北前船はいわば動く商社ですから、 仕入れた品物をよその港で売る。 その価値差で儲けていましたので、 どこで売れば最も得かという情報に長けていました。
では、 なぜ北前船の寄港に尾道が選ばれたかといいますと、 積んだ荷が売れると同時に、 買い積みのできる港であったこと、 尾道が瀬戸内の物産の集散基地であったからです。
尾道では、 北海道の昆布や魚肥、 北陸の米がおろされ、 古着まで含めた綿製品や瀬戸内の塩などが積まれました。 なかでも、 綿製品は綿花のできない北の地では庶民の衣料として最も必要なものでしたから、 多く積まれました。 尾道の東、 松永湾岸では、 北前船の運んでくる魚肥をつかって綿花栽培の増産をはかる循環も生まれました。
尾道の町は、 といいますと、 それまでの商業形態や商圏を飛躍的に発展させることで、 生産物を変え、 商人の生まれ変わりも起こり、 町割りをも変えてゆきます。 産業では、 造酢業が起こり、 鍛冶作業は需要に応じて「錨」を鍛造し、 特産品にまでなってゆきます。
新興の豪商たちは、 湾の入り口に陣取った中世以来の商人に抗して、 天寧寺下あたり千光寺山裾に沿って居を構えてゆきます。 現在は山陽鉄道で分断され、 国道2号線の敷設で長江通りの交差点になってしまいましたが、 現在の長江口児童遊園地は周辺を含めて当時の豪商『加登灰屋―橋本』の邸宅跡です。
さらに現在の尾道市役所前の一帯は、 湾に突出して旧豪商グループによって占有されていましたが、 その地先は埋め立てられ、 新興豪商グループのプライベート港に転じます。
北前船の寄港は尾道の商行為を一変させ、 かつ発展させましたが、 その商勢は、 時に京阪神をしのぎ、 名高い大阪商人さえ尾道に出張商いをしていた記録もあります。 いずれにしても、 瀬戸内の拠点尾道に発展をもたらした北前船の寄港は尾道に大きな影響を与え、 また大阪商人がもたらした商法上の影響も看過できないものと思っています。
北前船の寄港(第2期)
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