2 文化としてのテキストとコンテキスト
バリを詳しく紹介することはできませんが、 居住環境の構成がなぜそうなっているのかが理解できると、 環境を見る目が変わってくるということがあります。
つまり出来上がった環境がテキストであるとすれば、 そこからコンテキストを読むことができ、 環境を見る目が深まっていくことにつながるんです。
図14はバリのある集落の様子です。
祠が一番大事な方向である北東にあり、 それが外から見えています。
まずそのことが分かります。
それから住宅の敷地を壁で囲んで入口が一箇所しかないんですが、 なぜなのかというと、 この集落では公共の場である広い空間に個人の入口を作らないと言うルールがあるからです。
この集落が持っている空間の序列の結果、 大きな広場に入口がないということが理解できるんです。
じゃあそれが分かって何の役に立つんだと言われたら、 まあ役には立ちませんけれど、 分かるから面白いんです。
その面白さは環境を見る目が変わるという点で、 意味のあることではないかと考えています。
《観光による経済的発展》
ご存じのようにバリも観光が盛んになり、 それが儲かるということから、 様々な地域から新たな人びとが流入しています。
流入してくる人が少なかった時期には、 既存の村に組み込まれて、 いろんな社会システムや文化を学んでいったわけです。
しかし、 あまりにも多くの人がよそから来るようになると、 既存の村から分裂して新しい人たちだけの村が出来てきます。
その結果、 伝統的な村にあった環境に対するルールが伝わらなくなり、 そこだけがバリの集落とは違う組み立て方になっていきます。
私はそれを「社会関係の都市化」と呼んでいるのですが、 そこでは固有の言葉、 コンテキストを失ってしまうことが起こります。
都市化と言ってもバリに市街地がどんどんできているわけではなく、 バリの文化を理解できない人達がやってくると、 バリ文化を理解できないが故に環境の作り方がそれぞれバラバラになっていく事態になるということです。
現在のバリはそんな状況にさらされつつあると見ることが出来ます。
《垣の内》
神社が鎮守の森によって守られているように、 「青葉の霊力」によって守られていることを意味している 〈高取正男〉
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日本では垣の一つに生垣があります。
高取正男さんに言わせますと「青葉の霊力」と言うんだそうです。
鎮守の森と同様、 家も生垣という緑の霊力によって守られているわけで、 民俗学的には同様な役割を果たしているということです。
確かに田舎に行くと、 そういう風な生垣を見ることができますが、 今住宅地の中で生垣の霊力が理解されているかどうかについてはどうでしょう。
ほとんど忘れ去られているようです。
ともあれ日本では生垣が結界として愛好されているようですが、 これは世界的な文化ではなく、 例えばお隣の韓国では境界は基本的に土塀です。
我われが普通だと思っていることが、 よそへ行くと必ずしも普通ではないということです。
「風水」もまた一つの空間のシナリオです。
そして、 地域の風景を手掛かりに、 居住すべき土地を選択する方法が生み出された。
やがて人間は、 自然のもたらす優れた風景を見ることを楽しみ、 それを絵に描きあるいはそこから得た感銘を歌に詠むようになった。
図24は飛行機から撮った写真ですが、 広大な地域の中で人が最初に住まう場所をどうやって決断したのかは謎です。 そんなとき、 我われの祖先は何らかの知恵を働かせてある場所を決めたのではないかと思うのですが、 その原型が風水として発達してきたんじゃないかと考えています。
《四神相応》
風水が生まれてきた状況を説明すると、 天の星座にある白虎・玄武・青龍・朱雀を地上に写すことから風水の基本が始まったと言われています(図25)。 玄武は人の背面、 朱雀は正面、 青龍が左手、 白虎は右手とし、 こうした構成を地形の中にあてはめ、 四つの方向を山で現わそうという発想に進歩していくのです。
