阪神大震災復興市民まちづくり支援ネットワーク
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コメント

環境カルテ

コー・プラン 小林郁雄

 どうもありがとうございました。 私も少し昔話をさせていただきます。

 私は環境カルテで技術士の資格をとったので想い出深いのですが、 思い返せば環境カルテを市民に配ったこと自体がすごい話だと思います。 最近、 情報公開とか言われていますが、 こういう資料が一切出てこないので、 話が逆です。

 環境カルテが出たのは78年で、 真野のまちづくり構想が80年、 まちづくり条例が81年ですから、 たった3年間でこれだけの事をやったんです。 地震から5年経って何をしてきたかと思うと、 3年あればほんとはいろんな事が出来るもんだと感慨無量なところがあります。

 もちろんその前にも、 73年の板宿地区以来10年近く、 いろんなコミュニティ開発計画があったわけで、 その頃から施設係というユニークな組織が取り組んできたという歴史も反映されていると思います。

 では、 コメンテーターの方に質問を兼ねてお話いただきたいと思います。


都市計画とまちづくりの関係を問う

いるか設計集団 松原永季

 先ほどご紹介いただいた若手プランナーズネットワークの松原です。 まず私たちのネットワークについて、 簡単に紹介させていただきます。

 20代中ばから30代くらいの年齢のメンバーが集まっています。 今日のような震災復興まちづくりに関わる都市計画事務所で働く若年スタッフが下働きするうちに顔見知りとなり、 その中でいろいろ勉強しながら問題を共有して行こうということで活動をスタートしました。

 本来コメンテーターなどという立場ではなく、 今日も勉強させていただくつもりでこの場に参加させていただきました。 これから私共のメンバーも実践的に地域に入っていく中で、 「まちづくり」にどのような可能性があるのかについて、 今までやってこられた方々からヒントをいただこうと思っています。

 ただ今お伺いした中でいくつか感じた事をお話しさせていただきます。

 小森先生と垂水さんからコミュニティカルテと環境カルテのお話がありました。 先ほどその内容を拝見しましたら、 松本さんがおっしゃった総合的なまちの考え方、 あるいはひらがな的なまちづくりの考え方に非常に近いものだと感じました。 また小森先生が「社会科学的に」とおっしゃっておられましたが、 まさに合理的な精神を持って対処して行こうという意識を強く感じる事ができるのです。

 その後、 まちづくり条例というお話に移りましたが、 それについて松本さんが問題提起されたような現況が今あるとして、 ではなぜそうなってしまったかを問題にしたと思います。 私が感じたのはまちづくり条例が都市計画法の地区計画からスタートした事自体に、 可能性と課題が同時に内包されていたのではないか、 という点です。

 つまり法律できっちりと「まちづくり」が位置付けられたという意味で、 まちづくり条例の意義は大きかったのですが、 それと同時にやはり足枷となった部分があったのではないか、 もしあったとしたらそれはどのような点かという事をお伺いしたいと思います。

 また、 まちづくり条例が出来た時に、 すでに環境カルテやコミュニティカルテがつくられていたことを考えると、 実はもっといろんな手法を諸先輩方はお考えになっていたのではないでしょうか。 もしそういう部分がありましたら教えていただきたいと思います。


住宅都市としての神戸

大阪大学 小浦久子

 去年から今年にかけて大阪、 京都、 神戸等の都心について考える機会がありました。 大阪と京都の都心は数百年の歴史があり、 もともと用途混在の、 いわゆる「まちなかでの暮し」があったところです。 ですから、 そこに「まちなか」をどう取りもどしていくかが問題になっています。

 一方、 神戸は居留地を除けば全体が生活の場だったのです。 神戸における住工混在は近代化の中でこの百年ぐらいの間に生じたことに過ぎません。 ですから、 神戸の場合は「住環境」という視点から市街地を考えることができるのが大きな特徴ではないかと思います。 これは住民運動や、 住環境から考える市街地整備にも、 関係あることだと思います。

 このあたりの話が、 今日話題になっています70年代にどう考えられていたのか、 聞かせていただければと期待しています。

 もう一つは、 まちづくりの総合性についてです。

 もともと地区計画やまちづくり構想は、 都市計画の枠組のなかで身近なまちをどのように「かたち」づくるかから始まったといえます。 いわゆるエリアを決めて形(ハード)としての環境をどういうふうに改善してゆくのか。 しかし、 実際には、 生活の問題をどう解決するのかという、 そういう意味での総合性が議論されてきました。

