芸術橋
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橋をつくる事には賛成だが、 デザイン案には反対

大阪産業大学

榊原和彦


はじめに

改行マーク大阪産業大学の榊原です。 専門は土木デザインで、 勤め先は大阪なのですが京都に住んでおります。 京都市民として非常に関心を持ち、 かつ心配しております。

改行マーク私は橋を作ることには賛成、 今回のデザイン案には反対、 という立場です。

改行マーク今日はまず、 都市あるいは人々がこれまでどのような橋を作ってきたかを考え直してみたいと思います。 次に、 ポン・デ・ザールはどういう橋であるか考え、 その二つから今回の橋をどう評価すべきかを考えたいと思います。

改行マークそして、 私は作ることには基本的に賛成ですから、 デザインがどうあるべきかについて提案したいと思います。


都市あるいは人びとは

どのような橋を作ってきたか

改行マークどのような橋を作ってきたかについては、 (1)橋は“どのようなものとして”作られてきたか、 (2)“どのようなやり方で”作られてきたか、 (3)“どういう意匠あるいは景態(景観の様態)に”作られてきたか、 の三つの側面から見ていきたいと思います。

改行マーク“どのような橋を作ってきたか”について結論を言ってしまえば、 我々は橋をモニュメントとして作ってきたということです。 この場合、 モニュメントとは、 我々の記憶がそこに込められた建造物であるという意味です。 この点についてパリ、 大阪、 東京、 その他の橋を眺めてみようと思います。

改行マーク“どのようなやり方で”というのは、 体制・プロセスです。 “どのような意匠で”については、 京都の場合を見てみたいと思います。


橋は“どのようなものとして”つくられてきたか

改行マークまずパリを例に考えてみたいと思います。

画像sak001 改行マーク写真1はアレクサンドルIII世橋です。 この橋について北嶋廣敏が『パリの橋』という本の中で『その豪華さにおいて、 パリの橋の中でこの橋の右に出るものはない……豪華さこそこの橋の証しでもある』と述べていますが、 確かに豪華な橋です。

改行マーク北嶋も触れていますが、 この橋は国際交流のモニュメントでした。 ロシアのニコライII世からパリ万博を記念して贈られたものなのです。 ところが『パリの橋』によれば「その装飾がかえってこの橋と人との関係を疎遠にしてしまった」とされています。 そのうえ「要するにこの橋は“よその橋”なのである。 他の橋がすべてパリの人々の要求から誕生しているのに対し、 これはいわば“もらいもの”ということになる。 そう考えれば、 この橋に豪華な装飾はあっても、 たいした物語がないのもうなずけるだろう。 贈り物とは、 往々にして、 そうしたものである」と書かれています。

改行マーク金を出して、 贈って、 そしてこういう言われようです。 これがアイデアだけの提供だといったいどう言われるかと心配になるほどです。

改行マークただし、 ニューヨークの自由の女神もフランスがアメリカに贈っているわけです。 贈り物でも親しまれるものもない訳ではありません。

画像sak002 画像sak003 改行マーク次に大阪の例を見てみたいと思います。 大阪は大正10年の第一次都市計画事業以降に立派な橋をたくさん作っています。 写真2は昭和4年に竣工した田蓑橋です。 この頃つくられたものの中で、 私はこの橋が一番きれいな橋ではないかと思います。

改行マークこの写真は『大大阪橋梁選集』という写真集にあるものです。 この本は昭和4年に発行されていて、 48橋が掲載されています。 写真3はその表紙ですが、 工学博士で京都帝国大学の教授、 大阪市土木嘱託の武田五一が指導して、 その弟子であった元良という人が選んだということが分かります。

画像sak004 画像sak005 改行マーク写真4は同じ本にある中之島周辺の橋のうち、 堂島川可動堰です。 都市を象徴する、 都市のシンボルとしてのモニュメントであったことが分かります。

