヨーロッパの都市計画は大きく変わっていきます。

 イギリスのチェスターやバースなど四つの都市の資料を調べたのですが、そこでなされたのは「中心部の旧市街には車を入れない」「人が住むことをめざす」「重要なのは景観なのだから建物の内部は改修する」「半官半民の組織に保存修景の企画と管理の実務を担当させる」といったことです。

 これは近代都市計画が壊してしまった街を修復するための原則です。このようにまちづくりの転換が進みます。それに呼応する形で歩行者空間化が進められました。

 ヨーロッパは同時に公共交通を中心にしていこうとしています。同じ人数をマイカーとLRTで運ぶとどうなるかという有名な図がありますが、公共交通中心になれば広い車道がいらなくなるので、歩道を広げて樹木を植え、歩きやすい道にしていこうとしています。これこそ都市環境デザイン会議がめざすべき方向とも一緒なのではないでしょうか。

 ヨーロッパにいけば町から少し離れたら風車があります。脱CO2の流れですね。とくにドイツは脱原発です。自然エネルギーを使うといっても、まず取り組まれているのは省エネです。エネルギー消費を増やしていくと自然エネルギーでは賄えないんです。原発を復活しないといけない。だからヨーロッパの都市はどこにいっても環境革命といってもいいような形にまちづくりが変わっています。ですからある街ではもう超高層は一切作らないと宣言したりしています。建物も町も省エネに大きくシフトしています。

 私もそういう意識で自宅を16年前に省エネ住宅にしました。先の東日本大震災で電気やガスが途絶した際に、大いに助かりました(余談ですが)。

コペンハーゲン(デンマーク)
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 コペンハーゲンは大好きな町ですが、1960年代にストロイエという歩行者空間をつくりました。ただ車を止めただけではなく、車をとめることで広場を取り戻し、オープンカフェが自由に営業できるようにしています。街を楽しんでいるのは観光客だけじゃなくて、大部分が住民の方々です(Fig 4、5)。

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 ここのニューハウンの港は、かつては船もなく、車だけになってしまいました。それを一軒一軒修復して居住者やお店を戻し、車を排除して実に気持ちの良い空間をつくりました(Fig 6、7)。

チェスター(イギリス)
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 チェスターも良い街ですね。今の日本の町と同じように昔は人がいなくなったのですが、いまでは中心部は歩行者空間化され、多くの人が町に戻っています。建物については、市が買い取ったり、助成金を出して、水回りの改修、窓の改修、そして外壁、屋根の改修を行なっています。日本でもビフォー・アフターというテレビ番組がありますが、それを大々的に街ぐるみでやって来ました(Fig 8、9)。

 何をどうすれば人が住めるようになるのか、住みたくなるのかをきちんと調べ、カルテをつくり、それに基づいて数十年かけて少しずつ取り組んで来ました。それにはきちんと公的資金を入れています。

 また建物が建て詰まっているところでは、除却して小さなオープンスペースを造ったりもしています。ほんとに一軒一軒進めています。道路が中心ではなく、建物・居住が中心の都市計画です。

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 なお道路については基本的には拡幅せず、時間によって交通を規制しています。

 その結果、町に人が戻ってきたと同時に、周辺部でも歴史的遺産、かつての工場をコンバージョン・リノベーションしたホテルなどもできています。チェスターでは運河も甦らせています(Fig 10)。

チチェスター(イギリス)、ボローニャ(イタリア)
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 チチェスターは人口2万4千人で観光客もあまり来ない町ですが、エッ、こんなに人がいるのと驚くほどです。でも、日本でも私の子どもの頃は同じだったんです。これが当たり前の町の姿なのです。ここも1970年代以降、都市計画が大転換をしてきたが故に実現できたことなのです(Fig 11)。

 イタリアのボローニャにも先週行ってきましたが、やはり1960年代には、市民層とりわけお金持ちの人たちが出て行って町が寂れていきました。それを個々の住宅改修を繰り返し、人が戻ってきたいようなまちづくりを展開していったのです。イタリアではZ。T。L。というゾーンを定め車の進入抑制、そして歩行者空間化も含め、これらをセットで行っています。

 私はこういったことを見るにつけ、日本の地方都市の再生を実現するには、今の都市計画だけではだめだ、都市環境デザインとして、いろいろな人が参加しないと出来ないと思います。私も微力ながら活動を続けたいと思っています。


■緑、広場、ウォーター・フロントの再生

フライブルク
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 今回はフライブルグの環境共生住宅の住宅地・ヴォーバンを見てきました。

 この町の住宅区域には一切車が入ってこないんですね。周辺に駐車場は配置されていますが、カーシェアリングも進んでいます。ほんとに緑が豊かです(Fig 12)。

ポートランド
 アメリカでも西海岸のポートランドでは中心部の公共交通無料化が行われています。まちの中心部にはバスのトランジットモールがあり、またLRTが2系統走っています。かつての川沿いの工場地も公園緑地とコンドミニアムに変わりました。

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 ポートランドの中心部にあるパイオニアコートハウス・スクエアでホテルが立体駐車場に建て替えられようとしたとき、市民が反対運動を起こしました。マスタープランのなかで中心市街からなるべく車をなるべく排除していくという政策をとっていながら、ここに車を誘発するような施設をもってくるのは何事だ!という言うわけです。最終的には市がおれて土地を市が購入しました。あわせて市民が基金を募って、広場整備費を負担しています。レンガ一つ一つに市民の名前が刻まれています(Fig 13)。

ボストン
 ボストンでもウォーター・フロントが有名ですが、ここでも倉庫が住宅にコンバージョンされています。今は人気の住宅で、高級な値段で取引されています。

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 ボストンも、20世紀には山側に町が広がり、港の機能が外延化し、その一帯が空洞化するにつれ、周辺の中心市街が寂れていきました。その再生の起爆剤になったのがフォニエル・マーケットプレイス、旧赤レンガ倉庫の再生事業ですが、それに続くのがかつての倉庫地帯の再生です。住宅を海側に住宅を造ることによって人口バランスを取り戻す。とくに、ヨットやクルーザーを持ちたいというお金持ちが住むんです(Fig 14、15)。それによってこのウォーター・フロントのイメージが格段に向上します。

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 ビックディックも、ものすごいお金をかけて道路を地下化し、地上はランドスケープの天国と言ってもよいくらいになりましたが、その結果、まわりにたくさんの高級な集合住宅ができつつあります(Fig 16)。古い倉庫を改造した住宅も含め、いろいろなパターンの開発があります。

 ウォーター・フロント開発は日本でも大々的に行われましたが、成功したのは門司港だけとも言われています。なぜ、できたのか。実は偶然です。というのは、港は普通、臨港地区になっているのですが、そこには住宅を一切つくれません。その結果、コンベンションや商業、ホテルなどの集客施設が主体となった箱ものが主体のウォーター・フロント開発が主体とならざるを得ません。しかしその集客も誘致圏域の大半が無人の水面ですので、当初見込み通りに行くのは至難のことと言えるでしょう。

 門司港は臨港地区が狭く、歴史的資産の保存活用、そして緑地などの環境整備に重点的に取り組んだことも功を奏したと言えるでしょう。その周りにマンションがバンバン建って、北部九州の住みたい町ナンバーワンと言われるようになりました。同じように、港の倉庫街のある臨港地区内に住宅を建てられるようにしようと言い続けているんですが…。

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