HAT神戸・東部新都心に見るマスタープランの役割と課題
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周辺地域の活性化ということ

耕地整理法以前に生まれたまち

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神戸市域 新道開鑿・地域更正事業 箇所図
改行マーク基本方針の中で周辺地域の活性化ということが謳われているのですが、 この地域は市街地が形成され初めてから、 ほぼ100年の歴史があります。

改行マーク神戸の市街地形成を概観しますと、 まず、 開港時に居留地ができるわけですが、 次に、 神戸山手地区(県庁がある地区で、 旧生田川と宇治(野)川の間で雑居地として認められた地区)と、 神戸駅前の湊川神社がある仲町部という地区(新しく開かれた「神戸」と古い「兵庫」との仲をとりもつ町)が、 新道開鑿事業という事業で、 まちとして開かれます。 とりあえず道をつけるということです。 明治の初期の話ですから、 区画整理とか再開発とかいう手法はありません。

改行マークそれから、 この図3の中で斜線の部分は、 明治20年から40年ぐらいにかけて開かれたまちです。 このうち、 新生田川よりも東側、 JRよりも南側がHAT神戸の周辺地域ということになります。 この斜線の部分は、 新道開鑿・地域更正事業が行われた地区です。 新道開鑿に地域更正という名前が付加されるわけです。 神戸山手地区のときは、 道路だけをつくったわけですが、 道路だけをつくったら、 当然、 へた地が出てくるとか色々問題が生じてきます。 そこで区画整理という手法ができたわけですが、 同法のできる(昭和29年)よりずっと以前に、 1902(明治35)年のアディケス法以前に、 明治42年の耕地整理法(同法は明治32年に制定されていますが、 42年の新法ができてから、 使われるようになったようです)以前に、 また、 大正8年の都市計画法以前に、 地主さん達が集まって、 減歩や費用負担のことを取り決め、 いわば組合区画整理をやったわけです。

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戦前の市街地整備事業(新道開鑿、 耕地整理、 区画整理等)の区域と事業実施の主たる期間
改行マーク神戸の市街地全体を見てみます。 図4で中央の、 「(JR駅表示で)東端が三宮、 新神戸、 西端が兵庫の、 その間に挟まれる小さいドットの区域」が、 先ほど申しました山手地区とか、 神戸駅前地区です。 明治の後半にはHAT神戸の帽子の頭の部分やその周辺地区とか、 兵庫のあたりができあがっています。 大正になりますと耕地整理になりますが、 その周り(外側)にまちが造られていきました。


郊外、 周縁であるということ

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明治18年当時の地形図、 新道開鑿・地域更正事業、 大正12年当時の地形図
改行マーク図5の左側の図面は明治18年の地形図ですが、 HAT神戸のあたりはまちとしては形成されていません。 昔の集落が残っているという状態です。

改行マーク右側が大正12年の図面(S=1/10000)です。 先ほどの新道開鑿・地域更正事業、 耕地整理により、 まちがどんどんできあがっていったのですが、 それに隣接して、 明治後半に内陸部では、 関西学院、 神戸高商といった学校ができてきています。 それから、 南側にダンロップや神戸製鋼とか川崎製鉄の工場ができてきています。 工場用地の海面埋め立ては大正4年からです。

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大正12年の地図
改行マーク図6は大正12年の地図(S=1/3000)です。 9年に神戸に都市計画法が適用されて、 11年に決まった都市計画道路が記載されています。 図5の拡大図だと思ってください。 このあたりは明治22年に神戸に合併されるわけですが、 神戸市の極東に当たります。 すぐ近くに郡市境界線が見えますが、 東側が菟原郡(今の灘区以東)です。 明治38年開通の阪神電車の春日野道駅、 明治43年に開通の神戸初の市電の春日野道駅があります。 、 ここは神戸の東の端のターミナルだったということができます。

改行マークその北側は、 春日野道商店街です。 先ほどいいました学校群は、 山手にあって、 南の海側には工場群があります。 今の神戸でいえば、 西神、 北神のニュータウンをイメージさせるような「(住宅団地や工業団地の)組み合わせのまち」が当時できていたということです。

改行マークしかし、 これらまちの形成には色々な問題が付随しています。 話が飛ぶようですが、 都市の建設、 計画というと、 古来より2つの目的がありました。 1つは立派なもの(少し露悪的に云えば、 威光を高めるもの)を造るということ。 古くは特に中国に対して見栄えをよくするということで、 赤や白に塗ったりしています。 近代では欧米に対してです。 不平等条約改正のためです。 2つめは衛生や環境の問題です。 近代になって、 神戸市の場合、 明治19年に、 長屋、 裏屋の建築規制が初めてできたわけですが(行政組織としての神戸市が誕生するのは明治22年ですから、 正確には兵庫県によるものですが)、 その頃にはこの地域は都心ではなかった。 先ほどの明治18年の地図を見ていただきますと、 まだそれだけの市街地形成がなされていなかったのが分かりますが、 そこで、 まずは、 その規制の区域に入らなかったものと考えられます。

改行マークところが、 開港場となった神戸には、 どんどん人が集まってくるわけで、 建築規制と、 労働力の確保などの、 いろいろな社会的要請や圧力のせめぎ合いの中でまちが形成されていくことになったのです。

改行マーク今は、 インナーシティというような言葉を使いますが、 解きほぐしていくと、 こういう事実にぶつかるということです。 ですから、 非常に重い基本方針が、 パンフレットの中に、 保存食のような言葉で書かれているわけです。

改行マーク周辺地区は外科的な手術による市街地整備は相応しくないと思われます。 震災前は市街地住宅密集地区再生事業なども進められていたのですが、 震災後は住宅市街地総合整備事業によって、 共同化などの支援が、 現在、 約300戸に対して行われています。

改行マーク先ほど、 神戸の市域のことを少し申し上げましたが、 市域がどこまであるのかによってその行政の及ぶ範囲が決まってくるわけで、 鉄道の立体化が残した問題、 例えばJRは、 大正15年から昭和6年に灘から鷹取間の高架化がなされますが、 裏返せばそれは、 灘区(以東)の南北道路の不通や交通阻害の問題などを残した、 となるわけですが、 その問題は、 六甲山南麓市街地のほとんどが形成された大正期、 昭和初期の神戸市域(灘区は昭和4年に神戸市に編入されています)のありように、 直接に影響を受けているのではないかと思われます。

改行マークそういうマイナスも、 その後の改善によるプラスも、 すべてが蓄積されて、 今に残っているというのが歴史ではないかと思っています。

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