天川佳美
ガレキに花を
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第1回と第2回の種蒔き

 

改行マーク最初の年、 1995年5月27日土曜日を初日として、 記念すべき第1回の種蒔きは神戸市内9ヶ所、 芦屋市内4ヶ所の計13ヶ所です。

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第1回(1995春)の種をまいた場所
改行マーク初日、 灘区の楠丘での種蒔きは各地区の代表の方々やネットワークのメンバーが、 練習も兼ねた種蒔きをして技を習得し、 その次の日からそれぞれの地区に出向いて地元の人々もお誘いして約2週間、 せっせせっせと種蒔きをしました。

改行マークそれぞれの地域の地元の方々は、 たくさんのなつかしい思い出や悔し涙を呑み込んだ瓦礫や焼土の堅い堅い土を耕し掘り起こし、 肥料とコンポストと花の種を混ぜ合わせた土をバケツにいれて、 ガレキの空地をあっちへ行ったり、 こっちへ行ったり、 額に汗して蒔きました。

改行マーク「ここはもとお風呂やね、 タイルの破片が残ってるよ」「ここは台所やわ、 洗剤のボトルの残骸があるわ」「腹立つねぇ、 家(うち)なんか去年改装したばっかりやのに潰れてしもうたんやわぁ、 しゃーないけど、 腹立つわぁ」と、 心の痛みをぐっとこらえて、 にぎやかにスタートしました。 でもキラリと光る瞳はもしかしたら涙だったかもしれません。

改行マーク灘区の備後町、 桜口町は「草花混合種子提案」の中のD、 15種混合ブレンドを選びました。

改行マーク六甲道駅南の再再開発地区(再開発したところが壊れ、 もう一度再開発することになった)の西に隣接する備後町は神戸大学の平山さんと児玉さんが先導役で地域の女性達がたくさん参加してくださいました。 華やかに笑い声が響き、 やがて咲き乱れるだろう花花が先に咲いたような一日でした。

改行マーク桜口町は倒壊を免れた建物の陰になったような一角で、 解体された建物の残骸ガレキが積んである横に、 残された庭木のサツキが咲いていたのを覚えています。 近所の人と町の自治会の役員の人達で耕し、 種を蒔きましたが、 芽が出てすぐのころ発芽調査に伺うと、 探しても探しても場所がわかりません。 おかしいなぁと思ったら、 家が建っていました。 ちょうど倒壊しなかった建物に囲まれたような土地だったので、 建ってしまうとわからなかったのです。 ひょっとするとここが種蒔きの後に建物が建った一番乗りだったのではないかと思います。

改行マーク芦屋市前田町は国道二号線沿いの区画整理事業区域で、 道路の両面、 北側も南側も倒壊がひどい場所のひとつです。 ハナヤ勘兵衞(本名は桑田)さんというカメラ屋さんは、 昭和3年からこの前田町に家と店舗を持っておられました。 店舗は震災後公光町に一時避難され商売を続けて来られました。

改行マークある日桑田さんから「区画整理にかかってて家建てられへんねん、 困っとんねんけど何かええ方法ないやろか」と相談がありました。 ちょうど花の種を蒔こうという時でしたので「とりあえず種を蒔こうよ」と誘って、 花咲か爺さんである小林が「区画整理事業の区域内でも木造二階建は建てられるし、 事業決定した時に移転補償もでる」と説明し、 「建ててしまい」と言いました。 桑田さんは喜んで種蒔きに参加してくださり、 その後まるでもともとあったように木造二階建の山小屋風店舗を建てられました。 事業決定して換地が同じ場所ですめば、 増築してそのまま三階建になるそうです。 店舗が建った時、 私達は当然移動式生垣(木の箱に生垣となる中木を植えたもの)をプレゼントしました。

改行マーク同じく芦屋市の船戸町、 朝日が丘町、 公光町での種蒔きは暑い日でした。 ここの種蒔きは悲しい話をしなければなりません。

改行マーク震災直後、 芦屋での復興活動は『AAネットワーク』といって個性豊かな建築家の人達を中心にネットワークが結成されておりました。

改行マークそのなかに高橋裕嗣さんという建築写真を撮る仕事をしておられる人がおられました。 温厚な彼の人柄抜きにAAネットワークのまとまりはなかったでしょう。

改行マーク震災前から『港まち神戸を愛する会』という神戸の旧居留地周辺の近代洋風建築の保存運動をしてきた仲間(副会長だった)の一人で芦屋市朝日が丘町在住でした。 震災直後の活動にも精力的に参加してこられ、 もちろん種蒔きも先頭に立って地域の人々を誘ってくださいました。 その後のガレキTシャツに関係する活動にも率先して参加し、 Tシャツを売ってくださったり、 知り合いの方々に声をかけてくださいました。

