阪神大震災復興市民まちづくり支援ネットワーク
左三角
前に 上三角目次へ 三角印次へ

パネラー発言1

まちづくり前史

神戸山手大学学長 小森星児

小林

 神戸のまちづくりのルーツについて、 小森先生にお話いただきたいと思います。

 まちづくり条例や住民参加のまちづくりのスタート地点である69年あたりからまちづくり協議会ができるまでの流れ、 また住工混在地区の公害対策から、 衰退しつつあった旧市街地の活性化のためのまちづくりについて、 レクチャーしていただきたいと思います。


まちづくりという言葉

小森星児

 本題に入る前に、 松本さんのお話に触発されて、 まちづくりという用語について二、 三お話しします。

 「まちづくり」という言葉がいつから公に使われるようになったかは、 私自身もはっきりとは記憶していません。 しかしハードな「都市計画」に対してソフトな「まちづくり、 まちおこし」というニュアンスが当初から念頭にあったに違いありません。 同時に、 上からの“官製”の計画に対する“民間”の計画、 下からのアイデアだということも強調していたと思います。

 しかしながら日本の行政は、 そういう良い面を巧みに自分の道具として取り込んでしまうのです。

 都市計画分野では、 他にも同じ様な例があります。 例えば「地区計画」などは本来、 官製の固まった都市計画に対して地域側からの様々な要求を取り入れ、 弾力的に運用するための手段として登場したわけですが、 日本ではとかく都市計画の下位のユニットと考えられがちです。

 また、 例えば兵庫県は「人間サイズ」という言葉を使っています。 これはおそらく「ヒューマンスケール」と同じ意味だと思いますが、 都市空間の効率的な利用をめざして複合・巨大型の開発を進めてきた事に対するアンチテーゼとしてこの言葉が登場したにも関わらず、 それを取りこんで高層高密の集合住宅団地を「ヒューマンスケール」と言っています。 高層高密を容認するような「ヒューマンスケール」など国際的には通用しません。 どうしてこんなルール違反の使い方ができるのかという疑問が出てくるはずなんですが、 気にせず取りこんでいる。

 同じようにこの「まちづくり」という言葉も、 先ほど松本さんが指摘されたように、 本来は下からの、 あるいは居住者の立場からの都市計画という色彩があったにもかかわらず、 現実には都市計画事業を円滑に行うための手段として捉えられがちです。

 特に震災以降はその傾向が顕著になって、 土地所有者の利害調整のための道具として用いられてきた例が多くなっています。 したがって、 その目的が達成されると「もう解散しよう」となるし、 場合によっては始めから住民抜きで進められている例もあるわけです。

 このような展開を見ると、 私達も新しい言葉を発明するたびにそれが公にとられないように頑張らなければならないんですが、 とにかく、 「まちづくり」という言葉も残念ながら今は手垢がついてしまい、 「行政の役に立つ“まちづくり”」という面があることは否定できないでしょう。


まちづくり前史

 さて本題に入って、 「まちづくり前史」といいますか、 神戸市におけるまちづくりの起こりといった事からお話したいと思います。

 しかし、 私自身はこの動きに充分関わってきたわけではありません。 むしろアドバイザーとして意見を求められたに過ぎないので、 それぞれの地区で本当に活動された方のお話をうかがうべきだと思います。

 さて、 私が京都から神戸に移ったのは東京オリンピックの年ですが、 ちょうどその頃に神戸市の最初の都市計画マスタープランが原口市長の元で策定されました。

 この計画はポートアイランドを始めとする人工島づくりと、 本四架橋を頂点とするような新しい交通ネットワークの整備といった、 いかにもテクノクラート好みの前向きで新しい内容でした。 特に高速道路やコンテナー化など交通における技術革新に神戸としていかに対処するかにウェイトが置かれていたように思います。

 しかしその一方で、 工場地域の変化が急速に進んでいました。

 実は、 私が神戸市で最初に取り組んだのは、 こういった住宅と工場の密集地の問題です。 工場がどんどん大規模化し、 大型トラックが狭い道路に侵入するようになると、 住民と様々なトラブルが増えていました。 それが一番顕著だった地域の一つが「真野地区」です。

 そんなわけで、 少なくとも私に関する限り、 工場移転のヒアリングをきっかけにまちづくりに携わって行ったというのが正直なところで、 まず工場の近代的・合理的な経営のためには何をしたらいいか。 工場用地の確保、 道路の拡幅、 あるいは高速道路の整備といったことが必要ではないか。 また工場等制限法が63年に出来ているのですが、 それを受けて工場の郊外への分散をいかに促進するか。 その受け皿づくりや共同化・協業化といった事が課題になりました。

