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ちょっと、 マスコミのこと
この会議が震災復興の全ての始まりでした |
被災状況図―兵庫区・長田区・須磨区 |
木造の倒壊した我が事務所の解体が1月26日から始まっており、 連日すごい埃のなかで、 1月23日に自力で繋いだ電話が引っ切りなしに掛かってくるという状況でした。 私は毎日電話の対応に明け暮れ電話機のある場所から一歩も動けず、 被災地の様子がどうなっているのかは、 自宅と事務所の周辺しかまだ知らないころでした。
1月30日の朝も大和田さんは仙台から持って来られた折り畳み式の自転車で我が社に来られ、 「どこへ行ったらいいかなぁ、 やっぱり真野かなぁ、 真野はどう行ったらいいの」と私の机の周りでうろうろしておられました。 私はここ数日の埃と電話攻めに声が出なくなっているけれど電話には出ないといけない苛立たしさに少々参っているところだったのでしょう。 「なぜそんなにみんな真野真野とおっしゃるんですか、 被災したのは真野だけではありません。 新在家も魚崎も鷹取も淡路島だって震源地でしょう。 淡路島から尼崎まで全域ご自分の自転車で廻られたらどうですか」と声をかぎりに怒鳴ってしまいました。 前にも書きましたが、 “無謀の天川”もですが、 “怒りの天川”でもあります。 大和田さんはそれでも辛抱強くというか、 しつこくというか、 どこへ行くかの情報を仕入れようと必死でした。 そして彼は鷹取の大国公園と出会われました。 彼の粘り勝ちということです。
それ以来今もずっと大和田さんとの交流は続いています。 もちろん「ガレキに花を」も「茶店きんもくせい」も取材をしてくださり、 多くのカンパもいただきました。 でもそれよりなにより私が嬉しく思いますのは、 「鷹取大国公園に出会えたこと」を大和田さんが喜んでくださったことです。 「被災地は一つだけじゃありません」と思わず私が叫んだのは、 「阪神間の300万人みんな同じ被災者です」と、 私はずーっと思って来ましたから、 自分の足で探してほしい、 自分の目で被災地の実態を取材してください、 ということだったのです。
大和田さんの取材に同行されていた朝日新聞社のカメラマン後藤正さんも忘れられない人の一人です。 六甲アイランドにお住まいだったのでよく立ち寄ってくださり、 みんなでコーヒータイムをご一緒しました。 花も好きでよく写真を撮ってくださいました。 何と言っても忘れられないのは、 鷹取を空撮すると大和田さんがヘリコプターを飛ばされた時に写真を撮られたのが後藤さんで、 私はヒマワリが咲いたところを撮ってほしいとお願いしたのですが、 ヘリからでは遠すぎて写らずがっかりしました。 しかし、 後藤さんがそれは見事な花の写真を撮ってくださいました。 さすがカメラマン。
ちょくちょく顔を見せてくださっていたのがある時から姿を見せてくださらなくなりました。 どうされたのかと心配していましたら、 日曜版の撮影で長い海外出張でした。 それ以後残念ながらお会いしていません。
2月3日にNHK大阪放送局文化部というところの池田謙二さんが、 ETV特集の取材で我が社に来られました。 2月20日と21日の2日連続、 しかも12チャンネルで8時から8時45分のゴールデンタイムの放送です。 放送日も内容も決まっていたのに、 彼は夜遅くまでここと神戸大学の室崎先生のところで、 一生懸命勉強されました。 でも勉強の成果を彼の上司はまったく認めず、 目茶苦茶忙しいなか、 時間を割いて対応した我がネットワークや室崎先生の努力も報われず、 後味の悪い「NHK」になってしまいました。 番組は森南地区を取り上げ、 行政のやり方を一方的に批判するものでした。 その後池田さんはどうされたか全く知りませんが、 彼自身あんなに勉強されたのに被災地の生の状況を真っすぐに伝え、 上司の見解を覆せなかったのかと私は非常に残念に思いました。 この時の勉強がその後少しでも彼自身の肥やしになっていることを、 今は祈っています。
こんなことがあったからといってNHKを目の敵にしているわけではありません。 「ガレキに花を」を取材してくださった当時NHKの神戸放送局のカメラマン、 馬嶋順也さんの最初の取材は、 95年9月だったと思います。 コスモスが揺れているなかで水やりをしている映像で、 ニュースのなかのひとコマということだったと思います。 馬嶋さん自身のナレーションと字幕で被災地での活動のコメントでした。 「ガレキに花を」の活動に賛同してくださって、 長い時間いろんな話をしました。 その後も時々連絡があり、 96年春の阪神グリーンネット最初の仕事となった愛知県一宮市角田ナーセリーネットワークからパンジー2万6000株が届いた時の取材も彼が自らカメラを廻されました。 この日は春には稀な豪雨でした。 三田市の「人と自然の博物館」隣の敷地に届けられたパンジーなどで、 突風と土砂降りの春の嵐のなか「ガレキに花を」と花文字を描きました。 そのあと桜駅伝のことや岡本のヒマワリなども彼がちょっとやらせ(業界用語では仕込みというそうですが)の演出をし、 放送されました。 