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パネラー報告4

フライングした真野のまちづくり

神戸・地域問題研究所 宮西悠司

神戸市とコミュニティ

近隣住区の始まり

 サブテーマを「フライングした真野のまちづくり」としておりますが、 ご承知の通りフライングというのは、 競技で先走ってスタートをしてしまうことを言います。 先ほどの小林さんのまち住区の説明でも、 1974年に神戸市は「まち住区素描」を書いていますが、 このへんもまさにフライングではないかと思います。

 私が神戸に来たのは1968年なのですが、 その時にはまだ「まちづくり」という言葉はありませんでした。 1965年に神戸市は初めてマスタープランをつくりましたが、 その中に「近隣住区」という言葉がすでに入っています。 この「近隣住区」は、 ヨーロッパやアメリカから導入してきた都市計画用語です。 たとえば千里ニュータウンをつくる時に、 幹線道路をまたがないような形で、 車から安全な居住地という意味で「近隣住区」をつくろうという発想があったと思います。 ヨーロッパではその中心は教会ですが、 日本では小学校を中心に据えるのが妥当ではないかと考えられたわけです。 小学校の適正規模はだいたい人口一万人くらいですが、 結局のところ、 それが近隣住区の単位になっていったのです。

 私や小林さん、 後藤さんのもう一人の先生である川名先生という都市計画の先生がおられたのですが、 その先生の学位論文が近隣住区でした。 その川名先生の直弟子である水谷先生の学位論文が町住区ということで、 ずっとこのテーマは引き継がれてきています。 その一番出来の悪い弟子が宮西悠司で、 その私がずっと真野を引き続いてやっているという流れになります。

「近隣住区」が出てきた背景

 さて、 なぜ神戸で近隣住区を考えていたかというと、 施設をどう配置するかという課題があったためです。 例えば小学校や中学校のような施設は法律で定められていますから、 これは必死になってつくったわけです。 その他の施設、 たとえば「児童館」や「老人憩いの家」をつくろうというときに、 それをどういう単位でつくっていけばいいのかという問題があったわけです。 そこで、 小学校単位で「老人憩いの家」をつくっていこう、 それから中学校単位では「児童館」をつくっていこうということになったわけです。

 もっとも学童保育をやっている児童館を小学校単位ではなく中学校単位で配置するというのは本当はおかしいんですが、 それはともかく、 そういう施設を行政が配置していく時にどういう基準で配置していけば、 効率的かつ公平かといった話の中で、 近隣住区というのが一つの考え方として出てきました。 そしてそれはおおむね小学校区だろうということになっていたわけです。

「まち住区」のスタート

 ところが小学校区は、 必ずしもきれいに割れていないのです。 神戸の小学校は、 大正時代の末から昭和の初めくらいにコンクリートで建て替えられるなど、 非常に立派になるのですが、 だいたい500mくらいの間隔で作られていました。 その結果、 小学校区はどうも住民にとってぴたっと来るわけではないんです。

 それよりも例えば「青谷」という言葉を聞くとあの辺だとか、 だいたいイメージが浮かぶ。 「御影」とか、 「丸山」とか言われるとなるほどあの辺というイメージがあるわけです。 神戸には小学校区でしっくりくる地区もあるけれども、 どうもそういう地域の名前がある。 そちらのほうが住民が「おらがまち」と言える範囲のイメージを持っているのではないかと。 それを少し解析してみようではないかというのが、 「まち住区」のスタートだったわけです。 とはいえ、 きっちりできない、 だから素描でおいておこうという話になったのでなないかと思います。

マスタープランでの扱い

 神戸であれば既成市街地というと、 これは六甲山の南側です。 今、 北区だとか西区、 あるいは西神、 北神とよんでいるんですが、 私の感覚からすれば鈴蘭台だとか北区や西区などは神戸ではないんです。 そういうところと神戸は、 まちの出来方も違うし、 環境も違うわけです。

 だから神戸市はマスタープランなどをつくる時には、 まず既成市街地と新しい地区と大きく二つに割ります。 そして、 その次に区単位で割っていく。 ですから区役所に一つ図書館をつくるという格好になって、 住民にとってみれば分かりやすいわけです。 その次にどうすると言うときに近隣住区という単位を考えたわけです。

 神戸市の一番最初のマスタープラン(1965年)では、 近隣住区という言葉が出てくると申しましたが、 ここには小学校区で割ったのではないかと思われる線が入っています。 そこに200字程度の文章が書かれているだけで、 特にたいした話が書いてありませんでした。 しかしここですでにコミュニティの話が裏表のセットになって出ていました。 近隣住区が空間の話で、 コミュニティがソフトというセットです。

 このように1965年に神戸市がコミュニティという言葉をマスタープランのなかに掲げたことは、 ものすごく先進的な話でした。 この時期から神戸市は、 コミュニティということに深入りしていきます。 以後、 15年くらいコミュニティということを一生懸命勉強するのですが、 結局のところ、 ほとんど実現しませんでした。

