大阪の埋め立ての進展とその環境
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2 浅海域の平面的な変遷プロセスと干拓の形態

 

■1)浅海域の平面的な変遷プロセス(図1、2参照)

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図1:1670年の絵図における葭原
 
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図2:1675年の絵図における葭原と新田
 
 まず1670年の絵図を見ると、新田村の沖側に広がる葭原が読み取れる。次に1675年の絵図を見ると、1670年まで葭原が拡がっていたエリアに新田が造られたことがわかる。この図の中で、九条島沖に「伏見屋七郎右衛門・永野屋久右衛門新田」と記され、民間による新田開発を確認できる。九条島沖の新田の広さは、陸地側の堤から海表の新田堤まで五百五間(約919m)、東西方向の新田の堤間は七百八拾六間程(約1430m)である。海表の堤は長さ八百六間程(約1466m)、東側の堤は長さ六百八拾九間(約1253m)で、上流側に「新田新家」と記載された家の存在する堤が描かれている。西側の堤は、長さ五百八拾六間(約1066m)で、その上流部には東側の堤と同じく「新田新家」の記載がある。新田の堤の外側にも葭原が描かれており、干拓後も海側に葭原が発達していく様子が確認できる。

 次に1684年の絵図は、安治川の開削が行われた後の状況を示しており、この時には「新田跡」の記載が見られ、四貫島や九条島等の諸新田が撤廃されたことが読み取れる。また、1675年よりさらに葭原が拡大している。その後の状況を1687年の絵図に見ると、なお新田跡の表示が見られるが、その周辺の葭原は1684年の絵図に比べ、さらに沖側に拡がっている。さらに、江戸期の川口新田の開発が終了した後の近代(1886年の地形図)には、新田開発が進んだ沿岸部に干潟が拡がっている様子が確認できる。以上のように、近世前期からの新田開発は浅海域に拡がる葭原の上に鱗状に行われ続けたことが確認できた。


■2)1675年の絵図にみる九条島沖に造られた干拓の形態(図3参照)

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図3:1675年の絵図における新田の堤の形状
 
 1675年の絵図から九条島沖に造られた新田の堤の形状を見ると、まず海表の堤は、堤根置七間半(堤底面幅約13.7m)、馬踏壱丈程(堤上面幅約3.0m)、高さ壱丈余程(堤高さ約3.0m+α)の形状だった。「新田新家」の記載のある東側の上流部の堤は、堤根置六間程(堤底面幅約10.9m)、馬踏五間程(堤上面幅約9.1m)、高さ四尺五尺程(堤高さ約1.2〜1.5m)だった。下流部の堤の形状は、堤根置四間程(堤底面幅約7.3m)、馬踏壱間程(堤上面幅約1.8m)、高さ六尺七尺程(堤高さ約1.8〜2.12m)である。西側の堤の形状は東側と同じであった。以上のことより、九条島沖に造られた新田には、海側に高さ3m程度の堤が設けられ、東西の両堤はそれよりもやや低い2m程度で造られ、東西堤の上流部には堤の内側に1.5m程度の高さで堤上面が広く取られ、家を建てる場にされていることが分かった。

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