三谷さんの作品を見ていて気がつくのはプログラムがしっかりしていてその上にデザインが展開されていることで、 まさしくテキストであり記述的であると思いました。
また、 民有公共という考えでデザインされた空間の中で、 人びとは私的な体験をすることになります。 自分の場所として感じられるのは重要なことで、 我々が持つ「公共概念」から一歩抜け出たものだと思います。 ただ、 それは「私」から「私」へのメッセージではないかという気がします。 そこで誰が作っているのかをはっきりさせることが大切なことではないでしょうか。
それは言葉を換えて言えば作家性です。 建築での作家性はそれなりに認められていると思いますが、 ランドスケープの場合も作家性があってもいいと思われます。 しかし、 その場合、 ランドスケープデザイナーは誰に対して何を伝えようとしているのでしょうか?
私が述べたかったことを「作家性」という言葉で出していただいて、 非常にありがたいと思います。
作家性ということで言えば、 イサム・ノグチのプラザはやはりイサム・ノグチという付加価値で、 公共空間に来た人たちにある質の高さを与えていると思います。 それはもう匿名性ではありません。
しかし、 今言われたように作家性が出過ぎて押しつけがましいデザインをどう回避すればいいのか。 それを指摘されたと思います。 これは、 この場で明確な答が出るものでもありません。
私が最初にお話ししたように、 多くの人とデザインを議論していても作るときは自分の内部に戻っていかねばならない。 その結果がどうして多くの個人へ還元されていくのかは、 全くのブラックボックスでマニュアル化することの出来ない部分です。 だからこそ、 デザイナーという存在があるのだと思います。
実はデザインなんて、 技術的なことを別にすれば誰でもができるものなんです。 しかし、 そこにデザイナーが参加するとその質が変わる。 なぜなら、 デザイナーはそれなりの職能訓練を受けているから、 デザインのベクトルがそれぞれの個人に還っていくようにできるのです。 それが出来ない人はプロフェッショナルではない。
別にただの市民がデザインするのが悪いと言っているわけではないのですが、 デザインの訓練を受けていない人がすると、 そのベクトルがあらぬ方向へいってしまうことになります。
よく公共空間ではデザイナー不要論が言われますが、 私は決してそうは思わない。 デザイナーは常に自分の個に帰りながらみんなの背後に回り込んでいくということを目標としているし、 その責任を全うしなければならないと思います。
そこで作られたものを利用する人がどう了解するのか、 あるいはどう共有するのかという問題も出てくると思います。 例えば、 作家が作るものの中には、 分かりにくいもの、 ほとんど分からないものもあります。 反対に作家性がほとんどないものの代表にファミリーレストランがありますが、 ファミリーレストランは人びとに人気のある場所なんです。 そういうものと作家が作るものの間には何があるのか、 そのあたりもうかがいたいのですが。
佐々木:
それについては私の方から述べさせて下さい。
安いものとか、 見なれた日常的なもの、 つまりファミリーレストラン的なものをできるだけ非日常的なものに変えていこうとしているのが三谷さんの作品だと思います。 日常的な風景に問いかけをすることによって、 公共空間の存在感を発見するというモチーフができるのではないかと三谷さんは言い続けていると思います。
「作家性が誰に何を伝えてどう共有されるか」について三谷さんはマニュアル化されてないとおっしゃいましたが、 マニュアル化されていないことこそがデザイナーにとって大事なことではないかと私は考えています。
例えば、 今までの公共空間は「ここは歩きなさい」「公園だからここで休みなさい」「ここに座りなさい」という誘導性の強い空間でした。 つまりマニュアル化された公共空間であり、 そこに公共空間のファンタジーがあったのではないでしょうか。
しかし、 我々がこれから作るべき「発見できる空間」とは、 作家性として作るのではなく「発見する人は利用する人なのだ」というところにデザインの方向性があるように思います。 品川千本桜を例に取ると、 誘導がなく、 表示もない。 仕掛けのみがある。 利用者の持つアクティビティに支えられてこそ成立する空間で、 そこにこそ公共空間の豊かさがあるのではないでしょうか。
それには作家が特権性をもって誘導しているというのではなく、 作家のアティテュード、 つまり態度こそが問われるのであって、 作家の態度が実際の糸口を発見するために大事なものであり、 それ抜きに質のいいものは出来ないのではないでしょうか。
作家性が特権的なものということではなくて、 そこには誰かの意図があるということで、 その意図を提出する側と受け取る側の関係があるのではないかということを言いたかったわけです。 それは無名性の空間でもあるだろうし、 何らかの意図を通じて表現されるものではないかということです。
三谷:
今ご指摘になった点は、 非常に重要だと思います。 簡単に言うと、 作家の独善性しか感じられない空間だったら、 ファミリーレストランの方がましということですね。 我々はその狭間を綱渡りしているわけですよ。 その社会的責任はひしひしと感じていますし、 それを評価していただきたいと思っていますが、 往々にして「作家性とファミレスの間の綱渡り」は議論からはずされることが多い。
