1995年の夏、 私達の事務所の跡地に咲いたコスモスは、 一心不乱に咲くという咲き方をしていました。
ゴロゴロとした地面の石を持ち上げるかのように芽が出て、 それが日に日に大きくなっていく様子を、 毎日大の大人達が喜々として見つめていたあの夏の日を、 わずか4年前のことなのに、 はやなつかしいと思っています。
いろんなことがありました。
前代未聞といわれた阪神・淡路大震災の揺れは、 日本一の住宅地を襲い、 ことごとく美しい暮らしぶりを壊してしまいました。 でも私達はどんなに大変でも、 声をかけ合う心強さや気遣う優しさを学びました。 住宅が建ち、 街が再興され、 気が付くとプレハブだらけの何とも奇妙な家並みに、 かなり違和感はありますが、 それでも何事がなくても百年経てば、 こうなっていたかも知れないのです。 私達が100年生き続けて見定められないだけでしょう。
あんなに美しかった住宅地がすっかり様変わりしたのは残念ではありますが、 それはそれ。 今建ってしまった家々は、 “どうするこうする”ではなく、 私は人の暮らしを優先したいと思いました。 なんともお粗末なまち並みになるか、 いろんな知恵と工夫で美しいまち並みに整えられるかは住民次第です。 専門家が持てる情報を駆使して住民とともに再びみんなが憧れる住宅地を作ることです。 そして百年後に私達の子孫が誇りを持って「我が街」と言える住宅地になればなぁと願っています。
震災直後、 宮脇さんにお願いして我が社の周りの共同建替の相談をしたころ、 私はそれまで考えても見なかった、 人々の暮らしや生きざまにいろんなドラマがありました。
この本のなかに書けなかったことで、 私達を助けてくれたことがまだまだいっぱいあります。
壊れてしまった事務所の建物を大林組神戸支店にお願いして解体撤去していただくことになったのは1月24日でした。
翌25日の夕方大きな解体機(私達はカッタ君と呼んでいた)が来て26日から31日まで約1週間で我が社は広場になりました。 それはすごい作業でした。 少しでも地図や資料(都市計画関係の)を救出したい一心でお願いし、 カッタ君を動かして建物を壊しては止め、 書類を拾い、 また動かして拾うという気の遠くなる作業でした。11
私達を助けてくれた、
書き尽くせぬ心に残っていること
出石町から長いことお借りしたテントのこと
見事(?)に壊れた我が社
私達は延々と書類を運び出しました。 埃の中で耐えたゼロックスはその後3年間を故障もせずに支え続けました
カッタ君は1週間働き通しで、 跡地は広場になりました
まずは広場に出石町のテントを張りました |
我が社とお隣の嘉村さんとの境目の生垣のこと
'86、 開設当初のコー・プラン |
お隣の嘉村さんのおじいちゃんと小林、 生垣の完成時に |
震災前、 西隣とはブロック塀で仕切られ、 南側のお家とは高さ1.5メートル程の板塀でした。 再建時大家さんの難色もありましたが、 ブロックも板塀もやめました。 南側は杭と植栽だけ、 西の嘉村さんとは両方からのダブル生垣です。
再建はお隣の方が早かったのですが、 我が社が出来て植栽をする時(植捨組という造園屋さん)にダブル生垣にしてもらいました。 サザンカ、 レッドロビン、 きんもくせい、 沈丁花の寄せ植えです。 冬からサザンカが咲き、 春には沈丁花が、 秋にきんもくせい、 と花が絶えずに楽しめます。 この生垣がよかったのか、 嘉村さんはその後、 北側の道に沿っても生垣にされました。 この時は神戸市の生垣助成を活用しました。 今この道(きんもくせい通り)は花や緑にあふれ道行く人を和ませています。
この時、 地区は宿泊場所の確保や食事の世話をされましたが、 実は隠れた応援者もありました。 宮脇さんはJALの福島・伊丹間の往復航空運賃を半額にしてもらうのに一役かってくださいました。 もちろん岩田司さんも移動や交替の手配で奔走されました。
3月12日、 その日は雨でした。 春とは名ばかりの肌寒い日でセーターの上に着ているコートも雨を含んで体の芯まで冷えきったような日でしたが、 大工さんを迎えみんなで、 まず修繕してもらうことになっている、 まちづくり協議会副会長松田さんのお家を見学しました。
新築した我が社と嘉村さん宅のそろいのパーゴラ
茶店きんもくせいの南庭、 塀がわりの杭
きんもくせい通りのプランター達
今や、 きんもくせい通りは花の道
一日の仕事を終えて宮本温泉でほっとされる大工さん達
到着された日の歓迎会(上)と終了した時のお礼の会(右)
