天川佳美
ガレキに花を
左三角
前に 上三角目次へ 三角印次へ

11

私達を助けてくれた、
書き尽くせぬ心に残っていること

 

改行マーク1995年の夏、 私達の事務所の跡地に咲いたコスモスは、 一心不乱に咲くという咲き方をしていました。

改行マークゴロゴロとした地面の石を持ち上げるかのように芽が出て、 それが日に日に大きくなっていく様子を、 毎日大の大人達が喜々として見つめていたあの夏の日を、 わずか4年前のことなのに、 はやなつかしいと思っています。

改行マークいろんなことがありました。

改行マーク前代未聞といわれた阪神・淡路大震災の揺れは、 日本一の住宅地を襲い、 ことごとく美しい暮らしぶりを壊してしまいました。 でも私達はどんなに大変でも、 声をかけ合う心強さや気遣う優しさを学びました。 住宅が建ち、 街が再興され、 気が付くとプレハブだらけの何とも奇妙な家並みに、 かなり違和感はありますが、 それでも何事がなくても百年経てば、 こうなっていたかも知れないのです。 私達が100年生き続けて見定められないだけでしょう。

改行マークあんなに美しかった住宅地がすっかり様変わりしたのは残念ではありますが、 それはそれ。 今建ってしまった家々は、 “どうするこうする”ではなく、 私は人の暮らしを優先したいと思いました。 なんともお粗末なまち並みになるか、 いろんな知恵と工夫で美しいまち並みに整えられるかは住民次第です。 専門家が持てる情報を駆使して住民とともに再びみんなが憧れる住宅地を作ることです。 そして百年後に私達の子孫が誇りを持って「我が街」と言える住宅地になればなぁと願っています。

改行マーク震災直後、 宮脇さんにお願いして我が社の周りの共同建替の相談をしたころ、 私はそれまで考えても見なかった、 人々の暮らしや生きざまにいろんなドラマがありました。

改行マークこの本のなかに書けなかったことで、 私達を助けてくれたことがまだまだいっぱいあります。


出石町から長いことお借りしたテントのこと

画像h040 画像h041 画像h042 画像h043
見事(?)に壊れた我が社 私達は延々と書類を運び出しました。 埃の中で耐えたゼロックスはその後3年間を故障もせずに支え続けました カッタ君は1週間働き通しで、 跡地は広場になりました
 

改行マーク壊れてしまった事務所の建物を大林組神戸支店にお願いして解体撤去していただくことになったのは1月24日でした。

改行マーク翌25日の夕方大きな解体機(私達はカッタ君と呼んでいた)が来て26日から31日まで約1週間で我が社は広場になりました。 それはすごい作業でした。 少しでも地図や資料(都市計画関係の)を救出したい一心でお願いし、 カッタ君を動かして建物を壊しては止め、 書類を拾い、 また動かして拾うという気の遠くなる作業でした。

画像h044
まずは広場に出石町のテントを張りました
画像h045
改行マークそしてすっかり広場になったところに、 ご近所の荷物を一旦出して、 ご近所の解体が始まることになったのです。 最初は小林のキャンプ用のテントをもって来たり、 例のブルーシートで覆ったりしましたが、 以前から交流のあった出石町の『活かす会』の上坂卓雄さんに電話でお願いをしましたら、 2月11日に会員の方々が揃って大きなテントをもって見舞いがてらとおっしゃって来てくださいました。 『出石町』と『(株)川見建設』の真っ白な二張りのテントはその後長い間地域に貢献しました。 翌年の冬、 そのテントをお返しに出石に出掛けたのは震災後初めての小旅行になりました。 出石町の皆様、 本当にありがとうございました。