 真野でも最初は公害問題から始まり、 できることからまちづくりを始めるということで福祉サービスから始めています。 ということは当時も今も状況は一緒だということです。 問題解決の方法には、 まちのかたちとかサービスとか活動とか、 いろんなやり方があると当時から考えられていたのでしょうが、 当時と今日の違いはその様々なまちづくりの担い手が沢山出てきたということです。 以前は住民しか担えなかったこと、 あるいは行政しか担えなかったことを、 いろいろな立場で担えるようになってきています。

 ハードの改善だったまちづくりから、 担い手がいっぱい出てきて、 ようやく、 地域に応じた継続的なまちづくりを議論し、 選択していくための土俵が生まれてきました。 次はこれらの担い手同士が、 どういうふうにネットワークするか、 どういうふうに役割分担するか、 どういうふうに担い合っていくか、 そのプログラムを作っていく段階だと感じていますが、 実はそれは時代を戻って60年後半から70年代のまちづくりの動きの中に、 見出せるのではないか思いました。


行政内部での反響は

港まち神戸を愛する会 中尾嘉孝

 以前、 宮西さんからコミュニティカルテや環境カルテは住区ごとの診断書として作ったという話を聞いた事があります。

 つまり街の病巣みたいなものを提示しておいて、 それについて何とかしようという声が住民から上がってきたら、 行政としてもなんとかしていきましょうという話だったと思います。 では、 このコミュニティカルテや環境カルテを作ったときに、 行政の中の民生とか経済局などがどういう形で関わっていたのか、 あるいは、 そういう部署からの反響はどうだったのかについて、 お尋ねしたいと思います。


「地域性」を視座に入れた取組みを

ジーユー計画研究所 後藤祐介

 私は2点意見を言いたいと思います。

 ひとつは「地区計画制度」ができ、 真野地区の構想が出てきた80年ごろは、 まちづくりにとって重要な時期であったと思っています。 そういうの中で、 垂水さんもおっしゃってましたが、 真野から毛利さんなどが中心となってまちづくり提案が出てきた時に、 こんな絵がどんどん出てきてどうするんやろうと思いました。

 この場合の絵はハードの意味でのまちづくりに関するものですが、 本当はそれをやっていく手段が行政にも住民にも無いのに、 絵だけ書いて、 一体どうするのだろうということです。 同じことは、 今、 私達がやっているまちづくりでもけっこうあるわけです。 改善する手法も予算も無いのに、 絵だけ描いているという話が実際にあると思います。

 都市基盤を整備していく、 都市計画決定して都市計画道路を作っていく、 あるいは市街地再開発事業をやっていくといった事については、 実現するための担保があります。 ところが住環境整備は未だに任意事業で、 まとまったらやれ、 まとまらなければそれまでという事です。 確実にやる方法がないのです。 しかも密集市街地などの弱小権利者にとってはとても大変な事を、 まちづくり協議会を作って自分達でやりなさいというのは、 無責任ではないでしょうか。

 そういう意味で、 都市計画的意味合いでのいわゆる「密集市街地」で、 まちづくり協議会を作ってわいわい言っていたら何かができる、 というのはあまり考えられないんじゃないか、 と思います。

 もう一つは、 これからまちづくり協議会を展開していくとしても「地域性」の問題があるのではないかという事です。 都市基盤が全然出来ていない蜘蛛の巣のような所と、 少なくとも神戸のように戦災復興や今回の震災復興で約8〜9割は基盤が出来ているという街では、 随分違うのではないかと思うのです。

 今、 まちづくり協議会を中心に「地区計画」を作るような「神戸型」のまちづくりを私はやっていて、 実際にできている所は神戸ではなく、 芦屋や西宮です。 西宮では今、 まちづくり協議会が20ほどできています。 ここでは行政との協動といった問題ではなく、 我々の街は我々で守っていく、 我々で造っていくんだと言って、 成功させているのです。 だから「地区計画」は今のままでも充分使えているわけです。

 では、 なぜ神戸ではなく芦屋や西宮で進むのか。 それは、 住民主体のまちづくりは、 ある程度住民にエネルギーが無ければできないということです。 全然エネルギーを持っていない地域でまちづくりができるかというと、 それはちょっと考えられません。

 住民にエネルギーがある場所は、 ある程度基盤が出来ていて、 ある程度生活に余裕もあってというような所です。 私は神戸では岡本地区を18年ほど手伝っているのですが、 兵庫や長田などとは地域性がかなり違い、 岡本地区には住民の中にパワーがあり、 自分の街は自分でやっていこうというエネルギーを持っています。 そこには経済的な面もあるかもしれません。

 このように、 まちづくりと言っても「やれる場所」「難しい場所」と、 いろいろ千差万別です。 当初はまだ環境カルテのような総なめ的な調査にとどまっていた。 今後はもう少し「地域性」を視野に入れた取組みが必要なのではないかと思います。

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