もう一つ、 橋本さんにお聞きしたいのは、 一番ユニークなだんだん畑ですが、 今後どのように維持管理し、 住民参加でどこまでをアートにしていくのかという疑問があるわけです。 東部新都心の場合、 「路地花壇」という提案をしました。 それは住棟足元の身近な路地に新住民の方も参加でき、 手入れができる花壇です。 このようなパブリックの空間の場合、 住民参加と維持管理は特に建設後が大事だと思います。 私たちはそこで、 建設後入居されたあとからワークショップを何とか出来ないかと今、 公団の担当者の方と一緒に検討しています。
ここで大事なのは、 植栽プランというものは、 手入れをしていけばどんどんイメージが変わることです。 住民が変えていけば住民の手によるコンセプトになっていくわけです。 その場合、 どこまでをアートと言い、 どこまで作品性を守るのかということが問題になります。 形態だけではなくルールやシナリオまで組み立てられるのでしょうか? 私は本来、 アートを自己の作品と呼ぶのなら、 それは作家から手離れした後も自己生成できる空間的な仕組みが提案されているところにある、 と思うのです。 今回のように、 更に進んで住民の参加シナリオまでアートとして考えておられるのなら、 作家が従来型のアーティストとしてアメリカから登場し、 なぜ造れば帰ってしまわれるのかよく判らない。 それなら、 先ほど上野さんもおっしゃったように作家性を離れて、 アートでなくプロデューサーに徹した方が、 いいんじゃないでしょうか。
実際この空間での作業を考えますと植物の種類や時期、 土壌などをどうするのか、 定期的なコンタクトが必要なわけです。 そこから住民が手入れをする日常風景(コモン・ランドスケープ)ができたなら、 それこそが、 ひとりの作家ではなく、 住み手によるコミュニティ・アートになるんじゃないかと思うのですが、 そのあたりいかがでしょうか?
どこまでがアートか
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