大阪の埋め立ての進展とその環境
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■1)綿作の展開
綿花は、藍、甘藷などとともに、江戸時代から明治前半期にかけて、当時の商業的農業の先端を行くものとして大きな役割を担っていました。特に、綿花は、人手を14、5回ほどへてようやく製品になり、またその過程に分業が成立しやすいため、様々な仕事を生み、国民の経済を活発にするものとして栽培が推奨されました。摂津、河内、和泉の3国は、三河、尾張とともに、江戸時代から明治前期におけるわが国綿作の中心地であり、これに瀬戸内海沿岸の播磨、備前、備中、備後、安芸、讃岐、山陰の伯耆を加えた13国で全国生産額の約2/3を産出していました。
摂津、河内、和泉の3国の中でも綿作が盛んであったのは、摂津の武庫郡、西成郡、河内では中河内・南河内の平野部、和泉では平野部です。一方、北河内、三島地方の淀川沿岸の低湿地、北部・南部の山間地方では、綿作があまり行われませんでした。1736年(天文元)大坂市場に集荷された商品のうち、綿関係品は全体の12%をしめ、米の7%を凌いで最大の商品であり、さらに、武庫郡、西成郡、東成郡、若江郡、渋川郡では、実綿の生産額が米の生産額を上回っていました。
■2)綿花の栽培
綿花の栽培には、どちらかというと砂質の土壌が適しています。大蔵永常による『綿圃要務(1833年(天保4))』は、江戸時代末の綿栽培の手引き書ですが、砂質の土壌で排水よく、かつ灌水の便のあるところで、多量の肥料を投下した場合に最も多くの収穫、かつ良質のものが得られるとあります。このような自然条件を備えていたのは、砂州、干潟の干拓地、砂礫が堆積した河川の氾濫原や河川の旧河床、砂礫に富む洪積層台地などで、先に示した綿作が盛んな地域はいずれもこれらの条件に当てはまります。さらに新田では、水利に恵まれず稲作が困難なこと、また土壌に塩分が含まれるが綿花は塩分に強いことなどが、綿作地としての発展を条件付けました。同じ干拓地でも、九州の有明海沿岸の干拓地は、粘土質であるため、綿作の発展を阻む一因となりました。
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綿作の様子(※「綿圃要務(1833年(天保4))」より)
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