大阪の埋め立ての進展とその環境
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7 川口新田における綿作

 

 次に、川口新田の一つであった泉尾新田における綿作について見てみます。泉尾新田は、木津川と尻無川とに挟まれた寄洲を、和泉国大鳥郡踞尾村の北村六右衛門の請負によって1698年(元禄11)に開発された、面漬104町歩(104ha)の新田です。請負人の国名村名の各一字をとって泉尾新田と名付けられました。

 埋め立て、沖堤の築造に必要な土砂は尻無川に堆積した中州の東半分と観音水尾、外島の砂洲から取られ、沖堤の長さは1,110間(2.0km)で、堤の上には護堤と風防のためと、ロウの原料としてその実を採取するために櫨の並木が植えられました。沖堤によって海水の侵入を防ぎ、その内側を新田とし、さらにその内側に中堤(長さ1,760間(3.2km))を築造し、中堤にも櫨の並木が植えられました。しかし、宝永地震(1707)による津波により堤防が破壊され、耕地の大部分が流出する被害もあったそうです。

 篠山藩青山家文書の一つ、「大坂伏見屋七郎右衛門永野屋久右衛門新田絵図」のうち、泉尾新田の部分を示しています。この絵図が作成されたのが1675年であり、北村六右衛門の請負による新田開発以前の様子が描かれています。これを見ると、中堤はできあがっているが、沖堤はまだ作られていません。

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大坂伏見屋七郎右衛門永野屋久右衛門新田絵図(1675)一部
 
 新田は、「いろは」47文字の順序に地割され、新田に必要な用水は木津川より取水し、新田内にくまなく巡らせた井路によって通水しました。小井路は幅2間半(4.5m)で、その延長は12.8kmにもおよび、これらの井路は、水車で田畑に灌漑するとともに、悪水の排水も図られ、さらに耕作通路としての役割をも持っており、田畑は全て井路に接するように区画され、どの田畑へも舟で行けるようになっていました。収穫された綿や西瓜などは、舟で直接木津市場や難波市場などへ水上運搬し、その帰路には大坂の町より肥料として塵芥や屎尿を持ち帰り、非常に効率的な経営が行われていました。

 大地割「い」から「て」までの中堤の内側のほとんどが畑であり、畑が新田全体の約60%を占めていました。「あ」以下の中堤の外側の水田は、裏作のできない低湿地が多く、稲作よりも塩水と痩せ地に強い綿花が栽培されており、全体でも稲よりも綿花の作付けの方が多かったといわれます。

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泉尾新田の地割り(※三橋時雄(1952)攝津泉尾新田の歴史地理的考察−摂津型農業研究の一節として−、人文地理3 (5-6)、pp. 94-103より)
 
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