コルビュジェは1922年に「300万人のための都市」という都市像を世に問うた。 さらに彼は1928年に近代建築国際会議を組織し、 明日の都市のあり方を世界に広めることを考えたのである。 この第4回会議がアテネで開かれ(1933年)、 この時にアテネ憲章が採択された。 このなかで、 都市の機能は基本的に「住む、 働く、 憩う、 移動する」ことにあり、 これらの機能を満たす都市は、 空間的には「太陽、 緑、 空間」をもつべきであるとしたのである。 そこに描かれたイメージはブラジリアに実現されている。
イタリアの建築評論家ブルーノ・ゼーヴィは、 ブラジリアを評して「カフカの都市」と呼んだ。 たしかにこの都市には人々が生き生きと生活する都市の印象よりも、 生命力が希薄な幻想性を感じてしまう。
ブラジリアは住むには健康的な街である。 しかし、 人間の生活には盛り場的な活気や文化の魅力も必要だ。 この都市にも都心的な地区があるが、 それでもそうした機能がより豊富に蓄積されている、 かっての首都リオ・デ・ジャネイロがやはりなつかしくなる。 今でもリオとブラジリアのつながりは緊密で、 週末はリオで過ごそうとする人が多い。
日本のニュータウンにも多かれ少なかれこうした傾向がある。 それはコルビュジェの考え方に代表されるような、 近代都市計画がもたらした特徴なのだが、 ブラジリアの場合はまた別の理由もある。 それは首都としての壮麗さが追求されたためである。
新首都建設の構想は200年も前からあったが、 実際に建設に着手したのはクビチェク大統領であった。 クビチェク大統領は1954年に大統領に就任し、 「5年間で50年の進歩を!」をスローガンにした活動的な大統領であった。 しかし、 彼とても最初は新首都づくりはほとんど念頭になかった。
1955年に地方で行なわれた政治集会で、 参集者のひとりが「ブラジリアはどうするのか」と質問したときに、 彼は「憲法は実施されなれければならない」と即座に答えたという。 新首都づくりは1891年に制定された憲法にうたわれていたのだが、 この時から壮大な新首都づくりの歯車が実際にまわりだしたのである。
クビチェク大統領は、 ベロ・オリゾンテ市長時代に知りあった建築家オスカー・ニーマイヤーをブラジリア建設のために呼びよせた。 このニーマイヤーが計画策定をプロモートすると同時に壮麗なブラジリアの主要な建物の設計を担当することになった。
ニーマイヤーの考えで新首都の計画は設計競技によって決めることになり、 1956年9月に設計競技の募集要項が発表された。 この設計競技で1等賞になったのが、 ルシオ・コスタの案であった。
ルシオ・コスタの案は、 2、 3の手書きのスケッチと簡潔な説明を記した5枚のカードのみであった。 他の入賞した作品では詳細な点まで計画されていたため、 「コスタの案はまじめな考察に値しない」といった意見が出され、 審査委員会は紛糾しついには分裂してしまったが、 最終的にはコスタの案が選ばれた。 しかし、 後のニュータウン研究者たちも、 やはりコスタの案は図形的な明快をもっており、 選ぶとしたらこの案だろうと述べている。
コスタの案は実に簡潔でシンボリックであった。 横軸が自動車道路とそれに沿うスーパーブロックの居住区であり、 縦軸が主要な政府の建物が配置されるモニュメンタルな軸である。 そして全体が示す形態は、 矢をつがえた弓にもみえるし、 また、 飛翔する鳥あるいは飛行機にもみえる。 この形が、 経済的な離陸を目指すブラジルの首都として、 ふさわしい都市像であると判断されたのである。 それは大統領の「5年間で50年の進歩を!」というスローガンにも似合うではないか。
この案が発表されるや「もっと住みやすい機能的な都市の形がありえたのではないか」などの批評があびせられた。 これに対してコスタは「民主主義の社会だからといって都市が壮麗であってならない理由はどこにあるのでしょうか」と逆に問いかけている。 またこの形は「開拓の伝統的な精神のなかにあるパイオニアの姿勢」を示したものであるとも語っている。
このように都市形態がもつシンボル性が意図されたのはもちろんだが、 新首都建設のプログラムもまた単純明快な形態を必要とした。 つまり、 「短期間に完成させなけれ森がまた戻ってくる」のである。 また、 コスタはブラジリアを将来のこの地域の発展の核として、 出発点として計画したと自ら語っている。 その核には「確かな威厳と目的の高潔さが吹き込まれなければならないのだ」と。
ブラジリアの落成式は1960年に壮大なスケールで行なわれた。 クビチェクは勝利したのである。 しかし、 首都としての機能がスタートするにはまだ少し時間がかかった。 1970年外務省を最後にブラジリアへの政府移転は完了したが、 それは設計競技が行なわれてから14年後のことである。
コスタが予期したように周辺に次第に街が建設されていった。 最初の街は、 建設労働者の飯場都市である。 これはまるでバラックの街だが活気がある。 「モニュメンタルではあるが賑わいに乏しいブラジリアより、 この労働者街の方がすばらしい街ではないか」と、 一時、 建築関係の雑誌などで話題になったものだ。 この建設労働者たちのバラックの街はその後、 政府の手によってこぎれいな郊外の庶民住宅地に再編され、 さらに市街化が進展しつつある。
振り返ってみると、 コルビュジェ、 ニーマイヤー、 コスタは、 1930年代に、 ブラジルの有名な近代建築のひとつである、 リオの教育・健康省の建物の計画をともにしたことがある。 この関係が戦後になって再びブラジリアで結びついたのである。 そうした意味でもブラジリアは、 近代機能主義が生み出した都市なのである。
都市への夢をデザインした男たち
−コスタとブラジリ−大阪大学 鳴海 邦碩
ブラジリアは1950年代から60年代にかけて新都市として建設されたブラジルの首都である。 建設着手後10年にも満たない間にブラジルの広大な原野に忽然と壮麗な首都が生まれた。 それは広々としたオープンスペースをもった高層ビルの建ち並ぶ現代都市であり、 かってフランスの建築家コルビュジェが構想した未来都市を思い起こさせる。
注:本稿は次の資料によるところが多い。前に 目次へ 次へ資料1。 Norma Evenson "Two Brazilian Capitals" Yale University
Press,1973
資料2。 David G. Epstein "Brasilia-plan and reality" University
California Press,1973
日経新聞 90年6月17日掲載