98年春、 久しぶりに電話があり、 「神戸の桜で人々の心の桜になっているところを教えてください。 あんまりみんなが知らない所がいいんですが。 有名でないけれど地元の人達の自慢の桜というのはないですか」ということでした。 六甲山の県道唐櫃灘線と表六甲ドライブウェイの別れる新六甲大橋のたもとに大きな山桜があります。 六甲山の北側に住んでいる人や南から避難していった人達が朝夕必ず通る道で、 しかもまだ住まいが決まらないけれど六甲山を越えて仕事場に通ったり、 六甲山の北側で仕事をして南側のわが家に帰る人などいろんな思いをいだいて通っていたころでしたので「自慢ということではないですが、 ここの桜を見てほぉーと一息」というのはどうかしらと提案したことがありました。 彼は早速見に行かれたようですが、 車がどんどん走っているし、 桜のすぐ上の六甲堰堤が工事中であんまり感動しなかったようです。 結局この時の桜は残念ながら違う桜の取材になりました。 彼とはブータンや中国に行く約束もしていましたが、 ちょうど県知事の選挙に重なったり(中国へは私達もいまだ行けずにいますが)してそれも適いませんでした。 そして去年転勤で松山に行ってしまいました。 最近NHKの朝のニュース番組で一度、 彼の松山での取材の映像とナレーションを耳にしました。 私達にとってはなつかしい声でした。
NHKはラジオの番組で「ガレキに花を」を最初に取材してくださった橘高邦子さんも忘れられない人です。 彼女は神戸っ子で元気一杯のひとでした。 関西弁で約15分ほどの番組だったと思いますが、 コスモス畑の様子をうまく伝えてくださいました。 スタジオと現地を結ぶやり取りをする手筈でしたが、 しょっぱなに『秋桜』の歌を唄われ(ラジオでいきなり唄われるだけあってさすが上手でした)、 現地の一人舞台でスタジオ登場なしの取材になってしまいました。 事前に下打ち合わせをして、 ご近所の人も交えて話を進めたいとのことでしたが、 このころ近所の住民は居られず、 仕方なく事務所にいる者達と隣の印刷屋さんの親子で役割(これもれっきとしたやらせでしょう)を賄いました。 一人は近所の主婦の役、 一人は近所に住む学生の役ということで橘高さんの質問に答えました。 もう時効ですね。 聴取者の皆様ごめんなさい。 彼女とはそれ以後も交流があります。
一番最近の「ガレキに花を」を取材して下さった四方田さんは、 一宮市からの花苗配布と地域のコミュニティの取材でした。 実はこの取材の日、 角田ナーセーリーネットワークの花苗配布は終わった後でした。 もう終わったというのに彼はご自分で何処からか花苗を買って来られ、 「これを配るところを撮りたい」とおっしゃいます。 「やらせはいやや」と云いますと、 「これはやらせではなく仕込みと云います」と涼しい顔。 思わず笑ってしまいました。
震災前から我が社の前の道(キンモクセイ通りと小林が名付けた道)の街角緑花の師匠ともいえる沈さんを撮ってもらいました。 沈さんと私達ネットワークのメンバーが立ち話をするシーンとか、 茶店きんもくせいのなかで『老松・花と緑の委員会』の設立の会合をしている風景や、 花苗を寿公園の街角花壇に植える様子を撮映されました。 この映像をご覧になった方、 ちょっとやらせですが、 ごめんなさい。
その後四方田さんはNHKを辞められ、 御影に会社を創られましたが、 東灘区の西と灘区の東で緩やかなご近所付き合いが続いています。
まだいろいろありますが、 朝日新聞論説委員の政井孝道さん(当時は東京在籍)は95年1月の終わりごろの夕方遅くに取材に来られましたが、 あいにく小林が不在で中井君と私がしばらくお話しさせていただいたと思います。 わけのわからないころでしたので、 ちゃんと応対できたのかどうかわかりません。 それよりなにより、 私が驚いたのは、 小林が帰ってきてから取材は長時間続きましたが、 大阪から乗って来られたというタクシーがずっと待っていたことでした。 こんなことはこれまで全く知り得ないことでした。 その当時は当然交通手段はなかったのですが、 その後電車が再開してからも、 いろんなマスコミの方が来られましたが、 だいたい大阪からのタクシーがずっと待っているのです。 すぐに帰って記事にされるということでなくても、 そういうことらしいのです。 手持ち無沙汰の運転手さんに夏は冷たいお茶を、 寒い日は暖かいお茶を出したりしました。
たいしたことではありませんが、 一度“フライデー”されたこともありました。 というと何を追っかけられたのかと思われるでしょうが、 追っかけられたのです。 95年12月に長田の鷹取地区に咲いている花をフライデーが取材され、 現地の人に話を聞かれたところ詳しいことは“ガレキババア”に聞けということになったようです。 私は我が社の会計士の高橋さんのところへ経理の相談に行っている時だったのですが、 それは名古屋なのです。 フライデーの人は名古屋まで電話を掛けて来られ、 電話取材になったというわけですが「そんなにせんでもええのに」と思わず苦笑でした。
マスコミの話はもっともっとありますが、 きりがありませんし、 本題とかけ離れてしまいますのでまた別の機会にしたいと思います。