改行マーク96年の5月、 身体の不調(病名は詳しくはわかりませんが)で入院され、 その年の7月10日帰らぬ人となりました。 95年秋の2回目の種蒔きの後、 我が社のサロンでお茶を飲みながら、 「今年はどんな花畑ができるかたのしみやねぇ」というひとときが最後でした。 次に私がお会いした時にはすでにお元気な姿ではなく、 ベットの上で「高橋さん」という呼びかけにも、 握った手にも反応はありませんでした。 病院へ見舞った帰り阪神電車のなかで沿線の倒壊した家々を眺めながら涙が止まらなかったのを、 昨日のことのように思い出してしまいます。 なぜもっと早い時期に病院へお見舞いに行かなかったのかと仲間にも言われましたが、 最初入院されていると伺った時はそんな大事だとは思わずにいましたし、 すぐに退院されましたので、 その後の再入院のことも日常の雑務に追われてしまっていたことが悔やまれました。 家族の方からの「多分もうだめなので一度見舞ってやってください」というお電話にびっくりしたのと、 今まで伺わなかったことが悔やまれましたが、 もういくら悔やんでも仕方ありませんでした。

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芦屋市公光町でコスモスの種を蒔く故高橋さん。 何人もの人達で種蒔きをしたのに、 なぜかこの写真には高橋さんしか写っていません
改行マークお葬式の日にAAネットワークの仲間だった方が「高橋さんが咲かせたコスモスよ」と昨年のこぼれ種で咲き始めたコスモスを花束にしてもって来られ、 柩のなかに入れてくださいました。 そして彼が楽しみにしていた“今年の花畑”はその日から1週間後にポピーの満開を迎えました。 ゆらゆらと風に揺れるポピーを泣きながら見つめた日のことを、 私はきっといつまでも忘れません。

改行マーク高橋さん、 いつも一生懸命だったあなたを私達仲間は誇りに思います。 たくさんの笑顔をありがとう、 たくさんの思い出をありがとう。

改行マークまだ高橋さんへの言葉は、 今の私にはこれ以上書くことができません。

改行マーク第2回目の種蒔きは、 翌年の春の花畑に向けて1995年10月と12月に行われました。 神戸市内と芦屋市内に9ヶ所です。 長田区での種蒔き場所として1回目の時には御船通・大道通、 日吉町・若松町・海運町、 腕塚町の3ヶ所が参加されましたが、 2回目は海運町だけになりました。 その海運町でも、 鷹取東第一地区区画整理事業計画決定の縦覧が9月の中頃から始まりました。

改行マーク当時、 種を蒔いても事業が着手されブルドーザーが地面を掘り返してしまうとせっかく蒔いた種が発芽できなくなってしまうと、 地元の人達は場所選びに一生懸命でした。 春になってわずかでも花が咲くようにと、 鷹取カトリック教会の東隣りにできていた神戸市の現地事務所の陰のようになった場所に、 大きな円を描いて春の花の種を蒔きました。 その日、 種を蒔いた隣の敷地には換地の決まった家が道路もはっきりしない中に落ち着かない様子で建ちはじめていたのを印象深く覚えています。

改行マーク灘区では阪急六甲駅の近く八幡町が2回目に新しい種蒔き場所として加わりました。 東京で私達と同じコンサルタントをしておられる水口さんのお兄さんの土地で、 しばらくは何も建てないだろうということで借りれることになりました。 ここでは一般の方々から種蒔き隊に参加をしたいとの申し出がありました。 1回目の教訓をいかし、 水やりや芽が出てからの世話がしやすいようにと、 まず敷地の中に大きなクロスの道をつくり、 瓦礫を耕した時に出る大きめの石で枠取りをして、 ここにはポピーの種を蒔きました。 今となっては笑い話ですが、 翌年の春先にやっと大きな蕾が膨らんで「明日咲くね」という日にブルドーザーが入り、 マンションの販売展示場になってしまいました。 近くの住民の方々ができるだけ切り取って、 それぞれのお家で咲かせてくださったという後日談は、 この近くにある親しい花屋さんから伺うことができました。

改行マーク東灘区の本山中町3丁目の小路市場の跡地は1回目も2回目も地元の方のご協力で種蒔きをしました。 ここも2回目の種の発芽を待たずにマンションの再建が始まり、 大きな敷地に囲いがされました。 思えばあの暑いくらいの5月、 市場の通路の石畳が残っており、 かつての賑わいが聞こえてきそうな思いを噛み締めながらわずかな土を耕して種を蒔いたこと、 その小路に沿って可憐な花が帯状に咲いた日のことをなつかしく思い出しました。

改行マークいずれも『きんもくせい』の第10号の表紙に書いたように、
 

    “瓦礫から家々の建設への過程の第一歩として、 芽が出て蕾がつき、 花が咲くのをそこに住んでおられた方々が時々訪ねてくださるように”
 
の言葉どおりです。 みんなにかわいがって育てていただいた花は、 その場所の人々の希望の花だったと思っています。

改行マークせっかく種を蒔いたのにと言ってくださる方もありました。 あまりに急なブルドーザーだと怒られた方もありました。 でも私達は最初の思いどおり家や建物が建つことを喜ぼうと思いました。 私は今回この本をまとめるにあたって種を蒔いた場所をすべて歩いてみました。 ほとんどが再建され、 写真を写すことさえ困難なくらい建物が建っていますが、 なかには当時のままだったり、 その後三年間手がつけられずにあったため、 草が生い茂っている所もありました。 このことはまた別の章でも触れることになりますので、 ここでは私の心がきゅんと締め付けられたことだけに止めて置きます。

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