我が社とお隣の嘉村さんとの境目の生垣のこと

改行マークコー・プランは1986年設立時に楠丘町の一軒家を事務所としてお借りしました。

画像h046
'86、 開設当初のコー・プラン
画像h047
お隣の嘉村さんのおじいちゃんと小林、 生垣の完成時に
改行マーク私達の先輩でネットワークのメンバーでもあります武田則明さんのご友人が敷地内にRC造の住宅を新築され、 古い木造の方を壊して駐車場にというのを新しい方の設計者の武田さんが「待った!借り手がおるぞ」と、 昭和4年の建物は解体されずに目出度く(?)我が社が借りることとなったのです。 始めは3年ほどという事だったとおもいますが、 駅から不便ではあったのですが、 ご近所の方々が住んでもいない私達を非常に可愛がってくださり、 よく面倒を見てくださいました。 居心地がよく震災の時にはとうとう9年も経っていました。 特に西隣りの嘉村さんのおじいちゃん(もう90歳ですが、 お元気です)はこの地区の元自治会長さんで、 もうお一人西田さん(残念ながら震災前に亡くなられました)という元副会長さんもよくしてくださいました。 我が社の北庭にあったビワが実るころ所員総出で実を取り、 ご近所に配ったりしました。

画像h048 画像h049 画像h050 画像h051
新築した我が社と嘉村さん宅のそろいのパーゴラ 茶店きんもくせいの南庭、 塀がわりの杭 きんもくせい通りのプランター達 今や、 きんもくせい通りは花の道
 

改行マーク震災前、 西隣とはブロック塀で仕切られ、 南側のお家とは高さ1.5メートル程の板塀でした。 再建時大家さんの難色もありましたが、 ブロックも板塀もやめました。 南側は杭と植栽だけ、 西の嘉村さんとは両方からのダブル生垣です。

改行マーク再建はお隣の方が早かったのですが、 我が社が出来て植栽をする時(植捨組という造園屋さん)にダブル生垣にしてもらいました。 サザンカ、 レッドロビン、 きんもくせい、 沈丁花の寄せ植えです。 冬からサザンカが咲き、 春には沈丁花が、 秋にきんもくせい、 と花が絶えずに楽しめます。 この生垣がよかったのか、 嘉村さんはその後、 北側の道に沿っても生垣にされました。 この時は神戸市の生垣助成を活用しました。 今この道(きんもくせい通り)は花や緑にあふれ道行く人を和ませています。

改行マーク2月18日に建設省建築研究所(つくば市)の岩田司さん(神戸市久保町の生まれです)が電話をしてこられました。 「大工さんはいらんか」「大工さんて、 家を建てる大工さんですか」というと、 「3月頃、 被災地で修繕すれば住める家があれば、 大工さんを集めて行きたいと言ってる人があるんやけど」。 それは2月10日ごろに「野田北部で住宅修繕をしてほしい人がたくさんいるが、 大工さんがいない」という森崎輝行さんからのSOSで、 小林が旧知の福島県三春町の佐久間さんに電話したのでした。 それがHOPE計画仲間の岩田さんを通じて返事がきたのでした。 そして2月26日日曜日に三春町住宅研究会の橋本孝一さんと佐久間保一さんが鷹取の現地をまず事前にご覧になって、 本隊は3月12日から19日まで15人くらい(だったと思います)が、 野田北部集会所や、 宮本温泉(鷹取カトリック教会の西側に焼けずに残っていたのですが、 今はありません)というお風呂やさん(建物が壊れていなかったので泊るだけでお風呂はありません。 水も火もなかったころです)に泊まられて、 この地区の住める家の修繕をしてくださいました。

画像h054 画像h055 画像h056
一日の仕事を終えて宮本温泉でほっとされる大工さん達 到着された日の歓迎会(上)と終了した時のお礼の会(右) 工事賃金は約束どおりお礼の会で手渡されましたが、 そっくりそのまま義援金としてまちづくり協議会へ寄付されました
 

改行マークこの時、 地区は宿泊場所の確保や食事の世話をされましたが、 実は隠れた応援者もありました。 宮脇さんはJALの福島・伊丹間の往復航空運賃を半額にしてもらうのに一役かってくださいました。 もちろん岩田司さんも移動や交替の手配で奔走されました。

改行マーク3月12日、 その日は雨でした。 春とは名ばかりの肌寒い日でセーターの上に着ているコートも雨を含んで体の芯まで冷えきったような日でしたが、 大工さんを迎えみんなで、 まず修繕してもらうことになっている、 まちづくり協議会副会長松田さんのお家を見学しました。

画像h052
松田さんとそのお家。 壁には大きなクラックが入っています
画像h053
とりあえずインドネシア義援ベニアで修復中
改行マーク私は「ほんまに直るんかなぁ」と思ったことを今やから白状しますが、 立派に直って現在もちゃんとお住まいです。 その後被災地ではたくさんの家が壊されて新築されましたが、 ほとんどの家は修繕で直ったんやなぁと今は確信しています。 大工さんは偉い!
 

