Tさんを勤務先の編集室に訪ね、 異文化社会での積極的な生き方について述べてもらった。
「いま中野区南台に住んでいますが、 1986年11月に来日したころ、 このあたりの町中でフィリピン人に会うことはありませんでした。 主人の仕事は自営の塗装業です。 姑が近くに住んでいていろいろと助けてくれますが、 ともかく言葉が何も分からなかったので、 はじめの5年間は友人は一人もいませんでした。
子どもが幼稚園に通いだしたとき、 子どものためにも言葉を覚えなければいけないと思い、 自分から進んで保護者会の役員になりました。 ひどい緊張のなかでいろいろな経験を積み、 はじめて日本人の友人もでき、 日本語を身につけることもできたのです。 役員やクラスの母親たちにも積極的に声をかけると、 彼女たちのほうからも趣味の会などに誘ってくれるようになりました。 さらに、 子どもが小学校に通うようになってからはPTAの役員も自発的に経験しました。
6年前、 区報で南中野地域センター主催の第1回国際交流パーティーを知り、 出席して以来、 ここでも役員の一人として協力することになりました。 第4回目には司会まで務め、 この席で『クムスタ』誌編集長の篠沢氏と知り合い、 それが縁で、 現在、 編集協力をするようになったのです。 年1回の国際交流パーティーの企画会議は3〜4回開かれますが、 ここに出席して打合せに参加し、 パーティーの実施に協力します。
考え方、 価値観、 生活習慣の違いがある社会の一員として暮らすためには、 まず、 自分から回りに働きかけなければいけないと思います。 言葉の壁があるために、 つい自国の人たちだけのグループをつくりがちですが、 それではいつまでたっても日本の社会には入れません。 日本の人たちも、 言葉の違いから、 外国人に進んで声をかけることがほとんどありません。 片言でもいいから日本人に声をかけましょうと、 フィリピンの友人にもすすめます。 かならず心は通じます。 地域の日本人といっしょに暮らそうと、 自分自身努力することが大事だと思います。」
外国人として定住するためには、 まず自分から動かなければというTさんの話を聞いて、 そのひた向きな生き方にさわやかな感銘を受けた。 いっぽうで、 行政によるもっときめ細かい情報の提供がほしいという希望もあり、 受け入れる側の日本社会の取り組みが検討される必要があるだろう。
地域社会に積極的に関わろう
Tさん
日本語がまったく分からないまま日本人と結婚して日本で生活することになったフィリピン女性が、 いまでは小学生2児の母親として、 また主婦として生活する一方で、 日比交流雑誌『クムスタ』の編集にも協力し、 さらに地域の国際交流会の役員としても活躍している。
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