高松での中心市街地活性化の仕事 |
ある一つの地域に入って、長く関わるという仕事のスタンスはこの業務で学びました。
平成10年に中心市街地活性化の法律ができ、活性化を推進するTMOという組織を立ち上げようということで、高松に呼ばれたボスの鞄持ちとして付いていったのが私の関わりの始まりです。最終的には10年ぐらい関わり続けることになりました。
当時計画が進行していた丸亀町再開発やアーケード等改修に加え、まちの利用者の意向を聞きつつ、小さくてもきらりと光る事業を考えようとしました。最初はまちを盛り上げるイベントや、商店街のメンバーで集まって何ができるかなどを話し合ったのですね。循環バスを走らせて、駅から中心部へめぐらせるアイデアも実施しました。しかしご多分に漏れず、商店街が一致団結して何かをやっていこうという状況になりにくい。高松の中心部には8つの商店街があったのですが、商店街同士の問題のみでなく商店街と利用者の意識のギャップもありました。利用者と商店街の人たちの話し合いの場を設けて、何を課題とするかという話もしていたのですが、なかなか具体的なことが出てこない。
結局、突き詰めてみたらみなさん「困っていない」、個人や事業者はそれなりに楽しんでいたのですね。昔の蓄えもありますし、平成10年頃は高松はまだ元気でした。国の出張所や企業の四国支店は高松に集まっていますし、四国で新しいことを試そうと思ったらまず高松で行われるという土地柄でしたから、そうした外部要因もありました。ですから、商工会議所や我々が入って商店街などを盛り上げようという必然性があまりないというのが実情でした。
1年間商店街や市民の人たちと話し合いを進めたのですが、このままやっていても結果は出ないと感じて、会議所の人たちや参加者有志とどうすれば前に転がるかを話し合っていました。最終的には、商店街の人と市民・利用者の人を分けること自体や、商店街を活性化するという目標自体が賛同を得にくいテーマ設定なのではという結論に至りました。
そこで、今までの活動をリセットすることにしました。会議に毎回参加していた一人の女性が立ち上がり、自分が新たな動きを起こすと宣言しました。高松のまちなかを面白がっている人、使いこなしている人を達人と呼んで、そういう人にゲストに来てもらうことにしました。そして、そういう人を触媒にして、いろんなことを高松でやりたいと思っている人たちが集まり、やりたいことが実現できるようなプラットフォームをつくっていくことのほうが話が早いし、モチベーションの高い参加者が集まり、次に繋がっていくのではないかと考えました。
従来だったら、まちなかの活性化の担い手は商店街が主となりがちでしたが、まちを面白がる市民サイドから動きを作っていこうと方向を大きく変えたんです。会議所の人の大英断があったおかげです。
こうして始まったのが「まちラボ」、まちづくりの実験室です。これは月1回、第3火曜日に開催し、夜の7〜8時まで達人の話を聞いて、その後参加者も含め意見交換するという会です。その後はだいたいみんなで飲みに行くことになるのですが。それを1年間続けました。
この活動のルールとして決めたことに、「必ず個人で参加すること」です。つまり肩書きはなしで参加しなければいけません。もちろん、参加も脱退も自由です。入ったらメーリングリストで情報共有し、脱退の時はメーリングリストから抜けてもらうことにしました。
また、何かプロジェクトをする時は、その言い出しっぺが必ず最後まで責任を持ちましょうということも決めました。他の人が文句を言うのは御法度です。ただ、手を挙げた人を助けたい、一緒にやりたいというのはどんどん手を挙げてもらいます。
この二つをルールとして始めたところ、1年後には200人ぐらいのネットワークができました。この活動は一般にはチラシもまいていませんし、全部、口コミネットワークで広がっていったものです。最初は10人ぐらいで始まったのですが、面白い人が面白い人を芋づる式に連れてくるという状況になって、この人数になったのです。参加者の多くは20〜30代なのですが、上は70代までいます。この中から面白いプロジェクトがたくさん生まれました。
