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世界の和田誠さんへの厚かましいお願い
グッズ第1号、 長袖Tシャツ |
それから「復興市民まちづくりハウス」と書いて大きな旗を作りました。 これは各地でまちづくりの拠点になっている小屋に狼煙として竹竿で(ちゃんとポールのところもあったようです)高々と掲げました。 新しく何かに使う前に和田さんにはご連絡をするというお約束を申し出ましたが、 それも「要りません、 ご自由に」とおっしゃいました。
時々新しいことがひらめいた時にお手紙を書きますが、 それにお返事はありません。 和田さんご自身も震災復興のボランティアをいろいろされており、 よく新聞やテレビのニュースで拝見致しました。 私達のボランティアまでよく聞き入れてくださったものだと改めてここでお礼申し上げたいと思います。 どうもありがとうございました。
余談ですが、 このマークのお願いの前になりますが、 とてつもない“手紙”のこともありました。 ちょっと恥ずかしいのですが、 それを披露します。
以前に書きました、 第1回の種蒔きで長田区「鷹取のヒマワリ」にとてつもないアイディアがあったというのは、 じつは後日談があるのです。 海運町のヒマワリ畑は計画では広大な畑になるはずでした。 そんな話をしている時、 「見渡す限りのひまわりが咲くんやね」という散髪屋の林さんの笑顔についうっかり私は「あぁ映画の『ひまわり』のあのシーンのように鷹取のひまわり畑の中にソフィアローレンさんが立ってるなんて最高やろねぇ」「呼ぼう呼ぼう」「えぇー」またしても乗りやすい無謀な天川、 イタリア大使館宛に手紙を書きました(天川の無謀その5)。
しかし、 鷹取地区のヒマワリは広大な畑にはなりませんでした。 あまりに堅い焦土となってしまい耕すことが困難でした。 区画整理道路予定地として辛うじて線描きのヒマワリの道ができあがったのです。 手紙は涙を呑んで出すのをあきらめました。
もうひとつ出したけれど何ともはがゆい手紙もありました。
テレビ朝日のニュースステーションでは当時各地に出向いて羽田健太郎さんがピアノを弾くというコーナーがありました。 楠丘や芦屋の瓦礫の中に忽然と咲いたコスモス畑や長田区の焦土の中にすっくと青空に向かって咲くヒマワリのなかでピアノを弾いてくださいとお願い文を書きました。 これはちゃんと出しました。 そして届きました。 担当の矢野さん(だったと思う)とおっしゃる方がご連絡をくださり現地を一度見たいというお返事に私達は「やったぁー」と喜びました。 はっきり言ってミーハーです。 大胆にもプロに向かって脚本企画までしてしまいました(天川の無謀その6)。
楠丘のポツンポツンと残っている住宅地の中の一角に色とりどりのコスモス畑があるそのコスモスの中に埋もれるようにピアノが見え隠れして『秋桜』のメロディ。 |
この企画の最大の敵は何だったのでしょう。
現地近くまで来たと国道43号線から携帯電話があり、 道順を説明してもうすぐかなとみんなで待っていました。 おかしいなぁ遅いなぁと言いかけた時、 電話がなりました。 「すみません、 緊急指令がはいりました、 オウムです。 急遽東京へ帰らなければなりません。 一旦帰りますが、 必ずご連絡いたします」。 それっきりでした。 1ヶ月くらいしてこちらから一度電話をしてみましたが、 転勤してしまわれ、 この企画に関してはなにもわからないという返事でした。
ひまわり畑の中を「あなたはどこへいってしまったの、 本当に死んでしまったの」と愛する人の手掛かりを求めて走り回るあのソフィアローレンの心境とでも言いますか、 切なく、 淋しく、 情けなく、 腹立たしい結末でした。
まったく違う形ですがその年の12月31日、 年越しの放送として鷹取カトリック教会のペーパードームでの羽田健太郎さんのピアノ演奏は実現しました。 そして演奏の途中に女性のアナウンサーの声で「なぜか、 こんな瓦礫のなかに花が咲いています。 夏の花が枯れてしまった名残も見えます。 人々の心の中に花はどんなふうに…」演奏の曲は忘れてしまいましたが、 映画『ひまわり』のテーマソングでもなく、 山口百恵『秋桜』でもなかったことだけは確かですが、 「『なぜか』やないやろぉー」と、 私が叫んだのは言うまでもありません。