天川佳美
ガレキに花を
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あれから4年が経ちました。
震災の年、 私達の事務所の跡地にはコスモスが4ヶ月間咲き、 くる日もくる日も水をやり、 花を摘み、 たくさんの人々に勇気と希望を与え、 枯れました。 鷹取のヒマワリも、 東灘区の混合の花花も、 精一杯の花を咲かせ、 枯れました。 収穫した種は、 多くの人々に配りました。 見に来ていた幼稚園の子供、 近所の住民の方々、 わざわざ花を見に立ち寄って下さった方々などに、 種を持って行ってもらい、 来年もその先も咲かせて下さいとお願いしました。
そしてそのあと、 それらの場所の再建が始まりました。
東灘区の魚崎小学校周辺で種を蒔いた場所がどうなったか、 4年前の種蒔きの時の写真を頼りに訪ねてみました。 確かこのあたりだったというところには立派な家が建ち並んでいて、 まち並みもすっかり整っています。 「阪神沿線にたしか酒屋さんがあったはずや」と歩いていますと、 酒屋さんはないけれど、 プレハブの周りにビール瓶のケースが置いてある駐車スペースがあります。 ぐるっと回ってみるとプレハブの入口に『永島酒店』の幟があり、 中で立ち呑みのような空間が見え、 覗いたら中から人がでて来られました。 「すみません、 ここは震災の時も酒屋さんでしたか。 この写真はここでしょうか」と尋ねますと、 「あぁーこれはここです。 なつかしいねぇ。 ここに花の種を蒔いてもらったんです」「ああ、 ここでしたか、 その時種を蒔いた者です。 お久しぶりでした」。 永島さんはお家は再建されたのですが、 酒屋さんの方は後継者もいないし、 このごろはスーパーやコンビニエンスストアでお酒を売ってるし、 もうこのままでいいかと思っていますと話してくださいました。
お家の玄関前は種を蒔いた時の花の種がずっと続いていて毎年花が咲くそうで、 玄関横には一本の辛夷(こぶし)が植えられていました。 その辛夷の木は『ひょうごグリーンネットの復興シンボルツリー』に応募してもらったものですとおっしゃいました。
私は緑の取り組みが住民の中に生きている実感を持つことができました。
同じ東灘区の国道2号線に『小路』という交差点があります。 ここは奄美・沖縄からの桜が日本縦断桜駅伝とともに走って来て受け渡しのあった場所です。
元々は小路市場という東西に長い商店街があった場所ですが、 震災で倒壊してしまったのです。 その商店街の通路だったところに種蒔きをしました。 1回目の夏、 通路だっただろうとわかる敷石沿いに可憐な花が咲きました。2回目も同じ場所に種蒔きはしましたが、 その時は既に再建計画が決まっていたようでした。 確かめませんでしたが、 たぶん花を見る事なく工事になったことと思います。 この度現況の調査をしてすっかり立派な建物が建っているのに驚きましたが、 その建物のあちこちにはいろんな花が咲き乱れていました。 ビルの1階西側にはちゃんとお花屋さんが入って居られ、 あのころ屋台のような設えでお花屋さんがあったことを思い出しました。 お店に入って、 「この花屋さんは震災直後におられた花屋さんですか」とお尋ねしたら、 「そうです」と返事。 表にでてもう一度ビルを眺めていると、 まだ整備の残っている2号線側の空地に、 ポツンと屋台小屋が残っていて、 竹田生花店と看板がありました。
今回、4年経ってどうなったかの現況をみてみると、 あんなに荒れ地だったり、 道路沿いの狭い場所だったりしたところだったのに、 花の種を蒔いた場所の近くは不思議なくらい今も花があふれんばかりに咲いていて、 思わず嬉しくなったりもしました。
でも全てそんなことではありません。 芦屋市で種蒔きをした中に、お家の門構えと玄関までの石を敷き詰めた所だけが残されている空地がありました。 当時は周りもすっかり空地で暑くてからんとした風景の中で、 コスモスが夏の陽差しの中で揺れていたのを思い出しながら今回訪ねてみますと、 周りはポツンポツンと建ちかけている中で、 そこだけ全く当時のままに門と敷石だけがあり、 雑草が生い茂っていました。 そこは区画整理事業区域内でした。
