1169年以前の尾道は全く歴史に登場しませんから、 町とも呼べない小さな漁村だったろうと言われています。 今の「うずしお小路」あたりの発掘で平安時代のカワラケが出たことはありますが、 平安時代のものはそれだけで、 それ以外の発掘ではすべて鎌倉・室町以降のものしか出てきません。
開港以後の発展は大変なものであり、 約百年後には尾道に寄港する船舶から通行税を取っていたとの記録がありますから、 単なる荘園米の積出港ではなく、 港町として独自の発展をしていたと言えます。
尾道水道の向かいは向島という島です。 東側が松永湾です。 このあたりは潮の満ち引きが激しいところで、 大阪と九州から潮が満ちてくるとちょうどこのあたりで出会い、 潮の流れの関係から船は西回りで尾道港(水道)に入ってくるしかありませんでした。商業港としての発展(第1期)
商業都市・尾道の成立
尾道は1169年(嘉応元年)に、 当時の後白河法皇によって太田の荘の荘園米や麦を積み出す港の指定を受けました。 それが商業都市として繁栄する出発点となります。 これは高野山文書(大日本史料)の第一巻第一項に記されており、 後に太田の荘が高野山に寄進されたことから文書に残されたようです。 ちなみに高野山と尾道はその後も密接な関係が続いたようで、 ごく最近の20〜30年前までは尾道の人が高野山に行くと特別扱いをしてもらえたそうです。
図1 1804年頃(文政初年頃)の尾道 |
図2 1825年頃『藝藩通史』文政年間の編纂 |
この三山の間の二つの谷には、 今は暗渠になっていますが幅2mぐらいの川が流れていました。 今でも大雨になると尾道水道に黒い水が流れて出てきますから、 川があるんだと気づきます。 おそらくその川に沿って街並みが続いていたのだろうと思います。 今の山陽道に沿った街並みとは全く違った街だったのでしょう。
鎌倉・室町時代以降になって浄土寺や西国寺が整備されていくと、 それに伴って街は徐々に西に伸びていったようです。 この二つの寺の間を掘ると、 鎌倉時代のものが大量に出てきます。
メインの交通網は、 今の東西に走る山陽道ではなく、 三山の谷筋から背後の山の尾根をたどって北へ向かう街道でした。 石州路とも出雲道とも呼ばれたこれらの道のうち、 西口寺山の西に出てくる街道は西口寺山から現在の商店街近くまでのびる尾根線に沿って町に入るもので、 最近まで間道として使われていました。 福善寺下に等高線に沿って斜めに走るのがそれで、 国道2号線で分断されてしまいました。 道が斜めになっているのは山の等高線を伝わった道だからです。
街並みが西へ伸びていったのは室町時代以降で、 長江通りが今の2号線とぶつかるあたりの西丹花からの道を下へおりていくと、 今でも残っている三好屋小路や今蔵小路、 小川町にたどれます。 消防署がある辺りの海側の路地です。 小川町は小川壱岐守道海(笠岡屋の屋号を持つ)という豪商の邸宅跡がそのまま街の区画として残ったので小川町と呼ばれています。 今蔵小路は、 豪商だった泉屋の蔵から出てきた名称です。 新開の西にあたるこれらの街は中世にすでに形成され、 湾の入り口に豪商達が軒を連ねていたことがよく分かるのです。
天寧寺は室町二代将軍足利義詮(あしかがよしあきら)が父の足利尊氏の菩提を弔うため、 夢窓疎石に命じて建立させたそうで、 街もそれに合わせて開発されていきました。
室町時代になると、 やがて尾道を基地として対明貿易が始まります。
天寧寺の下には「鍛冶屋町」という町名があり、 そのころの名残をとどめています。 今でもそれに近い生業をされている人も2〜3人います。
その頃の町が今に残されているように思うのが、 通りの「ゆがみ」です。 今の本通り商店街が郵便局や常称寺大門あたりでクッと曲がっているのは、 中世の町割のゆがみが残っているからではないかと思っています。 戦時中の民家撤去や道路拡幅のせいで中世の町割りを読みとるのは難しくなっていますが、 街の角かどにはそうした中世のゆがみが残っています。
文化文政の頃の地図を見ると、 外敵の侵入に備えて通りに面する家々が直線とならず、 「ヒダヒダの町」と表現される隣家との間にちょうど人が一人待ち伏せできる程度のスペースが設けられました。 その頃はそれぞれの家が違う方向を向いて建っていましたが、 現在ではそれを読みとることはできません。
また、 尾道は中世に突如として発展した町ですが、 その繁栄には倭寇と呼ばれた海賊達が大きく関わっています。 尾道は彼らの本拠地ではなかったかと私は推測しています。
足利尊氏が1336年に尾道に寄って、 浄土寺に和歌を奉納したという記録が残っていますが、 私は倭寇の持っていた瀬戸内海の制海権の許可をもらいにきたのではないかと思っています。 尾道は倭寇のブラックマーケットでもあったのです。
実際、 尾道船籍の船が海賊に襲われたことは一度もありませんでした。 もっとも彼らを海賊と呼ぶのは現代の考え方であって、 当時の彼らにしてみれば自分のテリトリーに進入する外敵に対抗したにすぎないのです。
大発展した対明貿易の時代
対明貿易が始まり、 尾道に住み込むようになるのは中国山地の鉄を加工した日本刀を扱う人々です。 日本刀は大変よく切れると中国・朝鮮で高く評価されましたので、 室町幕府は高額の輸出品として力を入れていました。 中国山地で採れた鉄をここで「備後刀」に作り、 それを輸出して中国からは一文銭を手に入れたわけです。
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