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まち居住研究会、

“エスニック・パリ”を行く

◆取材時期:1995年7月2〜4日

◆取材:稲葉佳子・塩路安紀子・小菅寿美子

 エッフェル塔やセーヌ川はあるものの、 レストランは皆バカンス休業、 いるのは日本人かアメリカ人観光客ばかり…。

そう聞いていた夏のパリ。

けれど、 1995年7月、 私たちが見たのは全く異なるパリだった。

食材あふれる中華街、 色鮮やかな生地屋が並ぶアラブ人街、 民族衣装に赤ん坊を抱えて歩く西アフリカ女性。

そして、 安くておいしいエスニック料理の数々。

   

 パリ在住の稲葉奈々子さん(P10参照)の案内で、 夢中で街を歩き回った私たちはパリの持つさまざまな顔に出会い、 表面的ではあれ、 パリの移民コミュニティの空気を肌で感じることができた。

その主な場所をここに紹介しよう。

これからパリを訪れる方、 住宅時事往來を片手に「エスニック・パリ」を散策してみてはいかがでしょうか。

(文責:塩路安紀子)

   

画像z11 エスニック・パリ・マップ
画像p04 写真4 エスニック・パリ1
画像p05 写真5 エスニック・パリ2
画像p06 写真6 エスニック・パリ3
画像p07 写真7 エスニック・パリ4



“食”は活力の源 

―13区の賑やか中華街

Avenue de Choisy , Avenue d'Ivry

画像z21 MAP A(13区の中華街)
画像p08 写真8 ベトナムうどんのレストラン
画像p09 写真9 陳兄弟(Tang Freres)の経営する巨大スーパー。

東南アジアを中心とした食材が溢れている。

画像p10 写真8 同上
画像p11 写真11 HLM住宅団地入口の看板

 パリ市南部、 13区のイタリー広場。

丹下健三氏設計の「グラン・テクラン(Grand Ecran)」がひときわ目を惹くが、 このモダンな建物の裏手にパリ最大の中華街が広がっている。

中華街といっても、 中国系ベトナム人やラオス・カンボジアの人々で、 漢字、 フランス語に交ざってベトナム語らしき看板も目立ち、 香菜、 青唐辛子、 ドリアンなど東南アジアの食材が並ぶ。

   

 インドシナ半島から大量の避難民がやってきた1980年前後、 彼らは借り手のなかったこの13区の高層の社会住宅に次々と入居し、 商売を始め、 みるみるうちに中華街をつくりあげていった。

中華街の心臓部ともいうべき巨大スーパーの経営者・陳兄弟は中国系ラオス人、 彼らのチェーンがフランス国内のアジア食品に占めるシェアは50%弱にも上るという(1)。

   

 街を歩いていると、 パリにいるという意識が次第に薄れ、 東南アジアをさまよっている気分になってくる。

パリの一角にこのような集住地が生まれ、 賑わっていることが、 フランス人の目にはどのように映っているのだろうか。

「特に反感を持ったり脅威を感じたりはしていない」と奈々子さん。

フランス植民地であった“インドシナ”は、 フランス人にとってノスタルジーや異国への憧憬をかきたてられる対象なのだという。

言われてみれば、 陳兄弟のスーパーで買い物し、 ベトナムレストランで食事するフランス人の姿もよく見かける。

インドシナの人々は勤勉で居住地の犯罪率も低く、 彼らの商売がフランス人のテリトリーを脅かさないということも、 受け入れられている要因らしい。

   



安アパート、 スパンコール、 激安ショップ

―アラブ・ブラックアフリカの街

Rue de la Goute d'Or, Rue d'Aubervilliers

画像z31 MAP B(アラブ・ブラックアフリカの街)
画像p12 写真12 生地屋の並ぶアラブ人街の所々で建替えが進んでいる。

画像p13 写真13 寂れた雰囲気のRue d'Aubervillers界隈
画像p14 写真14 西アフリカ系の万屋で買い物をする女性

 18区、 メトロのバルベス・ロシュシュアール駅北側に、 アラブ人関係の店の並ぶ通りがある。

特に目立つのが民族衣装の店。

ショーウインドウに飾られているのはお祝い用の衣装だろうか、 赤、 オレンジ、 緑、 紫の鮮やかな生地に金糸の刺繍やスパンコールがきらめいている。

以前はもっと多くのアラブ人関係の生地屋、 床屋、 食品店、 カセット屋が並び、 Rue de la Goute d'Or はアラブ人専用の売春街でもあったという(*2)。

