その後、 疎開道路が出来る等、 骨格としての道路は200m〜250mピッチで入っているわけですが、 内部のアンコは基本的に狭隘道路で密集しています。
この様な密集市街地が大阪でどれぐらいあるかというと、 JR環状線のまわりに図3のように分布しています。 生野、 東成、 西成、 福島というような場所です。 この様な市街地は基盤が未整備で戸数密度が1haあたり80戸以上の高密度を成しています。 面積にして約2000ha、 大阪市の1割に当たります。 これはいわば大阪の戦前の都市拡張期のスプロール市街地といえます。 その後その周辺部において耕地整理事業や区画整理事業が施行されて、 スプロールの退治がされていきます。
もう一つの典型として神戸市長田区の御菅地区を見ます。 図4のように100mピッチで道路が入っています。 地区は戦災復興区画整理がなされていますが、 道路配置のベースは古代の条里にもとずくといわれでいます。 阪神淡路大震災のあと、 この一部の地区において震災復興区画整理事業が展開されています。 路地は100mグリッドのなかに縦に4本、 横に4本入っています。 狭隘な道路、 言い換えれば路地が入っています。
このころは建築基準法はほとんど機能していません。 早いもの勝ちです。 特定行政長は京都府でしたが、 そのパトロールに手が廻らずに建てて売ってしまうという、 すごい勢いだったようです。 宅地開発ではそれぞれ勝手に進めるわけです。 建築構造的には、 基礎がないとか、 耐震壁はもちろんのこと、 界壁がないとか、 、 長屋型の場合は天井裏が素通しであるというのがほとんどだったようです。 ですから、 もし出火して一軒燃えると屋根裏を通じて延焼拡大してしまうといった、 燃えやすい構造だったわけです。
以上述べたように密集地もいろいろな類型があり、 十把ひとからげにみることは出来ないといえます。
2 密集地の類型
戦前長屋型
図2は大阪の生野区桃谷地区の例です。 明治40年まではJR環状線内部が大阪の市街地でした。 昭和初期にかけてスプロールします。 図では、 旧河川がありますが、 それは道路に転換しています。 それが狭隘道路の多い中で、 大事な骨格をなす道となっています。 これは原風景として今後のまちづくりの上で魅力要素として活用できると思うのですが、 ここでは直接関係ないためにこれ以上は触れません。
町家型
図5は、 京都市東山区の貞教地区の例。 京都の場合は古町割のグリッド市街地に太閤秀吉が背割りに道路を南北に一本入れることにより街区の分割を図り、 宅地の利用促進が図られました。 街区の中に路地(京都では図子という)が長屋の供給と共に生まれます。 トンネル図子もあり、 行き止まり路地も少なくない。 表通りはいわゆる町屋で裏路地には長屋となっている。 通りに面しているかどうかで居住性も違えば意識も違っています。
建て売り住宅型
図6は戦後の建て売り住宅によるスプロール市街地の例。 宇治の小倉地区は巨椋池の干拓地が宅地開発されたものです。 その際、 干拓の排水路が宅地わりの基準となっています。 昭和40年前後にかけ建売業者が細かい単位で宅地開発を進めます。 戸数密度を見ていますと100〜200戸/ha以上の高密度であります。 といいますのも、 初期の頃には、 建売といっても、 長屋形式が主たるものだったのです。
木造賃貸住宅型
図7は庄内の大島地区。 この地区はもとは集落があったところの周辺の田畑が宅地化したもの、 とりわけ、 長屋や文化住宅がスプロールしました。 庄内といいますと、 戦後の高度成長期の木賃住宅地の代表選手といわれています。 全て文化住宅のように思われがちですが、 このように長屋も少なくない。 供給時期からみると長屋が先に供給されて、 その後に文化住宅や木造アパートが建てられました。 戸数密度では長屋の方が少し低い。 今日では、 除却された跡地は空地として青空駐車場に転化しています。 旧集落地では道路は狭くともそれなりに通っている。 ところで、 こうした密集地で「住宅改善のまちづくりをしましょう」と呼びかけても、 現状で十分だといわれるのが落ちです。 確かに十分といえば十分なんです。 木賃住宅地区においてまちづくりのアクションを起こすことはかなり難しいといえます。
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