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震災前は約5百世帯が住んでいました。 震災時には国道2号線の北から火が出て、 町の5分の1が焼けてしまいました。 他の地区では「広い道路は必要ない」と区画整理に反対する声が大きかったようですが、 ちょうど東西を貫く8m道路の所が火止まりになったことから、 ここでは区画整理に理解を示す住民が多かったようです。
私も自宅が焼失していまい、 震災後は住まいを転々とする日々が続いたのですが、 5月に地区全体の協議会が立ち上がりました。 協議会にはその後、 神戸市から年間69万円の助成金が出るようになったのですが、 それまでは大変でした。 避難所の隅で会議をしていると「うるさい。 何をしとるんじゃ」と言われ、 「あんたらのためやんか」と怒鳴りたいのをこらえたり、 情けない思いを致しました。
皆さんの中にも同じ苦労をされた方はいるんじゃないかと思います。 近くの松陰会館も1、 2回はただで貸してくれたものの、 いつまでも甘えるわけにはいかず、 少ない資金からいろいろと出ていきます。
その後、 鷹取東地区協議会に相談に行って参考になることをたくさん教えていただいたのですが、 何よりもうらやましかったのは、 みんなが集まる場所があることでした。 そこで、 公園予定地には「ぜひ、 みんなが集まる場所をつくりたい」と強く希望し、 それを実現した次第です。
兵庫商会の田中さんからフランス製のコンテナハウスを三ついただいて、 公園予定地(琵琶ポケットという名前です)に建てることが出来ました。 それ以降は、 毎週水曜に会合を開くことができて本当に助かりました。
その後、 こうしたコミュニティの場所づくりにも助成金が出るようになり、 後からその資金を出していただくこともできました。 とはいえ我々が本当に必要だった時期には「行政としてはそれには出せない」と言われたのです。
鷹取東地区に続いて、 琵琶町は比較的早くまちづくりが進んだのですが、 こんなふうに気軽に集まってまちづくりを話せる場所があることは本当に重要だと感じています。
5年目の検証ということで振り返ると、 行政の方もそれまで前例がないことだらけだったので、 我々と一緒に走りながら考えたことがずいぶんあったと思います。 きっちりと検証するのなら、 都市計画局の係長クラスの人の話をちゃんと聞いてあげてほしいと思っています。 もしも東京で震災が起こったりすると、 行政の人たちが走り回ることになるんですから。 住民の怒号を浴びながら、 震災の現場を走り回っていた行政マンの話をもっとしっかり聞くべきです。
私自身の5年を振り返ると、 やはりコミュニティの場があるかどうかがまちづくりの決め手だと思っています。2 区画整理を乗り越え、
今後のまちづくりを考える琵琶町復興住民協議会 池田寔彦
集まって話せる場所づくりが
私たちの地区はJR六甲道駅南で行われている再開発地区の西側に隣接したところです。 行政は「六甲道駅西地区」と呼んでいます。 震災当初は行政は都市計画の網がけをしたJR六甲道駅北側と合わせて一つの地区と見ていたようですが、 JRを隔てているせいか、 この西地区だけで一つの地区として区画整理の対象になりました。 地区全体は約3.6haです。
最初のポイント
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| 六甲道駅西地区(琵琶町)の様子(1999年6月11日現在) |
ところで、 まちづくりが進むにつれて「最初の頃の理想はどこへ行ったのだろう」と思うことが出てきました。 広い道路や公園を造ろうと話し合っていたときは、 どんな木を植えればいいかと芦屋市など他の地区を見に行き夢を広げていたのです。 ところがいざ現実になろうとしている今、 「落ち葉が家の中に入るのが嫌だから、 私の家の前には植えないで」という声が続々と出てきています。 今頃そんなことを言うのかと思うのですが、 まちづくり活動では住民の声を聞かないのが一番マズイということが分かっているので、 どんどん言ってもらって話し合いをしています。 そういう話し合いをしていると、 老人会が「じゃあ私たちが落ち葉の掃除をしましょう」と言ってくれたりするなど、 いいコミュニティになってきているなと感じています。