大阪の埋め立ての進展とその環境
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今回参照した篠山藩青山家文書のうち、神崎川、中津川、淀川の河口部がまとまって描かれている「大坂川口絵図」を見てみます。大坂川口絵図は、1669年(寛文9)に作成されたもので、後に新田開発が行われる河口地域の開発前の様子が面的に理解できるものとなっています。
この絵図には、神崎川、中津川、淀川の3つの河川が描かれ、川幅や、河口までの距離、河川勾配や、河川中の砂州の長さや面積などの詳細な数字が記入され、堤防などの普請や河川管理用の絵図として作成されたものと考えられます。凡例には、「堤」「みず筋」「田畠」「洲」「村」「御普請場所」とあるほか、京街道、中国街道、堺海道が記載されています。また、堤外の州には、検地の済んでいる「本田」と記載されているものも多数あります。
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大坂川口絵図(1669(寛文9)年)拡大
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次に、河川沿いに記載されている村に着目してみますと、大坂川口絵図内には、神崎川沿い33、中津川沿い11、淀川沿い21の計65の村ほか、大和川沿い2、三郷の南に3の、計70の村の位置が示されています。村形には、例えば、下新庄村には「豊嶋権之丞御代官所」と書かれており、その村の領主が明記されています。河川管理用の絵図ということを考え合わせると、これらの村は河川との概ねの位置を示しているに過ぎないと考えられますが、少なくとも1669年には存在した村といえます。
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大坂川口絵図内に記載のある村について
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次の図は、大坂川口絵図を1910年(明治43)の新淀川の開削以前に作成されている仮製1/20,000地形図(明治18年測量)上に復元したものです。これを比較すると、高い精度で神崎川、中津川、淀川の流路が描かれていることが分かります。また、大坂川口絵図以降の臨海部での新田開発の進捗の状況も把握することができます。
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仮製120,000地形図(明治18年測量)上での復元
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これら65ヶ村の石高を、摂津高改帳(1616年(元和2)頃)と天保郷張(1834年(天保5))により比べると、65ヶ村の合計で、36,682石から38,992石へ、2,310石増加しています。石高は、新田の検地で増加する場合と、分村して見かけ上石高が減少する場合がありますが、いずれにしろ新田の開発、農業技術の進歩により石高が増加したものと考えられます。
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