もう1カ所別の区画整理事業区域で、 種蒔きをしたところがどうなっているか見に行きました。 大きなお庭があるお家でした。 ここでの種蒔きは5月と11月の2度、 1度目の夏はコスモスが咲き、 2度目の春は前年のこぼれ種のコスモスとこの年のポピーが咲きました。 前に書いた故高橋さんが楽しみにしておられ、 結局見ることができなかったあのポピーです。 当時空地になってしまった広大な敷地の中に、 植木を大事に全部残されているという印象をうけましたし、 道路沿いにはプレハブ小屋を建てておられ、 「うちは減歩はあるけど同じところに建てれるから、 こうやって小屋に家財道具を入れてんねん」ということでした。 そのお隣は住んでおられ、 花のお世話をよくしていただきました。 それが今回訪ねてみますと、 区画整理事業が始まってまったく景色が変わっていました。 道路が出来ているところがあったり、 空地だった所は区画ができて分譲地のようになっているし、 トラックやブルドーザーがあちこち掘り返しています。 お花のお世話をよくしてくださった隣の家もなく、 記憶を頼りに歩いていると、 見覚えのあるプレハブ小屋がありました。 たまたま住んでおられた方がいらっしゃって久しぶりに話をすることができました。 コスモスやポピーの花盛りだったころ毎日のように水をやってくださり大切に育てていただいた方です。 「庭が新しい道路で分断され、 せっかく残してある植木達は残念ながら植え替えられないので涙を呑んで、 家が建ったら庭も新しい木々になるんよ。 私らお上には逆らえへんから、 『ははぁごもっとも』と言うといて、 陰で文句だけはたらふく言うてるけどね。 私のこの小屋もちょっとだけ道に係るようになるから早よぉどけなさい言われて、 今片付けてるけど片付かへんし、 だんだん腹立ってくるわ。 自分の場所が決まってそこへ家建ててこの小屋の荷物をそっちへ入れて、 小屋を壊したかったのにねぇ。 腹立つけどお上には逆らえん、 しゃーないわ」と夕焼けになった空を見上げて「もうこんな時間や」と本当に腹立たしいようすでした。 震災で壊れていなかったお隣の家も新しい道路の都合で一時立ち退かねばならず、 せっかく残った家なのに壊されたのだそうです。
住市総(住宅市街地整備総合支援事業)の公的補助を受けた共同建替として、 96年春に宮脇檀さんに設計をお願いして、 私達の事務所も建てることになりました(といっても建てるのは大家さんですが)。
震災直後、 その建替の相談をはじめてお願いして、 東京から宮脇さんに来ていただくことになった時、 宮脇さんは「君達は毎日何を食べているのだ」と聞かれました。 「ガスがないので、 おにぎりやパンを主食に、 インスタントのラーメン、 うどんであったまります」「何をしとるんや、 そんなもんで仕事(復興)ができるか」と活を入れられました。
「そちらで用意できるものはして、 ないものは東京から持っていくから」と、 東京からどんどんファクシミリが来ます。 結局、 私の家からバター、 まな板、 フライパンを持参し、 東京からはガスボンベ、 簡易型コンロ、 皿・フォーク・ナイフ・ワインカップ(すべてプラスティックだとご本人は嘆いておられましたが、 今も大切に置いてあります)、 ワイン、 そしてイタリア料理の材料一式12人分、 調味料一式、 そしてインスタントエスプレッソ、 デザートのケーキまで揃えて、 使い込まれたご自分の包丁(晒しには巻いてなかったですが)と年季もののソースパン(これは記念にと下さいました。 コー・プランの厨房の宝物です)、 小型のまな板、 ボールにザル、 ナプキン類やエプロンを持って2月18日土曜日、 交通のマヒした被災地へとわざわざ来てくださいました。