改行マークこのほか鉄橋の堂島大橋や鉾流橋もこの写真に載っています。 ただ写真5の難波橋は載っていません。 これは市電事業による架橋なのですが、 これだけ載っていないのは、 何かいきさつがあるのだろうと思います。 それは別にして、 これだけ立派な橋を都市のモニュメントとして作り上げていたことが分かります。

画像sak006 画像sak007 改行マーク東京の場合は、 やはり震災復興でできた橋梁群が目立ちます。 永代橋とか蔵前橋、 清州橋など、 いずれも立派な橋を作っています。 写真6の永代橋は、 北原白秋が「鋼鉄橋の王者だ」というような表現で誉めている橋です。

改行マーク写真7は長崎の中島川にある石造アーチのめがね橋です。 長崎にはこういった橋が15、6あります。 江戸初期には中国人が寄贈したものが多く、 江戸中期になると日本人の商人が寄贈しています。 江戸末期には庶民が架ける橋になったといわれています。

改行マークよく洪水で流れるのですが、 永久橋を目指した立派な橋です。 寄付で作られたということも含め、 都市のモニュメントであったことが分かります。

画像sak008 改行マーク写真8は通潤橋です。 景態的にも素晴らしい傑作です。 もともとアーチは中国の技術であったと言われますが、 こういうアーチの線を見ますと完全に日本のものとして消化されていると思います。 そういう技術者集団が九州にはいたわけです。 そういう意味で技術的なシンボルと言えるでしょう。

改行マーク先ほどの大阪の場合もそうですが、 土木の技術者が技術的な文明的なシンボルとして橋作りをするという流れがあります。 今でも、 そういうことはよく感じます。 ただ最近はそれがどうも変なふうに出て、 例えば何十径間連続橋を世界で初めて作ったというようなことを自慢するような形になっています。

改行マークそれともう一つ、 この通潤橋は、 篤農家がお金を出して建てたといことで、 地域のシンボルとなることが明確に意識されていただろうと思います。

画像sak009 改行マーク最後に京都です。 三条大橋や四条大橋がモニュメントとしてつくられてきたと思いますが、 ここで注目したいのは七条大橋です。 明治の末に京都が都市計画関連の3大事業の一つとして幾つかの橋を架けなおしましたが、 その時に四条大橋と七条大橋がよく似た構造で、 ともに大正2年にできています。 四条大橋の方は昭和10年の水害で壊れて改築されましたが、 七条大橋の方は今に残っています。

改行マーク鉄筋コンクリートで作られたアーチ橋です。 京都では四条・七条大橋の前にも鉄筋コンクリートのアーチ橋はあったはずですが、 鉄筋コンクリートを使ったアーチはやはり技術的なモニュメント性を持っていたと思います。 この橋には東大の先生も関係されています。 堂々としたこの様子から見ても都市のシンボルとしてということを明確に意識して作られたことは明らかであろうと思います(写真9)。

画像sak010 画像sak011 改行マークただ、 残念なことに七条大橋の現状は情けないものです。 親柱は元々は写真9であったのですが、 写真10のようにしてしまいました。 欄干も分離派、 ゼツェッションと言われていますが、 それを簡単に捨ててしまって、 写真11のようなデザインに改変してしまっています。

改行マークモニュメントとは別の言い方をすれば文化財です。 そのモニュメントとして作りながら文化財として大切にしない。 これは我々市民の責任でもあるし、 土木屋の責任でもあるのですが、 そういう所は実に残念というか情けない所です。


“どのようなやり方で”つくられてきたか

改行マークではモニュメントとしての橋はどのようにつくられていたかです。

改行マーク例えば先程の四条大橋、 七条大橋の場合は、 委員会というか審査会を設けてやっています。 簡単に作っていない。 慎重なやり方で作っています。

画像sak012 改行マークまた写真12は先ほど紹介した『大大阪橋梁選集』にある堂島川の大江橋の模型の写真です。 大江橋は大正13年にコンペをして昭和10年に完成した橋ですが、 この写真集は昭和4年の出版ですからコンペで作った模型写真が載せられているわけです。 この当時、 すでに「都市景観をきっちり考えて、 淀屋橋とのバランスを考えた橋を作ってくれ」というコンペが行われているのです。 残念なことにコンペの結果が他の橋のデザインに流用されるといった不明瞭な点があり、 他人のアイデアを勝手に借用して橋作りをするという姑息なことがあったようなのですが、 それを割引いてみると、 その当時の大阪市の土木屋さんたちの橋作りに対する意気込みが伺えると思います。


