旧西ドイツにおける
外国人労働者受け入れの経緯
トルコ人が旧西ドイツに外国人労働者として受け入れられたのは1961年のことであるが、 ドイツにおける外国人労働者の歴史はさらに古く19世紀に遡る。
もともとは、 ハンガリーやポーランドからの農業労働者やルール地方の炭鉱労働者の導入からはじまった。
戦後東西ドイツに分裂したドイツでは、 1948年から再び外国人労働者の受け入れを再開した。
当時は、 旧東ドイツからの帰還者や逃亡者が、 急速に復興し始めた旧西ドイツ経済の労働力不足を補っていた。
しかし1961年にベルリンの壁が建設されると、 東からの労働力移入は困難になり、 本格的な外国人労働者の受け入れが開始された。
1955年のイタリアとの二国間労働者派遣協定の締結をはじめ、 60年スペイン、 61年トルコ、 63年モロッコ、 64年ポルトガル、 65年チュニジア・ギリシャ、 68年ユーゴスラビアと次々と協定を締結していった。
しかし1973年には、 外国人労働者の受け入れを停止することになった。
この時点での外国人人口は400万人だった。
その後外国人労働者数は減少したものの、 家族合流によって外国人人口は増加し、 1990年には493万人となった。
その中でトルコ人は、 ドイツにおける最大のエスニック集団を形成した。
1967年には17万2千人あまりだった旧西ドイツのトルコ人は、 1974年には100万人を突破していた。
そして1990年には外国人居住者全体の1/3に当たる161万人に達している。
その後旧西ドイツには、 東側の体制崩壊により大量のドイツ系帰還者や難民が押し掛け、 1992年統一ドイツ全体で外国人居住者数は600万人にまで達した。
私たちは、 ベルリンの“クライネ(小さな)・イスタンブール”と呼ばれているクロイツベルクを訪ねることにした。
クロイツベルクは、 もともと旧西ベルリンの東端に位置し、 「壁」ぎわに戦災で焼け残った古い住宅街が残る地区である。
第二次世界大戦以前から労働者の街であり、 家賃が安いため、 外国人労働者や失業者、 芸術家、 学生などが集まっていたという。
今回ベルリンでの通訳や街歩きのガイドをお願いした福本氏によると、 かつてクロイツベルクでは左派の人が住宅を占拠し生活共同体をつくっていたこともあり、 ドイツ人にとっては、 外国人の街というよりは左派の街という印象があるらしい。
特に1960年代に入ると、 ドイツ人は共同トイレで風呂もない老朽した住宅から、 もっと設備の良い質の高い住宅を求めて転出が続き、 70年代の初めから空き部屋の多かったクロイツベルクの「壁」のちょうど南側の地区にトルコ人が移ってきた。
現在住民の3人に1人はトルコ人になっている。
場所や通りによっては住民の50%がトルコ人になっているという。
クロイツベルクのトルコ人集住地区の玄関、 地下鉄の「コットブッサー・トーア駅」から地上に出てくると、 目の前に巨大な社会住宅がそびえ立っていた。
この社会住宅の中には、 後ほど私たちが訪問することになっている「トルコ人協会」やモスクも入っている。
壁のように立ちはだかる社会住宅の中央部は、 ちょうどゲートの様 になっており、 そのゲートをくぐって先へ進むと、 いよいよ“クライネ・イスタンブール”がはじまる。
Adalbert通りに面する石造りの建物の1階にはトルコ料理のレストランやトルコの銀行、 旅行代理店が軒を並べていた。
夏の午後のせいか人通りは少ないが、 道行く人はいかにもトルコ人らしい立派な髭をたくわえた男性やスカーフ姿の女性が多い。
一方、 脇の通りに入るとほとんどがアパートで、 玄関ドアの表札板にはトルコ人と思える名前が並んでいる。
建物の壁には落書きや貼り紙が多く、 この何となくゴチャゴチャした感じが、 整然とした美しさを好むドイツ人の街の雰囲気とは異なる。
ところどころ再開発のために既に建物が取り壊されていた。
「壁」が消滅してしまった結果、 西ベルリンの場末にあった壁際の街クロイツベルクは、 突然ベルリン市の中心部に位置することになり、 今や再開発の波にさらされている。
さらに北の向かって進むと、 突然ぽっかり間の抜けた空間に出た。
「壁」は今や跡形もなく消えてしまい、 あっけなく私たちは旧東ベルリンに入っていた。
コンクリートのアパートが並ぶ旧東ベルリンの風景は、 クロイツベルクに比べると少々味気ない。
道端にポツンと置き去りにされた旧東ドイツ時代の小型自動車の姿が、 統一後の現実を物語っているようだ。
今では労働者として働くばかりでなく、 自営業を営む人も少なくない。
土日も休まず夜遅くまで店を開けているトルコ人の店は、 ドイツ人からも便利だと喜ばれている。
野菜はトルコ人経営の店の方が新鮮で品物が良い。
しかし、 それでもドイツ社会の中に完全に受け入れられているとは言いがたい。
たとえば住宅問題。
夜から早朝にかけては洗濯はだめ、 音の出るビンは週末捨ててはいけない、 台所が油で汚れるのはとても嫌がるなど、 規則に厳しいドイツ人にとっては、 例え外国人が知らずにやったことでも我慢できないこともある。
誤解から生まれる差別もあり、 トルコ人に限らず日本人も含めてアジア系など非ヨーロッパ出身国の外国人が住宅を借りるのは家主から敬遠されやすい。
「ドイツ人はビアガーデンでは騒ぐが、 住まいに関しては寛容ではない。
」と福本氏。
だからクロイツベルクのようにトルコ人ばかりで暮らす環境は、 特にドイツ語やドイツの生活習慣に馴染めない移民一世とって気持ちがやすまるようだ。
しかしこのような問題があるとはいえ、 ドイツではドイツ人と外国人の平等を保証しようとしている。
私たちは外国人専門官事務所のバルバラ・ヨーンさんを訪ねて、 外国人の住宅事情や外国人住民を市民として受け入れていくうえで重要なことは何なのかについて意見をうかがった。
「ベルリンでは外国人に対する直接的な入居拒否はないですが、 実際には安い住宅が少ないので、 外国人はないがしろにされやすい。
トルコ人であることを理由に家主が断れば、 それは法律違反と言えますが、 多くは‘もう決まりました’と断られる。
ベルリンの社会住宅では、 今年の春から契約書に肌の色で差別してはいけないという項目が入るようになりました。
我々の努力の結果でしょう。
また外国人がどこに居住するのか、 ホスト社会がコントロールすることはできません。
集中化と分散化には良い面と悪い面があります。
大切なのは、 外国人がどこかに住みたいという時に、 住宅が見つけられ、 またそのことが保障されるということです。
」「ホスト社会が外国人を迎え入れていくうえで、 まず政治が外国人をポジティブにとらえて受け入れていくことが一番重要です。
次に経済的・人道的見地の両方から外国人を受け入れ混合していくことが大切です。
最後に、 何故外国人がいるのか、 彼らがどういう形で存在しているのか、 ドイツ人に対して情報を広げながらドイツ人の意識を高めていくこと、 この3つが大切なのです。
」
ベルリンの
“クライネ・イスタンブール”
ベルリンには十数万人のトルコ人が生活しており、 ドイツの中で最もトルコ人住民の多い都市といわれている。トルコ人が本当の意味で
ドイツ市民になれるのはいつ?
トルコ人がドイツに暮らし初めて30年以上が経過した。(文責:稲葉佳子)
このページへのご意見はまち居住研究会へ
(C) by まち居住研究会