作家性なり佐々木さんのいう「態度」なりを誰かある人に預け、 その人に責任を持って作り上げてもらうチームワークシステムさえあれば、 必ずいいものはできるものなんです。 一人の作家とそれを囲んでいるチームの援助がうまく回るといいものが出来るということは、 今までの体験でも分かっています。 しかし、 作り手の側が独善的になるかどうかと心配している段階では、 正直言って私は仕事を引き受けたくないですね。
また、 もうひとつ付け加えると、 一市民として広く経験しておくことはデザイナーの義務だとも思います。 子供を連れてディズニーランドやファミリーレストランに行って、 マニュアル通りの行動をして子供が喜ぶのを見ておくことも大事だと思います。 あるプロジェクトで広場を舗装した際、 床をどこまでスムーズにするべきかが問題となったことがある。 そんなとき、 自分がベビーカートを押したことがないと実感として分からないのです。 そういう体験がたくさんあることもデザイナーとして必要だと思います。
こういう話では作家性は常に出てくる話題ですが、 それについてもう少し考えてみませんか。
ファミリーレストラン的なデザインとはどういうものかと言うと、 サービス過剰、 イメージ誘導であり、 常に「ハレ」の空間でなおかつ安い、 そして全てマニュアル化された空間です。 それは果たしてデザインなのでしょうか。 私はそういうものを「与えられたデザイン」「与えられたランドスケープ」と呼んでいますが、 実は近代社会はそこに落とし込んでいくシステムになっていることを、 デザイナーは認識するべきではないかと思っています。
我々は慣習性のある風景(オーディナリー・ランドスケープ)を当たり前だと見ていますが、 それに対して「そうではない」と言うためにはオリジナリティ、 アイデンティティを見つけていくことが必要になります。 それをもう一度、 きっちりと考え直してみると、 それは「読みとられるデザイン」と言えるのではないか。 利用する人が誘導なしにその場所を読みとり、 使い方も発見できる空間です。 そういうデザインがあるべきじゃないでしょうか。
今は公共空間さえもマニュアル化してファミリーレストランのような分かりやすい空間だらけですが、 そういう時代に対して作り手として我々が逆転できうる手法がそれではないでしょうか。
ここで若い人からのご意見を求めたいと思いますが、 何かありますでしょうか。
丹治君(県立滋賀大学):
誘導するデザイン、 例えば「ここに座れベンチ」「ここで遊べ空間」を否定してもっと違うものを求めろというお話でしたが、 それを具体化するデザインが僕には実感できません。 人の意図を感じさせない良い空間で思いつくのは、 海や山の自然景観しかないのです。 それ以外の、 人がデザインするもので良い空間デザインとは、 たとえばどういうものでしょうか。
三谷:
作家性の問題に戻ってしまいましたね。 自然そのものの方が気持ちいいというご意見ですが、 なぜ気持ちいいかを考えると、 使い手の読みとり次第でいかようにも使えるという解放された空間になっているからだと思うのです。
作家の独善に陥るか、 それとも自然に近い、 つまり機能を声高に主張していないのに使い手の自由な発想を呼び込める空間になるかの分かれ目は、 それこそデザインの技量だと思います。
ファミリーレストラン的なデザインの特徴は様式化にあり、 こうすれば人が集まって楽しくなるだろう、 あるいは自然を感じるだろうということがマニュアル化されています。 我々のデザインは「本当にそれが快適なのですか」と問い直すことから始まります。
私がアメリカで教育を受けて非常に感銘を受けたことの中に「自分のオリジナリティを発揮することがデザインの訓練のポイントだ」というものがありますが、 オリジナリティとは個性のことじゃないんです。 むしろ、 公共性を意味するものなんです。
ある先生は「オリジナリティとはオリジン(起源)から来るものなんだから、 自分の生まれと文化を背負ったところからしか人間はオリジナリティな発想が出来ない。 そこを見極めるところからデザイナーは力を発揮できる」と力説しました。
優れたデザイナーは、 どこの土地へ行っても素晴らしい作品を作れます。 それは、 彼らがオリジナリティを見極める力を持っているからです。 逆に地元の人が地元らしい作品を作ろうとして、 ファミリーレストラン的なものが出来てしまうこともある。 しかし、 デザイナーが「この敷地だったらこうするのが気持ちいい」と自分に正直に作ると、 自分のオリジンにどんどん入っていって、 その結果万人に共有されるいいものが出来ると私は考えます。 ですから、 オリジナリティとは決して他人と違うものを求めるものではないのですが、 この辺は日本では誤解されている面があるように思います。
佐々木:
三谷さんの考え方でもうひとつ注目すべきは、 品川千本桜で機能としての道路と人の空間を分けたことです。 アーバンデザインのレベルでしっかりしたインフラの基本体系があることです。 それをベースにして生み出された公共空間だったということです。 アーバンデザインもランドスケープも密接に支え合う関係にあるのですが、 日本ではそのコラボレーションが明確ではなく、 それぞれの分野で格闘しているのが現状です。
最後に、 鳴海先生にご意見を述べてもらい、 かつまとめていただきたいと思います。
公共デザインに作家性は有効か
パブリックデザインにおける作家性について
岩田(鳳コンサルタント):
作家性があるからこそ、 質の高い空間が生まれる
三谷:
では、 ファミリーレストランの
岩田:
人気をどう考えるのか
作家性とファミレスの間の綱渡り
岩田:
与えられるデザインからの脱却を求めたい
佐々木:
再度、 作家性について
佐々木:
−オリジナリティを考える
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