“どのような意匠・景態に”つくられてきたか

画像sakz01 改行マーク表1は京都の橋について、 意匠を和風、 モダン、 洋風伝統などにわけてみたものです。

改行マークこれを見ると圧倒的に和風が多いわけです。 川崎先生のおっしゃるような批判が一方であるのも確かですが、 やはりわれわれ市民に、 京都の意匠に対して明確な意思があったから、 このようになっているのではないかと思います。 その点は考慮すべきだろうと思います。


ポン・デ・ザールはどのような橋であるか

画像sak013 画像sak014 改行マーク写真13のパリのポン・デ・ザールは先程材野先生に見せて頂いた鴨川に架けた場合の写真と、 スケール感が全然違います。 近寄ってみた時の鴨川の橋の写真では、 橋が家に比べてかなり大きかった。 それに対して、 パリの橋は非常にかわいらしいという感じがします。

改行マークそれからもう一つ、 写真14は、 建物がかなり沈み込んで見えます。 これが沈んで見えるのがどうも気になる。 これは橋が高くなっているからです。

画像sak015 改行マークですが、 写真15を見ると堂々たる建物に囲まれて橋があるから良く見えます。

改行マーク私は、 材野先生とは違ってこの橋をかなり高く評価しています。


モニュメンタリティ

改行マークポン・デ・ザールとナポレオンの関係を見てみたいと思います。 この橋は1801年に計画され、 1804年に完成しています。 一方ナポレオンは1799年に第一執政に就任し、 1804年に皇帝となっています。

改行マークJ. Van Deputteの『Ponte de Paris』によると提案したのは技術者のド・セザールとディヨンでした。 お金を出したのはオーステルリッツだそうです。 第一執政がエコール・ド・ボザールをルーブルの建物の中に作ろうと思っていたといった記述はありますが、 ナポレオンがこの橋の建設に関わったという書き方は一切していません。 名前をつけたのが誰かも全然出てきません。 一切わからないのです。

改行マークしかし、 覚えておいて頂きたいのは技術者が提案して別の人が金を出したということです。

改行マーク一方、 レオナルド・ベネヴェロの『近代建築の歴史』には「19世紀の初め、 ナポレオン政権は、 フランスの製鉄工業の発展を促進した」という記事があります。 また、 ナポレオンの関与について北嶋廣敏の『パリの橋』に次のような記述があります。

改行マーク「大方の人々はこの橋に対して好感を抱いたが、 批判もないではなかった」「鉄の姿が異様に映ったとしても不思議ではない」。 みすぼらしく見えるとかルーヴルや学士院の眺めが悪くなるなど批判が非常に多かったようです。 そこで「心配したナポレオンは馬に乗って橋を視察にやって来た……皇帝は橋の周囲に目をやると、 すかさず“このままでよろしい”と断言し、 かくてこの鶴の一声で批判はあっさりとしりぞけられてしまう」というわけです。

改行マークですからナポレオンが実は結構関わっていたのだろうと推定できます。

改行マークあるいは松井道昭『フランス第二帝政下のパリ都市改造』には「ナポレオンは14の架橋をした」とありますし、 ギーディオンは『空間・時間・建築』のなかで「ルイ14世は庭園を造り、 ルイ15世は広場を、 そしてナポレオンは街路を造った」と述べていますので、 これらもナポレオンの関与を示唆しています。

改行マークそうしてみると、 ナポレオンがかなり関与した上で、 やはりモニュメントとしてポン・デ・ザールは作られたのであろう。 つまり新しいフォルムで、 鉄のモニュメントとして作ったのではないかと思います。