四方向は東西南北を表現しようとしたわけではありません。 中国では方位とは関係がない例が多いのですが、 日本に入ってきてからは、 完成された図式として理解されるようになりました。 つまり、 日本では玄武が北、 朱雀が南です。 東西と背後の山、 正面が重なり合って、 日本的な「四神相応」というものが生まれました。
なぜこういうことにこだわったかと言うと、 自分たちが町をつくる、 居住地をつくるというとき、 その思想を自分で説明して自分で納得するわけです。 空と対話して地上に写しこんでいく作業が、 物語として説得性を持ったからこそ、 風水は長く受け継がれてきたのではないかと思っています。
図26は藤原京です。 風水の四方向を持っているので、 例として挙げてみました。 耳成山(玄武)−吉野山(朱雀)−畝傍山(白虎)−香具山(青龍)に囲まれている都です。
また、 万葉集にもちょうどうまくうたわれています。
大和の青(アオ)香具山(カグヤマ)は
「日の経」(ヒノタテ)とは東、 「日の緯」(ヒノヨコ)とは西のことです。 香具山は東、 畝傍は西、 耳梨の青菅山は背面、 つまり北にあり、 吉野は影面、 つまり南のかなたにあるという意味です。 こういう風に都の場所を歌にできるということは、 風水が一種の物語であり、 人びとにもそれが理解できる文脈を持っていたと言えるのではないでしょうか。
ただ、 東西を日の縦、 南北を日の緯とする例もあります。 したがって、 この時代はまだ用語が確立していなかったためと考えられます。
3)風水
《選地技法》
かって人間は生存の場を営むために、 自然と対話し、 そこから自然の懐に抱かれる術を学ぶ必要があった。
*『万葉集』巻一、 「藤原京御井歌」
日の経(タテ)の大き御門(ミカド)に
春山としみさび立てり
畝傍のこの瑞山(ミヅヤマ)は
日の緯の大き御門(ヨコ)に
瑞山と山さびいます
耳梨の青菅山(アオスガヤマ)は
背面の大き御門に
よろしなへ神さび立てり
名ぐはしき吉野の山は
影面(カゲトモ)の大き御門ゆ
雲居(クモイ)にそ 遠くありける
図27が花札の絵札です。 猪鹿蝶、 それに梅に鴬。
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図28が花札で一番点の高い組合せです。
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図29になると、 点は高いのですが、 私はあまり親しみを感じない札です。 小野道風、 雨蛙、 柳。 絵柄がちょっと説明的すぎるんですね。 まあ、 これはみなさんの好き嫌いがありますので、 どれが好きか嫌いかの実験をしてみるのも面白いと思います。
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《パリはマロニエ》
北京は槐樹(エンジュ) モスクワは白樺 東京はかって美しい欅(ケヤキ)の都市であった。
〈井上靖〉
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これは井上靖さんが書いた文章で、 小説の中で東京のケヤキを保存する運動についての話に出てくる文章です。
「パリはマロニエ」という言葉もパリを表現するときよく使われる手ですが、 もちろんパリにはマロニエだけでなく他の木もいっぱいあるのに、 なぜ「パリはマロニエ」なのか。
それは、 都市を代表する木と言うとき、 都市と街路樹が強く結びついて一種のメッセージを発する役割をしているからだと思います。
こういう表現は世界中にあるのではないでしょうか。
「春はあけぼの」(枕草子)のように、 ある組合わせで、 一つの対象を強調する。
それが流布すると、 その組合わせが、 アイデンティティをもってくる。
先ほどの花札のように、 あるイメージを組合せによって強くする、 つまり個性化する作用がよく使われます。
もっとも簡単に言葉によって形態や空間を表現する方法も我われはいろいろと持っていると思います。
《ドーリス式の柱》
男子では足は身長の6分の1であることを見いだしたから、 かれらは同じことを柱に移し、 そして柱身の下部をどんな太さにしようとも、 その6倍だけを柱頭を含めた高さにもっていった。
