民俗地理学から都市を語る「故郷の景観について」
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コミュニケーションと消費

個別分断消費と劇場性の喪失

伊東:

改行マーク私はこういう話題は詳しくはないのですが、 一つ知っていることからお話ししたいと思います。

改行マークパリにボンマルシェというデパートがあります。 これは世界初のデパートなのですが、 ここで初めて商品に「定価」がつけられました。 このデパートが出来たのは19世紀後半くらいなのですが、 それまでは市場などで値切って買っていたわけです。 値切るということは、 売り手と買い手がお互いに丁々発止をする、 そのやりとりで値段が決まる。 これは、 ある意味では演技をするということです。 それがめんどくさいから、 やりとりがなくなってしまったわけです。 売り手と買い手の丁々発止を劇場的空間というならば、 デパートは人と人の間にではなく、 モノにその劇場性・スペクタクル性をつけた、 人間関係の間で決まる価値をモノの属性へと物象化したと言えると思います。 さらに、 コンビニになるとこんどはその劇場性をもどんどん消し去っていきます。

改行マークそういった現在の消費の状況をみるうえで、 森栗さんのお話しのなかで、 気になるキーワードとして「個別分断消費」というのがありましたが、 コンビニ的消費はまさに劇場性をもなくした、 商品と消費者だけの孤独な関係に縮小されています。

改行マークこれについては、 同じことですが、 哲学としては「自己決定権」という概念が使えるかと思います。 自分で決めたことは何をしてもいい、 ということですが、 根にあるのは、 私的所有物つまり自分のものは自分でどう使ってもいい、 どう売ってもいいという考え方です。 私の体が、 私のモノならば売ってもかまわないので、 援助交際などもこれにあたるわけです。

改行マークただ、 これには条件がついています。 他者も自己決定権を行使するわけですから、 その人の自己決定権を侵害しない時には何をしてもいいというものです。 私は授業の時によく言うのですが、 授業が退屈で寝ているのは構わない。 しかしおしゃべりをするのはいけないと。 これは他の人の授業を聞くという権利を侵害しているからです。 売春ももし全く自由な意志と環境で行なわれるなら、 認められてもいいという考え方です。


消費に従い、 機能優先でつくられる街

改行マークさて、 このボンマルシェは、 通信販売を始めたことや、 トヨタのように在庫を減らす「かんばん方式」を導入したことでも知られていますが、 これを都市環境デザインに絡めてお話ししたいと思います。

改行マークボンマルシェができたのは、 第二帝政つまりナポレオン三世の時代の頃で、 ご存じの通り、 彼の命をうけてオースマンがパリの大改造に取りかかります。 そこで例えばブールバールという大通りができました。 それまでは自分のカルチェ(地区)の近隣の市場で丁々発止とやっていたのが、 ボンマルシェが出来たことによってパリの中心まで、 遠くまで行くようになる。 そこで道路をつくり、 都市環境を構成し、 といったことが行われるわけです。 このように都市環境が消費に従った形で造られてしまったわけです。

改行マークそれをもう少し普遍化して言いますと、 我々は都市経験として、 色々なものを持っていたけれども、 都市経験があまりに消費に還元されてしまいすぎているということです。

改行マークそれからもう一つは、 機能を移動させるという形で都市をつくる傾向が強くなってきたということです。 消費に限らず、 例えば震災のあとに道路を広げて、 消防車を早く走らせようというのも同じで、 災害に対する援助とか医療とかの機能を移動させるための都市づくりをしているわけです。 それはある意味ではまずいのではないかと思っています。 そういった機能主義的なものを、 どこかで変えて行かねばならないのではと考えています。


孤独の神聖化も
コミュニティの絶対化でもなく

改行マーク先ほど「コミュニティ」の話が出ましたが、 実は私もあまりコミュニティが好きではありません。 しかし、 それならば人と人との関係をどうするかという問題が出てきます。

改行マーク前の話に戻しますと、 パリを大改造した時に、 もう一つした仕事があります。 パリのワイン屋さんの地下に立ち飲み屋のようなものがあったのですが、 それをみんな壊してしまいました。 つまりそこで不穏な輩がたむろしていると。 フランス革命期の頃のカフェのようなものが想定されていたのでしょうが、 今の我々の目から見ると、 それこそ企業町内会のようなものがあったのかもしれないのですが、 それらを全部破壊してしまうわけです。 我々はこの19世紀頃に、 孤独であるとか一人で頑張ることに対して神聖化しすぎてしまったのではないか。 この頃が一つの変わり目、 切れ目になっているのではないかと思います。

改行マークそこで、 孤独になった個人が関係をどう取り戻すかという問題が新たに生じますが、 そのときに、 「コミュニケーションの密接さ」や「コミュニティ」に圧迫のようなものを感じてしまうのはなぜなのか。 それは、 本音でつきあうとか、 誠実に相手とつきあうということを良しとしすぎたためではないか。 孤独になって一人でうんうんと自己反省して、 自分のことが明らかになる、 そして今度は、 その自分をあますところなく完全にお互いに暴露し合うような関係をとりもち、 これこそ本当の人間関係だ、 誠実で窮屈な関係だ、 と神聖化されてしまったのではないか、 という思いがあります。 あえて言うと、 正しいということの中身が問われることがなく、 ただ中身をすっかりぶちまける。 何を言っているかを問うのではなく、 本音で語りさえすればよい、 ということになってしまいます。

改行マーク人とつきあう時に、 本音でつきあったり、 誠実につきあったりすると疲れるはずなんです。 しかし、 都会の良さというのは、 距離をおいた良さであって、 この社会的距離をどういうふうに取っていくか。 例えば、 演技をする人間同士の仮面をかぶった関係がなぜ悪いのかということです。 そういうコミュニティのありかたも、 考えてみたらいいのではないかと思います。


社会的な距離をとって遊び合う
という関係の再構築

改行マーク仮面をかぶるということは、 演技をする、 演技をするということは、 プレイ(遊び)をするということです。 遊びをして、 ゲームをするわけですから、 当然競争はあります。 ゲームの大事なところは、 明らかに弱い人に対してはハンデをつけるということです。 勝てばいいというものではない。 5歳の子と10歳の子でゲームをするのに、 同じような条件では面白くないはずです。 そこで5歳の子にハンデをつけて、 ゲームを進めていくわけですが、 そうした進め方が、 例えば福祉にもつながっていくのではないかと思います。

改行マーク福祉をどう考えるのかというのは問題で、 ある意味では、 困った時には援助を受ける個人の権利とも考えられるのですが、 社会競争をゲームとして捉え、 他者の認知を要求しながら、 それに見合ったハンデをつけたルールのもとにゲームを進めるという文脈で考えたほうが面白いのではないかと。 そういう考え方の延長線上に、 べったりとした関係ではなく、 社会的な距離をとって遊び合うという関係の取り方のイメージがありそうだと、 私は思います。

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