ブラジルセミナー
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ファベーラと高級高層マンションのあいだで

現代計画研究所大阪事務所 江川直樹

 最近、 ある雑誌社からこんなインタビューを受けた。 私の旅行経験のなかで、 「心理的、 時間的に遠いところはどこだったか?」というものであった。 私は、 瞬時にブラジルの街なかの高級高層マンションを思い浮かべた。

 このときに思ったのは、 心理的な距離と時間的な距離は全く異なるという思いであった。 私は、 世界のローカルな集落を旅するのが好きである。 どんなに時間的、 距離的に離れていても、 総じて違和感なく、 心理的には安心できるし、 とても気持ちの良い感覚を楽しめる。 たぶん、 ローカルな集落のスケールが気持ちよいのだと思う。 一方、 ヨーロッパのまちでも、 アムステルダムなどは、 都会ではあるが、 やはりそのスケール感が気持ちよく、 心理的にはあまり遠さを感じない。 だから、 必ずしも低層であるからというわけでもなくて、 イエメンのぺんしるびる型の8階建ての住居が集まっているまちも、 なかなかに気持ちの良いものであり、 心理的な距離でいえば、 共感できる感覚である。

 しかし、 ブラジルの街なかに建つ高級高層マンションは、 きわめて心理的に遠いものであった。 こんなに遠さを感じたこともいままでなかった。 街なかに建つ住まいとしての超高層マンションという形態にも確かにある種の心理的遠さは感じなくはないが、 しかし、 それは、 ニューヨークの高級マンションでも、 シカゴの高層住居でも感じなかったものである。 ビバリーヒルズの豪邸ですら感じなかったものである。

 なぜなのか。 それは、 檻の中の高級マンションだったのである。 一住戸が300m²を越すような、 その広さに遠さを感じたのではなく、 本当に動物園の檻のような鉄格子に囲まれていて、 しかも、 入り口にはガードマンがしっかり警備している高級マンションが、 まさに市民の集う街の真ん中にタワー状にそびえたっていたからなのである。

 この風景は一体なんなのだ!
 人間は、 集まってすむことにより、 他者からの侵害をふせぐという行為をとってきた。 そのための工夫として、 城壁や塀を美しく、 また、 自然を映すキャンパスとしてデザインしてきた。 中国客家の環形土楼などもそういったことが背景にあって形づくられたものであるから、 安全を求めることはいつの時代でも必然はある。 しかし、 ここにはそんな工夫はいっさいないのだ。 本当に鉄格子の檻に囲まれているのだ。 日本でも、 忍び返しの仰々しい塀などをみたときに感じる居心地の悪さが、 超高層のタワーの形態とあいまって、 心理的な圧迫を与えるのであろう。 しかも、 街なかは市民のものだろう。 ここに住んでいる人たちは、 これをあたりまえの風景として見ているのだろうか? 心は痛まないのだろうか? 他者のことはどうでも良いのか? 他に、 金の使い道はないのか?
 日本でも、 都心の高層マンションがお金持ち層に売れているという。 そんなマンションは、 当然のごとくセキュリティの高さも売りにしているから、 日本でも、 同じようなことにならないとも限らない。 金を得た人たちが、 都市の文化を享受できる住宅として、 そういったものを買うことは理解出来ないわけではないが、 そのぶん、 都市に何らかの文化的寄与をしてほしいものである。 都市の文化は金持ちだけがつくってきたものではなく、 庶民の営々たる生活の蓄積でもあるのだから。

 対局のようなファベーラの持つある種の気持ち良さとの間には、 遠い遠い、 決してつなぐことの出来そうにない距離がある。 こんなことを心が痛むほど感じるようでは、 いや、 感じているだけではあかんのや。 ほな、 どないするんやねん。 言うてるだけではあかんのや。

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