画像sak016 改行マーク鋳鉄の橋で最も有名なものは、 The Iron Bridgeです(写真16)。 イギリスのセヴァーン川に架かっている橋で、 1781年に作られています。 ポン・デ・ザールの20年ほど前です。 この二つの造形を比べると、 私は造形的にはThe Iron Bridgeの方が優れているという気がします。


意匠・景態

改行マークパリ市民の反応を見みると、 さっき申し上げたように批判があったわけです。 そこで、 それに対して自らを飾ることを思いついた。 これは最近の土木屋さんがよくやる手ですが、 橋の上に街灯を取り付け、 両側の手すりの側に花壇を置きといったことをしたわけです。

改行マークしかし、 19世紀中頃になると、 かつて沸き上がった批判が全く意味を成さなくなったほど、 橋は賑わいを見せます。 そして、 名のごとく多くの芸術家が集まった。 芸術の広場となった。 つまり反対があったけれども、 結局のところ受け入れられたと言えます。

画像sak017 改行マークこういう例は他にも多くあります。 例えば、 エッフェル塔がそうです。 あるいは、 琵琶湖疎水の水路閣(写真17)。 この辺は、 結果的に受け入れられたと思います。 京都タワーは、 最近は多くの人が慣れてきているわけですが、 私はいまだに受け入れ難い。 この辺はまだ評価が定まっていないところです。

改行マーク京都駅は最初思っていたほど景観的に問題ではなかったかもしれないと私は思います。 ただし、 デザインには批判はいっぱいあります。 あのような格調のないものを駅にするのは私は良くないと思っていますが、 景観的には受け入れられるかもしれないと思います。 ですから、 この辺は今回の芸術橋の問題を考える上で教訓的に考えても良いところではないかという気がいたします。


鴨川歩道橋案をどのように評価するか

画像sak018 画像sak019 改行マーク写真18a、 bでも分かるように、 都市の景観的文脈がまるで違うところに同じようなものを持ち込むというのは、 非常に乱暴なことです。 さっき言ったようにスケールが全然違います(写真19a、 b)。 結果的に似て非なるものになってしまうと思います。 パリのようにきれいにはならないわけです。 ポン・デ・ザールはアーチの連なりが美しいのですが、 鴨川ではアーチの連なりが3つぐらいになってしまいます。 これは非常に変だろうと思います。

改行マークまたモニュメンタリティを考えた時に、 鴨川歩道橋に都市のシンボルとしてのモニュメンタリティがあるかどうかです。 先ほどのアレクサンドルIII世橋への批判からすれば、 借り物の橋が何を言われるか心配になります。 友好の証として喜ばしいという見方よりも、 むしろ古い言い方かもしれませんが、 文化侵略といったところさえあると私は思うのです。 そのうえ市民合意もない。

改行マークまた文化財となりうるかを考えると、 引用のデザインが果たしてどうなのかを考えるべきだろうと思います。

画像sak020 画像sak021 改行マークハウステンボスに行かれた方は御存知でしょうが、 いかにも日本的な風景の中にポコッとオランダがある(写真20)。 それはないでしょうというふうに大抵の人が思うのではないかと思うのですが、 鴨川のポン・デ・ザールもやはりそういうことになる。

改行マークそれから富山県の小矢部では、 子供たちに世界の有名な建物を見せようということで、 町長が先頭に立って有名建築のコピーをいっぱい作った(写真21)。 スケールも何もむちゃくちゃです。 こういうものと鴨川のポン・デ・ザールとどれだけ違うのかという話です。

改行マークさっき、 水路閣の話をいたしました。 この水路閣も実は引用のデザインです。 直接写したわけではないのですが、 教科書そのものを写したに等しいわけです。 しかし精神が全く違う。 水路閣は文明の意匠、 civilizationの意匠であったし、 技術者が新しいものに挑戦し技術的モニュメントとして作ったという積極性があります。