交通が遮断されたままでしたから、 JR住吉駅から大きな荷物を3人がかりで引きずるようにして歩いてやっとのこと、 楠丘にたどり着いたという感でしたが、 気持ちは高ぶっておられ、 早速現地の様子を小林が説明し、 周辺見学へとカメラを持って歩いて行かれました(その時のことを東京建築士会の会報誌『建築東京』(95年5月号)に書いておられます。 今読んでも涙がでるのは、 文章力のせいだけではないと思います)。
次の日、 近所の方々にも集まってもらって建替の相談をしました。
このころは、 みんな不安は抱え切れないほど持っていましたが、 夢を持ち再建を考えておられたころです。 せっかくならみんなで協力して共同建替ができたらいいのにという話を宮脇さんを囲み、 小林が説明をしてお昼ご飯を食べながら(この昼餐はサンドヰッチやホットドッグでした)、 狭いサロンでご近所同士頭をくっつけながら話し合いました。 でも結局は借地の問題があり、 共同建替としては最終的に2軒での実施にしかなりませんでした。 しかたがありませんでした。
この日、 マフィアのママンは「マンジャーレ!」と叫び(69頁参照)、 私達はまた復興という戦闘に挑めたのです。 数軒での共同建替はかないませんでしたが、 私達は宮脇さんが来てくださった2日間で生きる勇気が再び生まれました。 「毎日、 毎食いつもきちんと食べて、 よい仕事をしよう」と言ってくださったあの言葉が、 それ以後ずっと私の頭の中にあります。 くじけそうになったり、 邪魔くさくなりかけた時にはきまって宮脇さんのあの言葉に励まされて、 日常のことをきちんとしないと何もできないのだということをしっかり心に刻んでここまできました。
宮脇さんはこの共同建替の完成寸前に病に倒れられ、 竣工には立ち会っていただけませんでした。 何度も入退院を繰り返され98年5月、 やっとこの建物を見に来て下さいました。 咽頭癌の手術で声帯をとられていましたので、 お話しは筆談でした。 大好きだったお肉を私達が焼いて料理をし、 屋上庭園で採れた野菜(ブロッコリーやカリフラワー、 レタスなど)を使って宮脇さんがシーザースサラダを作って下さいました。 一緒に共同建替はできなかったけれど、 西隣の嘉村さんも交えてみんなと楽しい一時でした。
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私達が事務所としてお借りしていた住宅の倒壊を免れた建物(鉄筋でC棟と呼んでいます)と全壊してしまった跡地に置いたプレファブ(サティアンと呼んでいました)。 コスモスは7月から10月まで咲き続け第一園芸さんの言葉どおり11月には枯れました
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それから宮脇さんは私達のコスモスのことも『建築東京』(95年9月号)に書いてくださいました。 その中で最後に宮脇さんが呼びかける「水谷よ、 お前さんは偉かったねと思わざるを得なかった。 こういう形で環境を提案することも私達の仕事なのだ」のくだりは、 いつも語りかけたい友人を亡くしてしまった心の叫びのように私には思えます。 残念ながら水谷先生も宮脇先生も、 もうこの世にいらっしゃいません。 なによりこの建物を建てていただいたこと、 そしてここが私達の仕事場であることを誇りに思っています。 私は、 再建されたこの建物で仕事をしながら、 「ここで仲間が、 後輩が、 地元の住民の方々がまちづくりを語っていますよ」ともう決して答えてはくださらない水谷先生や宮脇先生にいつも語り伝えているつもりです。
瓦礫から家々の建設への過程の第一歩として、 荒れ地を花畑にしました。
そこはしっかり花が咲いて、 枯れました。
しかしそのあと、 そこには大きな希望が咲きました。
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