95年11月24日から3日間、 ウォーターフロントサミットに参加するため沖縄にいきました。 神戸からは、 港まち神戸を愛する会のメンバーに加えて支援ネットワークのメンバーも参加しました。 神戸の震災後の取り組みを聞いてくださるというので、 私は「ガレキに花を」を披露しました。 シンポジウムのあと那覇で水辺の植物の話をしてくださったのが環境緑化がお仕事の風水舎、 崎山正美さんでした。 街歩きの時、 紅い花が咲いている大きな木があちこちにあるのが気になり、 崎山さんにお聞きしましたら、 それが日本で一番早く咲くという沖縄の「緋寒桜」でした。 それを被災地で育てられないかとふと思いつき、 いらんことを言ってしまいました。 「神戸のあたりでも育ちますか、 植えたいですね」。 これがすべての始まりでした(天川の無謀その7)。 崎山さんは私達が神戸に帰ってから、 「大阪芸術大学の植物学の下村孝先生に聞きましたら、 奈良、 兵庫あたりまでは大丈夫というお墨付きをいただきましたので早速緋寒桜を贈る準備をします。 贈る会は阪神緑花再生プロジェクト支援奄美・沖縄委員会です」と。 あらまぁ、 えらいことになったぞぉ。 たぶん12月の始めごろの電話だったと思います。
年があらたまったら、 沖縄のネットワークの人達に呼びかけて贈る植物のリストを作ります、 ということでした。 受け入れが支援ネットワークでは何ともなぁと思いながら、 同時進行でランドスケープ復興支援会議/阪神グリーンネットの発足に間に合ったのです。
阪神グリーンネットの発足が96年2月6日、 沖縄からの桜は3月31日でした。
阪神グリーンネットの活動としては、 奄美・沖縄の桜が最初の仕事ではありませんでした。 2月24日、 愛知県一宮市の角田ナーセリーネットワークの方々からパンジーなどの苗を2万6000苗いただき、 被災地の各地へ配る「花と緑のまちづくり」の最初の一歩がありました。 この一宮市の角田さんの支援は第1回の「ガレキに花を」にさかのぼります。 第一回種蒔きの時、 たまたま震災前から交流のあった大阪の造園コンサルタントの辻本智子さんに連絡をし、 鷹取での種蒔きにご参加いただきました。 その時に長田区は区の花がサルビアだと聞いて、 「この大国公園の花壇をサルビア花壇にしましょうよ」と辻本さんから提案があり、 95年6月始め、 たくさんのサルビアが角田ナーセリーさんから大国公園に贈られて来ました。 これがヒントで始まった、 一宮市の角田さんのネットワークからの花の苗配布は、 96年2月を第1回として今年(99年3月)の春で7回を数えます(この7回に最初のサルビアは入っていません)。
毎回2万苗から3万苗の花苗を贈ってくださるのですが、 最初は辻本さんが一人で段取りをしてくださり、 愛知県からのトラックの手配まで完璧でした。 一言で“トラック”といっても花を運ぶのは特殊なトラックです。 荷台は何段にも仕切り板で段組ができるようになっていて、 花の高さによって変えられるようになっているのです。 そこに40株ほどずつ入ったパレット状のカゴがぎっしり並ぶのです。 一パレットずつ並べて積んでいき、 一パレットずつ降ろしていきます。
「関西方面から東海方面に花を積んで出向いて行ったトラックで、 大阪、 神戸方面へ空っぽで帰ってくるトラックを捕まえるんです、 しかもボランティアで運んでもらえることが条件です」とのこと。 そんな神業(勝手な神業です)のノウハウを辻本さんから伝授いただき、 96年夏からは私が辻本流手配(この手配はヘタにやるとえらいことになります)をすることになりました。
花はただですが、 運賃もただ。 何と恐ろしいことをやっていたんだろうと今もって思います。 97年の夏からはそれでも運賃だけは払うことにしようということなったのです。 払うと言ってももちろん充分ではありませんが、 花の苗はいまだにただのままです。 まちづくり協議会や住民の皆さんに運賃のカンパをお願いすることにしました。 「お花はただですが、 お花を持って行かれる方々、 花一株につき10円を目安に、 運送賃のカンパをお願いします」、 そして「角田ナーセリーネットワークの皆さんへのお礼に、 育っている様子を知らせるはがきや写真をだしてあげてください」と書いたチラシをその都度必ず渡しました。 「花はただです」と、 簡単にいいますが、 みなさんがお花屋さんでだいたい100円から300円くらいで買っておられるあの苗と思ってください。 それはもちろん売値ですが、 ほんとうに買ったら今まで(7回分)の累積はいくらになるのか、 エライ金額だとおわかりいただけるはずです。
角田さん達のネットワークの方々にもほんとうにほんとうに頭が下がります。
ただ、 花も生き物、 生産業者の方としては1週間や2週間も前からいくつの苗をいつ出発できるというような悠長な話ではありません。 本来の出荷を終えられ、 これなら神戸に送れるぞとの最後の判断はほんの2〜3日前です。 しかも何軒かのネットワークのメンバーに呼びかけてのこと、 揃いません。 受ける方はというと、 配ってくださる各地の協議会のメンバーを確定しなくてはいけませんが、 いくつ、 いつ、 が決まらないと連絡できません。 協議会はそれぞれ役員の方が地域の住民に声をかけ、 花を植える準備をしなくてはいけません。 最終お知らせは毎回「明後日ごろ花の苗が届きます」に「もうちょっと早よう連絡してよ」の応酬でした。 でもこればっかりは仕方ありません。 なんせ、 「なまもの」ですので。
しかしお蔭様で、 ほんとうに各地域で花が充分に復興を手伝ってくれました。 最初はどこに植えたらええのや、 というほど地面がなくて、 仕方なくプランターに植えたり、 庭の隅っこで可憐な花が健気に咲くのを地区の中で自慢しあったり、 と涙ぐましいことでしたが、 ご近所同士で花談義が交わされ、 コミュニティ再生の一端をになっていきました。 角田さんのネットワークの話はいっぱいありますが、 ありがとうございますと尽きせぬ感謝を込めて、 ひとまず次へ。
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沖縄の緋寒桜/
角田ナーセリーネットワークへの感謝
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