上に挙げたような物語が、 この柱にはあるのです。 イオニア式は貴婦人、 コリント式は少女の姿だと言います。 本当にその話を当てはめたかどうかはわかりませんが、 説得力はあると思います。
《アナロジー》
アナロジーの例として、 ジャン・ジャック・ルクーの「牛小屋」を挙げます(図31a)。 牛は確かフリーメイソンのシンボルで、 神殿が牛の形をしていたというので、 単純に牛の形をした建物を設計したわけです。
図31bはよく知られているフランク・ロイド・ライトの「マディソンの教会」です。 祈りのために手を合わせた姿をうつしたと言いますが、 そう説明されればそうかなという気がします。
《扁平なアナロジー》
建築においてアナロジーはよく使われる方法ですが、 あまり安易に考えると次のようなものができてしまいます。
図32はオレンジジュースのスタンドですが、 オレンジの型そのままスタンドで、 まあ遊びの感覚でしょう。 こういうのを「扁平なアナロジー」とネーミングしてみました。 意味と形の関係が浅すぎるものです。
アメリカだけでなく日本でも見かけることがありますが、 ホットドッグの形をしたホットドッグスタンドなどもそうです。
こういうものが今、 私達の回りにはたくさん生まれてきています。 たしか、 中川理さんがこういうものばかりを集めた本を出版されていました。 こういうものは、 意味を形で表現しようと思って、 簡単にやりすぎて失敗した例です。 「結界」で説明した「心のけじめ」とは深さが違います。 といっても、 深さが分からない時代になってきていることも関係していると思いますが。
図33ではホテルの上にどういうわけか自由の女神が立っています。 難解です。 深すぎて意味が伝わらないのか。 目立つことは目立ちますが。
《自由な技法を用いるデザイン技法》
言葉でデザインを表現することについて述べてきましたが、 伊藤ていじさんが『日本デザイン論』の中で次のように述べています。
それ故に言葉で造形原理を説明する必要があるのではないか
要するに、 草花などの自然の素材を使うデザインにおいては、 生け花や造園の「真−行−草」「天−地−人」の技法のように、 形の省略の仕方や自然度の強さによって、 言葉で実際のもののあり方や考え方を表す方法が日本で生まれました(図34)。
図35は生け花の「真−副−体」の例です。 「強くなきは悪なり」と言いまして、 真はすくっと立ち強くなければいけない。 もの足らないところはそのままおいといて「副」で補う。 「副」は「真」が悪いときに隠すもので、 副も悪いときは第三の要素を持ってきます。 一方に強いものがあってその足下を隠すというプロセスを経て、 非対称の美しさを生み出していくシステムを「真−副−体」「天−地−人」という言葉で現している、 というのが伊藤ていじさんの説明です。
言葉でものの組み立て方を説明していくことは、 今日いろんな例でお話ししている「メッセージをデザインする」ということと繋がっているんじゃないかと思います。
ある現象があって、 それを言葉にしてイメージを伝達し、 それを理解して再表現するプロセスについて、 日本人はそれを理解する能力をトレーニングしてきたと思います。 生け花のように、 現物が美しいだけでなく、 そのシステムを理解してその美しさがより深まるという関係があるんじゃないかと思います。
5)言葉による形態や空間の表現
今、 言葉によるいろんな例示を示してみました。
荷を負うに適しかつみたところも是認される美しさををもつためにはどんな割付でそれを造り上げることができるかを探求して、 男子の足跡を測ってそれを身長に当てはめた。
二つの特殊な事物において、 いくつかの性質や関係が共通であるとき、 一方がある性質をもつ場合には、 他方も恐らくそれと同じ性質や関係をもつであろうという推理、 あるいはその推理の根底にある論理。
天−地−人
自由な形をもった要素を使うかぎりでは幾何学に基礎をおいた美学原理は役に立たない。
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