密集市街地の居住空間
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3 石橋の市街化の歴史

改行マークこの一連のスライドで言いたかったことは、 汚いけれどいい街だということですが、 伝わったでしょうか。 では次に、 石橋の街がなぜこういう構造を持つに至ったかを簡単にお話ししておきます。

画像n33 改行マーク写真33は明治19年に作成された地図からおこしたものですが、 Y字型の部分が今の石橋駅にあたります。 外郭道路がこのような形(点線)で通っています。 今の街の周囲には池が多く、 石橋村は街道が交差する地点にありました。 北へ伸びる能勢街道、 西宮から京都に向かう西国街道の交差するところで、 交通の要衝としての位置づけは当時から備えておりました。 ただし、 土地利用としては野村などの村がぽつぽつあるぐらいで、 田畑が広がるエリアでした。 インフラ整備の第一弾は鉄道で、 明治43年に箕面有馬電気鉄道(現阪急)が敷設されました。 それ以降に市街化が進んだのかと調べてみたらそうでもなく、 住宅供給は箕面の桜井や池田の室町などが石橋の隣駅近辺で盛んで、 石橋では目立った展開はなかったようです。 集積エリアを結果的に区切ることになる幅広の道路整備は、 昭和に入ってから起こりました。 昭和7年に能勢街道の後を受ける国道176号が産業道路として宝塚線と並行するようにして駅の東側に開かれました。 また、 ほぼ同時期に、 西国街道の新道国道171号が駅の南側を通りました。 これら両道路が、 街の中心の駅改札口から距離を置いて整備されたことが、 今のような空間構造をなすに至った大きなポイントとなっています。 これには、 分岐駅という独特の形状や、 将来の拡張余地を見込んで、 あえて道路を駅に近接させなかったことが、 原因としてあるように思われます。 一方、 駅前の街本体はと言うと、 昭和に入るまで目立った進展はなかったようです。 それが戦中戦後にかけ、 一気にまちとして発展しだすのは闇市が立ったからです。 駅前という好立地の割に、 集積が未発達な石橋は、 まさに急ごしらえのバラック店舗を集める適地でした。 市をなした仮設の建物が、 いつしか通りに面する本設の店舗兼住宅となり、 これが細街路の多い基盤の上に密度高く発達していったというのが、 今に至る街の形成過程といえます。 細街路の多い駅前の有り様は、 闇市が立った頃から市の改善項目として浮上していました。 昭和14年に池田市は、 駅の両改札近くに駅前広場とこれへのアクセス道を作ろうと計画決定をしたのですが、 道路が実現しただけで、 駅前広場の方は出来ていない状況です。

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