工事賃金は約束どおりお礼の会で手渡されましたが、 そっくりそのまま義援金としてまちづくり協議会へ寄付されました
松田さんとそのお家。 壁には大きなクラックが入っています |
とりあえずインドネシア義援ベニアで修復中 |
港まち神戸を愛する会による第1回青池映画会の打ち合わせ。 我が社C棟サロンにて |
その後連続映画祭は『連帯せよ!復興市民』というタイトルで神戸市のまちづくり会館2階ホール(ビデオの解像度が極めて悪く、 青池泣かせなのですが)で続けており、 現在13部までできあがりました。 青池さんの予定では15部までいくそうです。 当時は遠大な計画やなぁと思いましたが、 いよいよもうちょっとになりました。
震災で壊れてしまった我が街を嘆くことより、 全国の皆さん、 神戸に来てください、 神戸で食事をしたりホテルや有馬温泉に泊まってくださる事も義援です、 と訴えました。 修学旅行に来てくださいと書きました。 これを読んでくださった東京都立狛江高校の池辺一男先生が熱心に生徒達に話してくださり、 96年2月に修学旅行がかないました。 鷹取地区を見て、 カトリック教会ペーパードームで野田北部まちづくり協議会の浅山会長や鷹取教会のシスター、 是枝さんの話を聞き涙を流す女生徒もありました。
鷹取カトリック教会ペーパードームで狛江高校の生徒さん達に話をされる是枝シスター |
その後の修学旅行は神戸市の観光課が受けてくださるようになり、 「ガレキに花を」と同じく専門家の手に委ねられることになりました。
芦屋シーサイドタウン高浜仮設の星空映画会。 この場所は一棟の仮設住宅が火事で消失した跡地です。 松竹直営プロ隊による本格上映会でした |
芦屋の次の星空映画会は鷹取の広大な空地の予定でしたが、 台風で流れました。 本当は青池さんの「他の映画はいやじゃ」との思いが台風を呼んだとの説もありますが。
その次が、 長田区の菅原市場の駐車場でした。 あの寅さんゆかりの地での映画会でした。 そしてその後随分後になりますが、 98年10月兵庫区の新川運河で第一回世界運河祭の中での星空映画会(この時は寅さんの最後の映画、 『紅の花』でした)が最後です。 これらの3回の星空映画会をやってみてお金もかかりましたが、 「いやぁ映画って本当にいいですねぇ」という感想です。
そして、 震災直後から発行を続けたニューズレター『きんもくせい』や、 きんもくせい以外のまちづくりニュースなども集めた『復興市民まちづくり1〜8巻』をボランティアで出版してくださった学芸出版社の京極さんや前田さんをはじめとする社員の方々へのお礼、 ガレキTシャツなどグッズの販売にご協力くださった全国の方々(札幌の伊藤千織さんはじめ北海道デザイン協議会の皆様、 水谷ゼミ二期生で富山の中川陽子さんやそのお友達、 その後お元気でしょうか)、 数えればきりがなく、 語り尽くせない歯痒さと非礼が残りますが、 私の心の中で、 たくさんの花花が咲き、 その時その時に色を添えてくれました。
私達ネットワークは専門家の集まりですが、 震災直後の連絡も不自由な時から、 誰かが誰かに命令する訳ではなくて、 それぞれ個人が責任をもって市民まちづくり支援をおこなってきました。 ほとんどが建築や都市計画の専門家ですが、 私はその専門家の人達と20年以上一緒に仕事をしてきたというだけの言わば素人―アマチュア―です。
アマチュアという言葉はフランス語です。 日本語では「あることに経験のない、 専門的でない人」とか「職業としてではなくそのことを行う人」(岩波国語辞典より)という意味で少し馬鹿にしたような雰囲気がありますが、 フランス語のもともとの意味は「ある物事を仕事ではなく、 純粋に無償に愛する人」というような意味だそうです。 これは四方田犬彦さん(前に書いた四方田さんの従兄弟)がご自身の本のなかに書いておられます。
「ガレキに花を」の活動は全く手探りで、 何も目標・結論をもたずに始まりました。 大きな声を張り上げる訳ではなく、 黙々と自分の信じた思いを『花』に託して歩き始めたという感じでした。 素人考えのために専門家の方々を驚かせ、 困らせての活動だったと反省もしています。 でもフランス語の意味のままに、 「仕事ではなく純粋に無償で」やってきました。 そしてそれらの一つ一つが今私のかけがえのない宝物となりました。 「まちづくりはおもしろい」とおっしゃる専門家や先輩達のちょっとだけ仲間入りかなと思ったりもしています。
これを読んでくださった人達に何かヒントになることが、 『ガレキに花を咲かせましょう』の中に一つでもあれば、 嬉しく思います。