消えていった住区論

 例えば丸山の住民運動や真野の運動などは、 その頃神戸市の職員は必死になって勉強していました。 特に丸山はコミュニティのメッカと呼ばれ、 日本でコミュニティを語るのであれば丸山を一度は見なければならないと、 みんなが押し寄せてきたほどでした。

 ところが、 やがて近隣住区や住区論が消えて行くのです。 なぜ消えたのかというと、 千里ニュータウンのサブセンターが実際の経済の動きのなかで否定されたことが象徴的です。 住民に使われず、 営業できなくなってしまったのです。 その結果、 住区論をしゃべっているヤツはアホや、 古いということになりました。

 ですからマスタープランでも住区論は消えかけるのですが、 住民に身近な施設を積み上げてゆくといった意味での、 施設の設置単位としては行政としては捨てられません。 そのために、 なんとなく気持ち悪いまま残っていくことになったのではないかと思います。


神戸市のまちづくり

診断からまちづくりへ

 神戸は1965年くらいから近隣住区を先進的に掲げる一方で、 シビルミニマムとして、 例えば消防3分救急5分ということをうたった生活環境基準をつくりました。 神戸市内どこでも消防車は3分で到着するようにします、 救急車は5分で到着するようにしますと宣言し、 行政サービスを充実させていったわけです。

 一方、 まちづくりも少しずつ出てきました。 まずは市街地をきちんと分析しようということになり昨年のフォーラムで小森先生や垂水さんが紹介された神戸市街地生活環境図集など、 カルテづくりが行なわれました。

 神戸のカルテは、 診断して悪い所を発見するための、 いわば集団検診です。 集団検診で道路がないとか、 住宅と工場が混在している所だとか、 そういうスクリーニングをしたのですが、 この診断の結果、 一番悪い所として真野があがったわけです。 これはかなり意図的に真野をあぶりだしたのではないかと私は疑っていますが、 いずれにしてもこれで神戸市が他地区ではなく真野に投資をする理屈ができたわけです。

 しかし、 この時の神戸市は狡猾でした。 神戸市が何をしたかというと、 診断はするけれども病院に強制的に連れていくことはしない、 住民からやってくるのを待つというやり方でした。 神戸市は「病気を治すには自覚がないと駄目だ」「治す気がないと病気は治らない」と言ったわけです。 それに対して、 真野地区は住民主体で公害反対運動などをやっていて、 「自分たちのまちは自分たちでなんとかする」と言っていましたから、 この行政の仕掛けに乗ったわけです。 こうして真野のまちづくりがスタートしました。

玉石混淆のまちづくり

 1980年頃からまちづくりの制度が色々と整ってきました。 例えば建設省が補助金を出すという制度もどんどん出来てきました。 また、 コンサルタントのペイもそういう所から支払われるようになって、 まちづくりコンサルタントがまちの中に溢れるという時代になったわけです。

 その結果、 震災前に神戸にはまちづくり協議会がすでに12つくられていました。 先ほど、 神戸市には「自らの病気は自らで治さなければいけない」という理念があったと申しましたが、 現実はなかなかそうはいかなかったんです。 御蔵でもまちづくり協議会ができたのは結構早いのですが、 住民が自発的にまちづくりをやるためにまちづくり協議会をつくったのではないのです。 ですから12地区はいわば玉石混淆です。 震災後、 きっちり動いた協議会もあったし、 全然動かなかった協議会もあったというのは、 そういう背景があるわけです。


新しい時代へ

 このように、 神戸はいろんなことを先走ってやってきたわけです。 だからフライングしてきたと申し上げたわけです。 たとえば京都なんかは、 いまだにカルテのようなことをきちんとやっていません。 大学の先生たちが見るに見かねて、 京都のまちを一度診断してみようではないかといったことをやり始めていますが、 まだ京都市自体は動いていません。 いかに神戸市が先を走っていたかということが、 京都と比較するとよく分かると思います。

 真野はもう20年まちづくりをやってきました。 神戸市はこの20年で真野地区に50億くらいの金を入れています。 震災後の分を分析すると75億くらい突っ込んでいるのではないかと思います。 それとは別に地下鉄の駅もできました。 しかし、 神戸市にはもうお金がありません。 これから神戸でまちづくりをしても、 そんなお金はおりてこないと思います。

 そこで真野地区では、 神戸市との付き合いをもう少しあっさりしたものにしようと考えています。 抱擁しあうようなべたべたの関係はやめようということです。 その代わり企業と仲良くしようということです。 三ツ星ベルトという一部上場企業が、 地域と一緒に企業もまちづくりに参加していきたいと言ったのです。 今まではまちづくりは行政とやるのが当たり前だったのですが、 これからは産業と一緒に考えていくという時代に真野は入ってきました。 所得形成機会を増やすと言ったところまでは至りませんが、 やはり真野はほかのまちづくりの地区とは違う段階に入りつつあるという気がいたします。

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