 それに対する住民の反対あるいは要求は、 ある意味で副作用に過ぎませんでした。 どう対処したら良いかといった形の課題でしかなかったのです。

 しかし70年前後になると、 明らかに流れが変わりました。 地元の公害問題が深刻化したこともありますが、 それと同時に地元の方々の積み上げてきた努力の成果が現われはじめます。

 真野の場合で言えば、 毛利さんを中心とした様々な住民活動が評価され、 こういった地域が崩壊していいのかが、 深刻に議論されるようになったと思います。

 しかし、 それに対する行政側の処方箋はごくわずかでした。

 例えば長田区では、 昭和30年代終りから昭和40年代の始め頃、 道路の拡幅や駅前広場の整備といった公共事業に絡んで、 日本で初めて市街地改造事業が実施されました。 しかし、 その裏側の街区の整備については、 ほとんど具体的な手法はありませんでした。

 そういう意味で、 この昭和40年代は、 いろいろな問題が各地で噴出し、 部分的な取り組みは行われたものの、 体系的な施策は立てにくかったというのが正直なところだろうと思います。

 神戸市の第二次マスタープランは75年頃出来たのですが、 その2年くらい前から新しい計画の骨組みが出来はじめていました。 実はちょうどその前後、 オイルショックの直後ですが、 私は2年ほどイギリスに行ってましたので、 この第二次計画については、 一番始めに各区ごとに区民会議のようなものを作って議論していた段階しか知りません。

 しかし、 第一次のマスタープランが建設主体、 大規模公共事業主体であったのに対して、 第二次を担当された宮崎市政では「環境」に重点を置いた計画へと転換していました。

 留学を終えて帰ってきますと、 ずいぶん新しい動きがありました。 ちょうどその年に今話題に上がっていたまちづくり条例や景観条例、 それと環境影響評価制度の三つのプログラムが動き始めています。 私は神戸大学の嶋田先生に誘われて、 その三つの条例づくりに関わり、 その後にできた委員会にも加わりました。

 このあたりでやっと、 広い意味での「まちづくり」についての神戸の地方政治としての対応策が出来上がったのではないかと思います。

 話が前後しますが、 最後に一体どうやって社会科学的な観点からまちづくりの問題に接近しようとしたか、 その一つの例をちょっとご紹介したいと思います。


コミュニティカルテ

画像z01
図1 コミュニティカルテ
 73年から「これからの住区構想策定のためのコミュニティカルテ」を、 3年かけて各区ごとに全市に渡って作りました。

 パソコンやGISが普及した今日からみれば素朴な内容ですが、 校区別に様々なデータを整理して地図の上に表示し、 一目見ればその地域の人口的な特色、 施設の分布、 用途地域、 あるいは生活環境の整備状況がわかるといったものです。

 これはアイデアこそ私ですが、 実際の調査は宮西さんがされ、 私達の共同作業で出来たものです。

 こういった調査をしたのは、 実はこれが全国でも最初で、 これを持ってイギリスに行ったところ、 ヨーロッパでもこういったものは無いということで、 高く評価いただきました。 またその後、 各地でこれに類似した計画調査が実施されました。

 このカルテは、 上からの計画ではなく、 小学校区(正確には国勢統計区)という人口1万人くらいのユニットを単位として様々な計画を見直す必要があるのではないかという考えを示した点で、 なかなかユニークなものであったと思います。

 さらにこれを引き継いで、 第二次マスタープランには「まち住区構想」という新しいアイデアも盛りこまれました。 この大胆な問題提起を率先してやったのは当時の神戸市調査部でしたが、 この調査部は当時一方で明石架橋という、 これまた大胆で先進的な事をやっていました。

 片や世界を相手にしたプロジェクトで、 片や私達は文字通り「虫の目」で神戸市の一つ一つのユニットの特色に目を向けてどうしていったらよいかを考えるということです。 そういった意味では先進的であったし、 まちづくりの一つのルーツであったと言ってよいだろうと思います。

左三角前に 上三角目次へ 三角印次へ


このページへのご意見は阪神大震災復興市民まちづくり支援ネットワーク

(C) by 阪神大震災復興市民まちづくり支援ネットワーク

阪神大震災復興市民まちづくりへ
学芸出版社ホームページへ