改行マーク青池監督との出会いは野田北部の種蒔きの日でした。 それより前に前述の朝日新聞の大和田建太郎さんから会うようにと言われていましたが、 わざわざ「私が天川です」と言って会うのも変だし、 まぁ縁があればと思っていましたが、 そのうち縁があったどころか、 という関わりになりました。 『人間のまち、 野田北部・鷹取の人びと』の上映会は、 できあがってまず鷹取カトリック教会にて試写会があります。 その次に『港まち神戸を愛する会』が上映会とシンポジウムを開き、 青池さんは全国への上映営業(?)の旅に出られるという寸法です。 記念すべき第1回上映会は95年11月4日土曜日、 なんと!旧居留地の朝日ホールだったのです。

画像h057
港まち神戸を愛する会による第1回青池映画会の打ち合わせ。 我が社C棟サロンにて
改行マーク青池さんの映画と石川栄耀という都市計画家が企画監修した関東大震災の復興計画の映像『20年後の東京』の2本立て。 シンポジウムは早稲田大の佐藤滋さんにも来ていただいて『震災復興、 市民の連帯をめざして』という題でした。 あんなに大きなホールでの会場企画など全く経験がなく、 朝日ホールのスタッフにばかにされながら、 私達の企画力でホールが一杯になるはずはなく手痛い結果となりました。 懲りずに「最後の映画祭は朝日ホールにしようね」といって青池さんに苦笑されていますが(何を隠そう、 無謀3はどこへ行ったのかと思われた方、 これが天川無謀その3なのです)。

改行マークその後連続映画祭は『連帯せよ!復興市民』というタイトルで神戸市のまちづくり会館2階ホール(ビデオの解像度が極めて悪く、 青池泣かせなのですが)で続けており、 現在13部までできあがりました。 青池さんの予定では15部までいくそうです。 当時は遠大な計画やなぁと思いましたが、 いよいよもうちょっとになりました。

改行マーク95年7月17日、 朝日新聞『論壇』に投稿しました。

改行マーク震災で壊れてしまった我が街を嘆くことより、 全国の皆さん、 神戸に来てください、 神戸で食事をしたりホテルや有馬温泉に泊まってくださる事も義援です、 と訴えました。 修学旅行に来てくださいと書きました。 これを読んでくださった東京都立狛江高校の池辺一男先生が熱心に生徒達に話してくださり、 96年2月に修学旅行がかないました。 鷹取地区を見て、 カトリック教会ペーパードームで野田北部まちづくり協議会の浅山会長や鷹取教会のシスター、 是枝さんの話を聞き涙を流す女生徒もありました。

画像h059
鷹取カトリック教会ペーパードームで狛江高校の生徒さん達に話をされる是枝シスター
改行マークその後北野地区へ移動し、 神戸市教育委員会の佐藤さんのご尽力で修復中の異人館を見学したり、 住んでおられる異人館でお茶をいただいたりし、 わずか一時でしたが神戸の現状を見ていただきました。 その後も池辺先生は何度か神戸に来てくださって、 ボランティア活動もしてくださいました。 生徒さん達は青池さんの映画にも登場しましたが、 映画は彼らの卒業に間に合わず、 残念でした。

改行マークその後の修学旅行は神戸市の観光課が受けてくださるようになり、 「ガレキに花を」と同じく専門家の手に委ねられることになりました。


仮設住宅での星空映画会のこと

改行マーク芦屋の南の端に南芦屋浜という埋立地があります。 そこに復興公営住宅ができることになり、 大阪の江川直樹さんとこの住宅の住まい方の仕事を一緒にすることになりました。 『南芦屋浜コミュニティ&アート計画』は埋立地に建設される新しい環境を「自分達のまち」として居住者が積極的に関わっていけるきっかけ作りのワークショップでした。 新しいコミュニティを作るために入居予定者とアーティストや建設スタッフ、 芦屋市立美術博物館、 住宅・都市整備公団をはじめとする事業実施チームすべてが領域を越えた共同作業によって行われました。 いろいろなアートが作られましたが、 人々が住み、 初めてそれは完成するものとして捉えられています。