それで商店街から「何とかしたい」という相談が持ち込まれたことから、この場所の再生を手がけることになりました。
この場所を再生するには、どうやって運営管理していくかやハード整備負担が重要となるので、商店街の人だけで議論するのではなく建物オーナーや使う人にも入ってもらおうと考えました。商店街の長老クラスではなく若い人に参加いただき、この街の周辺で活動している若手やアーティストにも声をかけ、興味がある人には会議に参加してもらいました。
まずは、この場所の使い方から決めて、それからそれに合ったハードを決めていくことにしました。お金もないことから、ハードはなるべくシンプルにしてメンテが簡単なものにしていく。またいろんな使い方に対応できるものにして、その運営がちゃんと回っていくシステムを作ろうということで始めました。
最初の話し合いでは商店街や自治会の年配の人たち、広場に面する建物オーナの人たちで広場再生の協議会を作りましたが、実際にプランを練り、運営をしていく主体は別に運営委員会を作り、若い人たちで決めていきました。
この場所が犯罪の温床として市民から避けられていたため、最初はみんなに注目してもらえるようにいろんなイベントを手がけました。広場に面して映画館があったので、野外映画祭をしたり、実際に何回もこの広場でみんなが集まれるイベントを実施したりしました。固定のベンチや花壇等があり使いづらい場所だったのですが、社会実験の検証を活かし使いやすいプランを創り上げました。商店街や建物オーナーの皆さんの整備負担額も調整し、最終的には写真のような広場へと生まれ変わりました。
そこにもいろんな工夫があります。広場とは言え法律上は道路ですから、そこにパラソルを置くことは通常はできないのです。しかし、そこは市役所が機転をきかしてアーケード(道路法上の歩廊)と同じ扱いにしてくれたのです。「パラソルもつなげたらアーケードになるから」ということで。
また、広場は一般に貸し出すシステムにしています。道路空間は独占的に使ったらいけないのですが、4町パティオ協会がここを日常管理し清掃やパラソル等管理や利用申し込みを担い、営利事業・非営利事業に貸し出すルールを定め、いろんなアクティビティを街に呼び込む体制を整えました。こうして、広場はいろんな人に開かれたものになり、様々な使われ方が今でもなされる場となっています。
企業広告を商店街に付けてその広告収入や、広場の利用料を広場の修繕積立金に充てるなど細かい工夫もしています。
また、別の商店街ですが、この計画を進めている時にマンション計画が出され、商店街にマンションの入口がつくられ連続性が保てないという場面を体験したこともあり、広場に面するエリアの1階は店舗にしましょうなどの取り決めを地区計画制度を活用し決めました。
また、私の同級生の福田先生がバーチャルリアリティの研究をしていたことから、その技術を活用してこの場所はどういう使われ方がいいか、それにはどのようなハードがふさわしいかなど、プランニングのプロセスを皆が共有しました。最終プランではもともとあったゴミ箱や電柱は全部撤去することにしたのですが、それを撤去していかにシンプルで使いやすい広場にしていくかをビジュアルで体感しながら議論することができました。やはり使う主体がプランニングに関わることが大切で、その後の運営管理にもいい影響を与えていると思います。
(参照:福田知弘さんのセミナー)。
どの自治体にも総合計画や中心市街地活性化基本計画のような全体プランはあるのですが、高松のプランは個性がなく面白くなかったのです。だったら、それもみんなで考えて対案をつくろうということで始まったのがこのプロジェクトです。
まちラボに集まっているメンバーは、建築、デザイン、マーケティング、メディア、芸術、歴史、不動産、企業誘致など様々なプロがいて、商店街の人もいます。そういうメンバーで高松のまち全体を考えたらどれだけワクワクするビジョンができるだろうか、という期待がありました。今までは商店街の人が集まると商店街のことだけ、緑は緑、歴史は歴史などテーマで分かれていましたが、ここではまちトータルとしてどうなったら我々が幸せに暮らせるのか、あるいは次世代に我々は何を残していけばいいのかという議論を始めたのです。それも格式張った議論ではなく当初は飲みながら話していたのですが、その中から今の市のプランに対する我々の対案を出してみようじゃないかという話が盛り上がりました。