あるとき、 地区の真ん中の古い建物が「交番」に建て替わり、 これを契機として次々と建て替えが進んでいるという。

アラブ人たちの生活を支えてきた店が裏町から追いやられ姿を消しつつある一方、 表通りではアラブ人経営の貴金属店が眩しく輝いている。

   

 アラブ人街のすぐ隣、 バルベス・ロシュシュアール駅前には、 衣料品中心の激安スーパー“TATI”があり、 店の回りの道路は両手いっぱいにTATIの買い物袋を下げたアラブ系、 ブラックアフリカ系の人々であふれている。

チュニジア人が経営するこのTATI、 本店からさらにチェーン展開し大繁盛しているという。

   

 アラブ人街から国鉄の線路を越え東に向かう。

19区、 メトロのスターリングラード駅北側。

煤けてペンキの剥げかかったアパートが並び、 所々の窓は内側からブロックで封鎖されている。

ここはパリ市内で最も家賃の安い地域、 ここに新規流入のブラックアフリカの人々が集住している。

フランス人の借り手がなく放置された空き家に勝手に住みついているケースもあるという。

建物のさびれた感じに加え、 曜日のせいか時間のせいか、 閉まっている店舗が多くいかにもうらぶれた雰囲気である。

たまに開いている店には西アフリカ料理の食材となるイモやまっ黒のバナナが置いてあり、 なぜか“かつら”もよく見かける。

鮮やかな民族衣装で買い物する女性だけが、 ひときわ華やかだった。

   



建て替えの進む労働者の街 

―ベルヴィル

Belleville

画像z41 MAP C(ベルヴィル)
画像p15 写真15 レストランの前でお茶をのみ談笑するチュニジア系ユダヤ人

 パリの東に位置するベルヴィルは、 長く労働者の街であったという。

「多くの外国人を工場労働者として受け入れていた70年代、 ここはパリでも住宅家賃が安いことからマグレブの人々が多く住むようになり、 郊外の工場に通って働いていた」と奈々子さん。

しかし、 80年代後半にベルヴィルの再開発が始まり、 古い建物は壊されこぎれいなHLMに代わっていく。

   

 メトロのベルヴィル駅から少し東側の裏手一帯は、 まだ労働者の街・移民の街の面影を留め、 建物の上階に安宿の看板が掛かっていたりする。

Boulevard de Belleville を南に下るとチュニジア系ユダヤ人のレストランや食材店が数軒並び、 チュニジア人たちがお茶を飲み、 よもやま話に花を咲かせている。

一方、 ベルヴィル駅を反対の北側へ歩くと、 そこは一転して漢字の看板が並ぶ中華街となる。

元々はアラブ系の店が多かったが、 あっという間に中華街に替わったという。

再開発によって住民が替わってしまったのだろうか。

   



そのほかのエスニックパリ

 パリ市内や周辺には、 まだまだ「エスニック」を体感できる場所がある。

   

◆St. Denis Basilique 周辺(D-1)

画像p16 パリ市の北の郊外、 St. Denis Basilique の駅前から教会に至る市場や商店街では、 さまざまな民族の顔に出会う。

マグレブ女性、 ブラックアフリカ女性、 そして「外国人」ではないけれど民族・文化の違う海外県(西インド諸島のマルチニック島等)・海外領(ニューカレドニア、 タヒチ等)出身者。

西インド諸島出身者のための食材店もある。

そしてパリ市と反対側を眺めると、 巨大な高層HLM住宅団地群が広がる。

◆Strasbourg St. Denis 駅周辺(D-2)

 パリ10区、 メトロのストラスブール・サンドニ駅周辺から東駅にかけての一帯は、 “パリの歌舞伎町”。

雑多な問屋、 アラブ系の万屋、 サウナ、 そしてインド・パキスタン系のレストラン・カセット屋・床屋等が集まるパッサージュ(アーケード街)もある。

ストラスブール・サンドニ駅南側界隈は、 “街角に立つ女性たち”で有名。

   

◆Rue de Rosiers (D-3)

昔ながらのパリの美しい街並みが続くマレ地区。

おしゃれなブティックや小物の店が並ぶ Rue de Francs Bourgeois の南一本裏手の通り、 Rue de Rosiers には東欧系ユダヤ人の商店が集まっている。

食事に制約があるユダヤ人のための食材店やレストラン。

店先には、 ユダヤ食の店を示す“ダビデの星”が掲げてある。

参考文献

*1「ふだん着のパリ案内」飛幡祐規著、 晶文社
*2「もっと!パリへ行こう」こぐれひでこ著、 主婦と生活社

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