画像h060
芦屋シーサイドタウン高浜仮設の星空映画会。 この場所は一棟の仮設住宅が火事で消失した跡地です。 松竹直営プロ隊による本格上映会でした
改行マークそのワークショップの2回目(96年6月29日)のオプションとして、 芦屋浜に建ち並んだ仮設住宅の一角にスクリーンを張って星空映画会をやりました。 題目は篠田正浩監督作品『瀬戸内ムーンライトセレナーデ』。 震災のシーンから始まるこの映画は、 同じ運命の船に乗り合わせた人々が、 震災で仮設住宅という船に乗り合わせることになった運命と重なりました。 松竹のご尽力で本格的な映写機の廻る音を間近に聞き、 潮の匂いの中で遥かに見えるやがて自分達が住むことになる工事中の高層住宅のシルエットを見ながら、 大きなスクリーンに一時の癒しをともにしました。

改行マーク芦屋の次の星空映画会は鷹取の広大な空地の予定でしたが、 台風で流れました。 本当は青池さんの「他の映画はいやじゃ」との思いが台風を呼んだとの説もありますが。

改行マークその次が、 長田区の菅原市場の駐車場でした。 あの寅さんゆかりの地での映画会でした。 そしてその後随分後になりますが、 98年10月兵庫区の新川運河で第一回世界運河祭の中での星空映画会(この時は寅さんの最後の映画、 『紅の花』でした)が最後です。 これらの3回の星空映画会をやってみてお金もかかりましたが、 「いやぁ映画って本当にいいですねぇ」という感想です。

 
 そして、 震災直後から発行を続けたニューズレター『きんもくせい』や、 きんもくせい以外のまちづくりニュースなども集めた『復興市民まちづくり1〜8巻』をボランティアで出版してくださった学芸出版社の京極さんや前田さんをはじめとする社員の方々へのお礼、 ガレキTシャツなどグッズの販売にご協力くださった全国の方々(札幌の伊藤千織さんはじめ北海道デザイン協議会の皆様、 水谷ゼミ二期生で富山の中川陽子さんやそのお友達、 その後お元気でしょうか)、 数えればきりがなく、 語り尽くせない歯痒さと非礼が残りますが、 私の心の中で、 たくさんの花花が咲き、 その時その時に色を添えてくれました。

改行マーク私達ネットワークは専門家の集まりですが、 震災直後の連絡も不自由な時から、 誰かが誰かに命令する訳ではなくて、 それぞれ個人が責任をもって市民まちづくり支援をおこなってきました。 ほとんどが建築や都市計画の専門家ですが、 私はその専門家の人達と20年以上一緒に仕事をしてきたというだけの言わば素人―アマチュア―です。

改行マークアマチュアという言葉はフランス語です。 日本語では「あることに経験のない、 専門的でない人」とか「職業としてではなくそのことを行う人」(岩波国語辞典より)という意味で少し馬鹿にしたような雰囲気がありますが、 フランス語のもともとの意味は「ある物事を仕事ではなく、 純粋に無償に愛する人」というような意味だそうです。 これは四方田犬彦さん(前に書いた四方田さんの従兄弟)がご自身の本のなかに書いておられます。

「ガレキに花を」の活動は全く手探りで、 何も目標・結論をもたずに始まりました。 大きな声を張り上げる訳ではなく、 黙々と自分の信じた思いを『花』に託して歩き始めたという感じでした。 素人考えのために専門家の方々を驚かせ、 困らせての活動だったと反省もしています。 でもフランス語の意味のままに、 「仕事ではなく純粋に無償で」やってきました。 そしてそれらの一つ一つが今私のかけがえのない宝物となりました。 「まちづくりはおもしろい」とおっしゃる専門家や先輩達のちょっとだけ仲間入りかなと思ったりもしています。

改行マークこれを読んでくださった人達に何かヒントになることが、 『ガレキに花を咲かせましょう』の中に一つでもあれば、 嬉しく思います。

左三角前に 上三角目次へ 三角印次へ


このページへのご意見は天川佳美

(C) by 天川佳美

阪神大震災復興市民まちづくりへ
学芸出版社ホームページへ