改行マークそういったことで、 結論を言えば、 パリを思い浮かべずして見ることはできない。 やはり反対であるというのが私の意見です。


鴨川歩道橋はどのようにあるべきか

改行マークしかし私はあの場所に橋を作った方が良いと思っています。 さっきの芸術橋のように人々が集い、 そこで楽しむ、 都市を活性化する場所にしたい。 そこで次に新しい京都(づくり)のモニュメントとするためにどういう橋が良いかを提案したいと思います。


モニュメンタリティ

改行マーク一つには技術的モニュメントであって欲しい。 当時鋳鉄が新素材であったように、 今も新素材はあるわけです。 例えば炭素繊維とか複合材料とかいろいろありますが、 まだ新素材で橋がつくられたとは聞いたことはありません。

改行マークそこでそういう物を積極的に取りいれ、 技術的モニュメントとして作れないかということです。

改行マークあるいは、 ポン・デ・ザールの理念を引き継いで、 日仏の協働で新しい文化的成果としての橋を作り上げ、 日仏文化交流のモニュメントとして頂きたい。

改行マークもう一つは、 市民の合意に基づく新時代の都市施設づくりということに是非ともチャレンジして頂きたい。 これはやはり、 京都ホテルの問題とか京都駅問題があったわけですから、 今回は違う都市づくりを始める契機にしたい。 そういうモニュメントとなりうるだろうというのがもう一つです。

改行マークそれから、 都心の新名所となる都市デザイン、 環境デザイン上のモニュメント、 あるいは人道橋たることによる歩行者復権のモニュメントなど、 そういうモニュメントとして作りうるのが鴨川歩道橋であろうと思うわけです。 これが私の提案です。


つくる体制・プロセス

改行マーク最近は競創とかコラボレーションということがよく言われています。 デザイン方法の面で新しいことがいくらでもできそうです。 もちろん、 合意形成をうまくするということもあります。 コンピュータによるCGプレゼンテーションとかインターネットなどをそこに導入することもありうるだろうと思います。


意匠・景態

画像sak022 改行マーク材野先生のお話の日本の伝統的橋梁を復元的につくるということには、 私は賛成ではありません。 写真22は伊勢神宮の宇治橋です。 つくるとしたらこういうものになってしまうのでしょう。 伊勢神宮だからこれはいいのですが、 我々が生きる京都では遠慮したい。 これはやはり、 引用のデザインでしかないだろうと思います。

改行マーク先程の材野先生が言われた「残る技術を駆使して」ということですが、 意義は分かりますが、 なぜそれを鴨川に持って来るのかが分かりません。

改行マークやはり、 新しい技術で、 新素材の特徴を活かした構造、 新しい形をもって、 ポン・デ・ザールの特徴である軽やかさと繊細さ、 簡素な上品さを表現したい。

改行マークそれからもう一つ、 これも結構重要なことですが、 阪神大震災で橋も大きな被害を受け、 構造基準が見直されています。 私はそれに見合う橋梁美学が要請されている、 あるいは美意識自体が変わるべきだと思います。

画像sak023 改行マークこの点、 先程の川崎先生のお話に私は反対します。 流れて当然のような橋を作るというのは基本的に間違っています。 流れない橋、 地震に壊れない橋を作るべきです。 スレンダーなのが美しい、 それはいいわけですが、 できないものはしょうがない。 阪神大震災に対抗しようとすれば写真23にあるように、 非常に軽い上部構造に対して非常に重い下部構造を持ってくるということが1つの解決策だと思うわけです。 そして、 それに見合う橋梁美学を作っていけばいい、 あるいは美意識自体が変わっていくと私は思うわけです。 それの見本が錦帯橋にあると思うのです。 そういう新しいデザイン、 美意識を阪神大震災が我々に迫っていると思います。

改行マークそれから、 モニュメントにふさわしい名前であってほしいと思います。 仮に現状案で鴨川芸術橋と名づけたら、 その名前と実態とは全く相反するものになってしまい、 しらけるだろう。 つまり、 芸術という名に値するような創造性というものはどこにもないと私は思うからです。

改行マークしかし、 芸術橋と言う名前は素晴らしいと思います。 その名前に相応しいものができないかという意味もこめて、 以上のように提案したいと思います。

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