「パブリック」「公共」を分かりやすい言葉で言うと、 「みんなの」という言葉になると思います。 先ほどから話題になっていますが、 官が持っている役所的な公共空間の話にしても市民社会における公共空間の話にしても、 そのイメージにおける「みんな」をどう捉えるべきかというパブリックの議論は昔からあります。 今日の話も基本的にはそこに落ち着くようで、 パブリックの前提条件は何かというと「みんなのための」ということになると思います。
ところが、 私が以前タイに行ったときのことですが、 そこでは野良犬のことを「パブリック・ドッグ」と呼んでいるのを聞いて、 目から鱗が落ちるような衝撃を受けました。 「誰にも属さない」ことをパブリックと呼んでいることがとても印象的で、 そういう側面からパブリックを考えることもできるという気がします。
日本のパブリックアートは誰からも文句をつけられないモニュメンタルなものが多いのですが、 パブリックを「誰にも属さない」と考えると、 もっとショッキングなパブリックアートも出てくる可能性だってあると思います。
また、 先ほど「発見しうるものは何か」というお話がありましたが、 ランドスケープにおけるパブリック性も「何者にも属さない」から発見される可能性があると思います。 ランドスケープの中にあって見いだされるのは、 そういう性質のものだろうという気がします。 それをデザイナーがどうセットしていくのかということも議論になるのではないでしょうか。
また少し話がずれるのかもしれませんが、 逆に「発見されるもの」が現場にあるにもかかわらず、 デザイナーが封殺してしまうこともあると思います。 見い出されるものを作るデザインと、 誰のものでもないパブリックを考えていくと、 デザイナーの行為は「デザインする」ことと矛盾する側面があるのではないでしょうか。 ひょっとしたらパブリックのデザインとは、 プレ・デザインあるいはメタ・デザインであるべきなのか。 その辺の考えをうかがいたいのですが。
佐々木:
面白いですねえ。 そこから問題点が発展しそうで、 そういうご意見を待っていました。 三谷さん、 お答えになりますか?
今ご指摘いただいた点は、 言い換えれば「みんなのもの」と言ったとたんに匿名性が高くなって、 結局は誰が行っても自分のものとして感じられない味気ない空間になってしまうという問題でもあると思います。 一方、「 誰のものでもない」という公共空間はありえなくて、少なくともお役所が管理している。しかし、これもまた更に匿名性が高く味気ない話です。逆に民有公共だと、確実に誰か一人のものであってみんながそこを使わせてもらうということになる。 そういう気持ちがある方が、 個人の顔が見えてリアリティがある。 他人が造った庭を私がくつろぐために使うということですね。
しかし、 そういう空間は日本にも昔からたくさんあったはずです。 私が子供の頃はまだ都市整備が行われていなかったので、 通学路の大半は誰かの私道を通っていました。 誰かの家の庭先や建物の間で綺麗にしているところです。 そこにこそ、 質の高い公共性があったと思うのです。 そういう感覚を今の公共空間にも生かせないか。 誰か一人のものなのに皆が使っている、 そういう公共性のある空間ができないかと思います。
例えば鎮守の森は誰のものかというと、 実は所有形態としては氏子のものであり、しかし同時に地域の共有の風景だというのが正しいと思うんです。 三谷さんが最初の事例で江戸時代の版画を出されましたが、 日本には欧米のように広場はなかったけれど、 風景を共有してきた歴史があり、 形としての公共性は持っていないけれど、 風景としての公共性を持っていたのではないでしょうか。 日本のパブリック性は日常風景の仕草や佇まい、 生活作法の中にあったと言えるのではないでしょうか。
それと下村さんのご意見で「パブリック=誰のものでもない」というのは、 面白いと同時に少し危険性も感じました。 というのは、 誰のものでもない、 「じゃあ何もしなくていいや」ということにつながる可能性もあるからです。 七夕の風景や鎮守の森は日本の時間の蓄積の中で作られてきた風景ですが、 結果として目に見える風景だけを評価するのではなく、 それを支えてきた作法やシステムも含めてデザインだと認識しないと、 デザインそのものを無視することになってしまうのではないでしょうか。
それとプレ・デザインに対し、 やりすぎのデザインもある。 その典型が商業化した空間ですが、 これは共有風景にならないでしょう。 これは我々が否定しなければならない。 それをどうやって共有できる風景にしていくかは、 極めて大事なことです。 難しいことなので僕にもその答は分かりませんが、 それを解く行為がデザインだという気がします。
例えば、 お年寄りにとって最適な花壇の面積はいくらかさえ分からない。 どうすればお年寄りにとっていい花壇が作れるのかさえ、 地域ごとに違っているから決定的な答が出てこないのです。 これは、 プレ・デザインではなくてまさに固有のデザインのはずです。 そういったことを無視してきたために、 パブリックデザインは「発見されない」「無視されている」存在になってきたのでしょう。 そんな気がします。
再びパブリックとデザインについて
パブリックデザインは
下村泰史(住・都公団):
メタ・デザインになるべきでは
「誰かの空間」とはっきりさせた方が、
三谷:
質の高い公共空間ができやすい
「パブリック=誰のものでもない」
佐々木:
という意見に異論あり
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