大阪の埋め立ての進展とその環境
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9 綿作の金肥の使用とその影響

 

 綿花の栽培には、油かすや干鰯など多量の金肥を必要とし(稲作の1.5から2倍の肥料を投入)、また多くの労働投下を必要としました。綿花の栽培における施肥は、播種から夏までに3回ほど施すとよいとされ、肥料として使われたのは、油かす、干鰯、水肥などでした。

 干鰯は、鰯から油をしぼりとったものを乾燥させ、固めた肥料で、干鰯との相性が良い綿花を栽培していた大坂周辺地域で早くから普及し、干鰯の集積・流通を扱う干鰯問屋が17世紀前半には靱の永代浜を中心とした地域に成立していたといわれます。

 当初、摂津・和泉・紀伊などの漁民は、紀州などの周辺沿岸部や、九州や北陸など比較的近い地域で大網漁法により鰯を漁獲し、干鰯として供給されました。18世紀に入り、関東を始め各地で干鰯が用いられるようになると、需要に生産が追い付かなくなり、更に供給不足による干鰯相場の高騰が農民の不満を呼び、農民と干鰯問屋の対立が国訴に発展する事態も生じました。

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わたの根にてをのくはにて溝を引、其ミぞへ水肥を入る図(※「綿圃要務(1833年(天保4))」より
 
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