このプロジェクトは1年がかりで準備をしたのですが、どういう人に声をかけて参加してもらうべきかというところから議論しました。全体では20人ぐらいに声をかけました。それも30〜40代という現場の最前線にいて社会の動きも課題もわかる年代の人に声をかけていきました。そして、高松には本当にまちなかが必要なのかどうかというところから議論をスタートしました。
というのも、ちょうどその頃、高松市は日本で最初に市街化調整区域と市街化区域の線引きを廃止して、郊外の耕作放棄地後に賃貸住宅がどんどん建ち始める状況が生まれていたからです。こういう状況を放置したらどうなるのか、賃貸住宅が増えても隣に新しいものができれば入居者はそちらに移る、人口が増えるわけでないので空き家が増えて最終的には自己破産する地主が出てくるんですね。
そんなふうにむやみにまちを消費するのではなく、もっとコンパクトにつくり直し、全体のバランスを取っていくべきではないか、その中でまちにとって大切なものを残していくべきではないかということをみんなで議論したのです。そうした話し合いの中から、全体のコンセプトや今後取り組むべきことを12のプロジェクトにまとめ、それを高松・まちなかビジョンとして提案しました。
ビジョンは市、県、国や大学、経済界に乗り込んでいき、プレゼンの機会をいただき、「こういうことを考えているのですが、どうでしょう。12のプロジェクトのうちどれか一緒にやりませんか」と提案しにいったのです。
ビジョンの提案の二つのプロジェクトが合体し翌年からスタートすることになりました。ひとつは、まちなかに高松暮らしのインフォメーションを置こうということ。もうひとつは、地域の独自の自然や文化・食などは瀬戸内海に育まれているから、今こそ瀬戸内海の島暮らしも一緒に楽しもうという「海の案内所」という提案です。陸側の高松は都市部ですから最先端の暮らしもできますし、島に渡ると昔ながらの伝統的な暮らしが残っています。その両方が瀬戸内海でつながっていることが他にはない魅力です。
たまたまその提案を見た県や市の人たちが声をかけてくれました。それが「瀬戸内海をテーマとした移住交流」という事業です。これをまちなかビジョンの有志メンバーで考えてくれと頼まれ、有志を募って取組むことになりました。
みんなで議論をするなかで、暮らし方研究所をつくろう、その媒体として「せとうち暮らし」という冊子を作ることになりました。取材・編集のためにメンバー10人ぐらいが、自分たちの暮らしの豊かさとは何か?を真剣に考え、海や島や田園の暮らしを学びました。皆で島に頻繁に通い、おじいちゃんおばあちゃんと話をして情報を得ました。単にお客さんを呼ぶだけではなく、島の人たちと信頼関係も築ける関係性をつくるツールにしたいと思っていました。
最初の4〜5号までは県と市からお金を出して頂きました。その後は、小西さんというコアメンバーがROOTSBOOKSという出版社を立ち上げ、編集チームも継続参画して、今でも自立してこの発信を続けています。
その後、「瀬戸内国際芸術祭」という取組みを実現させたり、開催運営に関してもまちラボや移住交流のメンバーが数年前から密に関わっています。「こえび隊」というボランティア組織の事務局も我々と一緒に活動していた女の子がやることになりました。
高松ではこのような有志の市民(生活者・企業・行政など肩書は様々)が推進エンジンとなりいろんな活動へと展開していきました。ひとくちに「活性化」と言っても誰が何をしたいかが明らかになってない状況から、新しいプラットフォームができ、メンバー同士の化学反応が起き、相互に刺激を受けながらいろんな事業を同時多発的に進めたわけです。「高松を捨てて東京に行きたい」と言っていた若い人が地元に残りまちを盛り上げています。
まちラボに参加していた中から、多くの人が独立しています。僕が独立したのも、これらの活動に関わっていたことが大きな理由の一つだと思います。結局は、僕らがやっていたことは、関わったそれぞれの人のやりたいことや仕事を創ることにつながったのかなと今にして思います。