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未完の大器?−ブラジリア

地域計画建築研究所大阪事務所 堀口浩司

 ブラジリアは都市のスケールの大きさや生活関連機能の不十分さなどから、 建設当初から国内外の専門家からは評判の良くない都市の代表である。 しかし都市として成熟化のプロセスにあり、 首都建設は今も進行中でした。

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ブラジリア位置図
 ブラジルといえば熱帯雨林をイメージするが、 ブラジリアは高原で非常に乾燥した地域にあり、 湿度を上げるための多目的なダム湖を持っています。 アマゾン川、 パラナ川、 サンフランシスコ川のブラジルの3大河川がその上流で背中合わせになる、 馬の背状の場所にダムをつくり、 その丘陵部に新首都を建設している。 そのスケールの大きさや幾何学的な街区形成によって知られています。 現在のブラジリアの規模は、 5,814平方km、 177万8000人(1995 推計)、 人口密度は3.05人/haです。


1。 ブラジリアへの首都移転

 ブラジルの地域発展は大西洋に面した臨海部に限られており、 内陸部の発展を推進し、 国土の均衡ある発展とブラジル経済の成長を促すことを目的として実施された。

 クビチェク大統領の選挙公約によって事業が促進された。

 国内の専門家を対象としてパイロット・プランコンクールが実施され、 中心部が飛行機の形状をしたルシオ・コスタの案が当選した。

 コルビジェの「輝く都市」のイメージを具現化しようといたプランである。

 モータリゼーションの到来を予見したヒエラルカルな道路網とモダニズムの都市デザインを標榜している。

 有名な話であるが、 南北8kmの長さ幹線道路(胴体部分)に沿って行政施設・文化・レクリェーション施設を、 翼の部分に行政職員のための住宅を配置したプランになっている。 国会議事堂、 大統領府、 最高裁判所など国権の最高権威は胴体の先頭部分に配置している

 都市の建設にあたっては、 公社を規定する法律の中で土地収用法と類似の内容も定めている。 この際、 ゴイヤス州政府は、 連邦区内及び隣接地区に含まれる土地の一切の譲渡を禁止している。

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ブラジリアのプラン
 1960年にリオデジャネイロからブラジリアに首都が移転した当時は、 都市の生活基盤が貧弱で、 高級官僚は週末になるとリオデジャネイロに帰る、 金帰月来の生活を送っていたようである。

 しかし、 その後ブラジリアの人口増加は著しく、 1977年には郊外に衛星都市を建設するプラン(PEOT)を策定し、 都市圏の開発計画とした。 当初の計画人口は西暦2000年に50万人規模ということであったが、 都市圏人口は既に200万人規模に発展している。


2。 都市の成熟化へのプロセス

 行ってみると、 意外とまちらしくなって来ているなという印象である。 これまでの風評では人工的でスケールアウトしており、 都市の魅力に欠ける、 なんとも面白くないところというのがこれまでの通説である。

 確かに首都としての魅力は不足しているが、 せいぜい40年の歴史しかないニュータウンの宿命と思えば、 納得のゆくところである。 実際、 今なお都心部に空き地があり、 その荒涼とした雰囲気もあって、 ヒューマンスケールを感じにくい都市である。

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ブラジリアの中央官庁街
 都市中心部の官公庁地区は、 明快で非常に象徴的な施設配置がなされており、 建築家的都市プランナーであるコスタが、 コルビジェのアイデアを忠実に実現しようとしている。 施設の将来への拡張性があるかもしれないが、 空間構造は極めて単調である。 また、 前回紹介したクリチバがモダンアメリカ的な雰囲気をもっているのに対して、 ブラジリアは権威的で貴族趣味的な雰囲気を感じさせるまちである。 クリチバが都市計画家出身の市長や行政プランナーが中心に計画を積み上げていったのに対して、 ブラジリアは建築家のコンセプトを都市スケールに引き延ばしたところが、 その大きな違いとなっている。


3。 なぜ移転したか

 前の首都であるリオデジャネイロは自然の良港となだらかに起伏する背後地をもった都市である。 地形的条件の良さと、 新大陸ののびやかさとヨーロッパの都市の雰囲気を併せ持つ非常に魅力的な都市である。 ここはサトウキビとコーヒーのプランテーション経営により蓄積した富によって、 ヨーロッパから最新(当時の)文化を輸入し、 新大陸の都市文化が発展してきたところである。

 ブラジルは16世紀以降、 ポルトガル人がアメリカ先住民とアフリカからの黒人奴隷を労働力にして、 白人を頂点とした社会階層を作りつつあった。 19世紀になってポルトガルから独立、 1945年に民主的な憲法を制定したが、 20年後の1964年に軍事クーデターにより軍事政権になる。 その後1985年に民政が復活する。 首都移転は第2次世界大戦後、 民主政権下の20年の間に実施されている。

 首都移転は、 それまで大西洋岸に主要な都市が集まり、 国土の中央部が低利用なため、 均衡ある発展のために移転したことになっている。

 しかし、 単なる開発期待の移転よりも、 もっと深い権力構造の変化のような潮流も見逃せない。 第2次世界大戦後、 ブラジルの産業近代化とともにその民主化が大きな課題であった。 白人と先住民や黒人、 さらに日本人など移民社会の人種的融合をすすめ、 既存の経済支配や官僚システムを解体してゆくことが必要であった。

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フリーマーケット
 クビチェク大統領は大統領選挙の公約の一つに、 それまで憲法に定めていた首都移転の実施を掲げ当選した。 クビチェクはチェコスロバキア出身で、 白人社会の中では遅れて入植してきた組である。  ベロオリゾンテ大学を卒業後、 医者から政治家に転身し、 最終的に大統領になる。 コーヒー貴族と呼ばれる財閥的な家系でもなく、 その政治的手腕で権力構造を再構築していった。 戦後民主化の潮流の中で、 既存の富と権力が集中するリオデジャネイロを離れ、 周辺には何もない大平原のまっただ中に新しい首都を建設する、 そのこと自体に移転の意味を見いだすことができる。

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