大阪の埋め立ての進展とその環境
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6 「半田(掻揚田)」による綿作

 

 『綿圃要務』によると、「半田」または「掻揚田」について、低湿な地域の田の土を掻き揚げ、2尺ほどの高低差をつくり、低い方の田は一毛作の湿田で稲作のみを行い、高い方の畑は表作として綿を作り、裏作には麦作を行っていたとあります。

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「半田(掻揚田)」による綿作(※「綿圃要務(1833年(天保4))」より)
 
 この図は、河内における明治20年前後の半田の分布を復元したものです。半田は、玉串川と長瀬川の両岸周辺に広がり、大部分が標高10m以下の低地であり、大和川の付け替え以前は大和川の氾濫の常襲地で、付け替え以後も、排水不良のため降雨が続くと灌水する地域です。一方で、灌漑用水が不足する地域でもあり、これは大和川の付け替え以後いっそう深刻となり、そのため全ての農地で稲作を行うことが困難であるが、排水不良のため河内の南部のように田で稲と綿を隔年で栽培することも不可能でした。半田は、このような低湿地であると同時に、灌漑用水が不足するという地域的条件に対応して生まれた土地利用形態であるといえます。

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河内における半田の分布(明治20年前後)
 
 河内平野における綿作の隆盛は、1704年(宝永元)の大和川の付け替え以後のことであるとよく言われますが、それ以前から綿作が盛んであり、文禄、慶長の頃から、半田の畑の部分には、かなりの程度の綿作が行われていたと考えられています。付け替え以前は稲作6割、綿4割程度であったといわれているが、大和川の付け替えにより水不足がいっそう深刻となり、稲作2割、綿作8割へと変化したといわれています。

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