昭和58年頃、 阪神電鉄高架ができるという問題をきっかけにして、 最初は市会議員とか不動産屋がまちづくり協議会を作ろうとしたのですが、 これは実現しませんでした。 深江地区の連合自治会が中心になってようやくまちづくり協議会が結成されたのは、 平成2年のことです。
当時は「庶民的で住みよい町への改善」を基本目標にしていました。 アンケートで住民の意見を集約して、 「第1回深江まちづくり構想」として神戸市に提出したのが平成5年6月です。 その後も研修や調査を続けていたのですが、 平成7年の大震災によって深江は大打撃を受けてしまいました。
深江地区は特に被害が甚大だったところです。 深江という地名が示すように、 昔は入り江で地盤が軟らかったため被害が大きかったようです。 阪神の高架が2〜3百mも横倒しになったのは深江地区だけでした。 地区に住む9千世帯のうち4千230世帯が全半壊、 259名が死亡しました。 2万3千人ほどの人口でしたので、 死者は1%にものぼります。 更地になってしまったのは地区の38%、 27万4千m²です。
震災当日から、 私も燃えてしまった自宅を放って小学校で救援活動に走り回りました。 一方、 2月10日にはまちづくり協議会の役員を集めて、 復興委員会を立ち上げ、 活動を開始しています。
その年(平成7年)の11月には「深江地区まちづくり協定」を神戸市長と締結いたしました。 本来なら2月18日には締結するはずだったのですが、 震災のせいで延期になっていたのです。 震災後のまちづくり協定としては、 一番早い締結となりました。
また、 まちづくり構想も見直しています。 グリーン運動も取り入れた第2回まちづくり構想を平成10年6月に神戸市に提出しました。 このときの基本目標が「緑豊かで安全な町への復興」です。 神戸市と締結したまちづくり協定に沿って審議した集合住宅や工場は、 現在までに117件になります。 現在も審議中のものは何件かあります。
そういった様々な協議会活動を続けていますが、 5年間の大きな成果は、 緑化や花作りをする中で地域のコミュニケーションが良好になったことと言えるでしょう。 近所で同じ種類の花や木を育てることで、 近所同士で教え合ったり競争したりするうちに、 良いコミュニケーションが取れるようになりました。 今後は松並木でつくる和風の道を周囲に作ることを地域の目標にしています。
1 花と緑を通じての
地域コミュニケーション深江地区まちづくり協議会 佐野末夫
震災前からのまちづくり活動
我々の場合、 震災前からまちづくり活動をしていました。
震災後の活動は「緑」に重点を置く
震災以降の協議会の活動は、 主に住宅再建の相談業務でした。 震災の翌年の平成8年になると「まちづくりに緑を取り入れていこう」という声が出て、 早速緑化調査を数回行いました。 最初の具体的な成果としては、 深江駅前の花壇です。 これは神戸市が高架事業に確保していた土地を33m²ほど借りたものです。 これがきっかけとなって、 「深江地区を花と緑の町にしよう」というのがまちづくりのテーマとなりました。 その後は阪神グリーンネットのご協力を得て活動が広がり、 現在に至っています。
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