阪神大震災復興市民まちづくり支援ネットワーク
左三角
前に 上三角目次へ 三角印次へ

3 新しいまちづくりと
舟券売場騒動

新開地周辺地区まちづくり協議会 青木 寛

地区の衰退

 私たちのまちづくりは深江地区と同様、 震災前から行われていました。 準備が始まったのは昭和58年です。 その頃、 新開地の衰退が激しく、 どうしようかということからまちづくりに取り組んだわけです。

 もともと新開地は神戸港の改築のため、 明治20年代に湊川を埋めたてて出来たまちです。 湊川公園も明治40年代には出来ています。 このあたり一帯は政治運動が盛んなところで、 職工などの労働者も多く、 どちらかというと庶民のまちでした。 映画館や芝居小屋がたくさん建てられ、 兵庫の文化の中心地として発展してきました。 芝居小屋が33軒も軒を連ね、 ここで育った映画評論家の淀川長治さんは芝居小屋を遊び場にしていたそうです。 新開地で商売さえしていれば食いはぐれはしないと奢る気持ちもありました。

 そのうち、 時代の移り変わりにつれて繁華街があちこちに出来るようになりました。 しかし、 新開地の人間は何も手を打つことをしなかったのです。 時代の流れに完全に取り残され、 芝居小屋はなくなり空き店舗がどんどん増えました。 そうなってようやく商店街の人間が「このままではイカン。 まちを考えねば」と立ち上がりました。 それが昭和58年です。

 神戸市の協力を得てまちづくり協議会を設立したのが昭和59年、 昭和60年は新開地まちづくり構想を神戸市に提出しています。


モール化

 新開地が衰退した理由の一つに、 若者をターゲットにしたまちづくりをしてこなかったことが挙げられます。 新開地の本通りには未だに婦人服の店が1軒もないという有様です。 ですから、 いろんな世代が来てくれて、 少しでもまちでの滞在時間が長くなるような発想をまちづくり構想に入れたかったのです。 「遊べるまち」という感覚で考えました。 「遊べるまち」と言っても、 まず遊びに来たくなるような町にすることが肝心です。

 その頃の商店街は、 空き店舗が多く暗い雰囲気でした。 古びたアーケードがよけい商店街を暗くしていたのですが、 その維持費さえ出ない状況です。 もちろん建て直す費用はどこも出せないと言います。 だったらもうアーケードは取り払ってモール化してしまおうと、 まちづくり構想で提案しました。 これは、 横浜の馬車道がヒントになっています。 アーケードで店のファサードを壊してしまうより、 見せてしまった方がいいと考えたのです。

 このモールは公園道路という感覚で、 車を通さない道路として提案したのですが、 商店街から「何もない公園道路にするよりは、 植木があったり車道との境界線に御影石を置いて欲しい」という声が上がり、 そのうち「車と共存するモールがいい」という結論になってしまいました。 このあたりで公園道路というテーマからずれていき、 車の時間制限をしたにもかかわらず、 今ではお構いなしに車が入ってくる道路になっています。 死亡事故も1件ありました。 私はこれはまちづくりにおける一つの通過点だと考えています。

 この時は山手幹線から南側全部をモール化しようと提案していたのですが、 四つある商店街組合はそれぞれの事情が違い、 結局全部のモール化はできませんでした。 反対した商店街の言い分は「モール化して車を通したら、 きっと車が渋滞してしまう。 うるさいからやめて欲しい」ということでした。 ですから、 モール化は4丁目から6丁目までです。 平成2年に完成しました。 しかし、 モール化しなかった商店街は、 後で述べる「アートゲート」という新しいまちづくりに取り組むことになるのですから、 全体をモール化しなかったのは良かったのかもしれません。


その他の取り組み

 モール化した後の大きな取り組みとしては、 神戸市の協力をいただいて作った「建築デザイン誘導制度」があります。 街の顔となる大きなビルは個人の財産というより街の財産と言えるものですから、 デザインをみんなで考えていこうと建築デザイン委員会を作りました。 強制力のない紳士協定ですが、 新開地商店街に面した延べ床面積が500m²を超える建物については、 施主さんや建築業者の方々と話し合いをしています。 地域内でまちづくりの一環としてすすめてきたコーポラティブ住宅の建設時などに力を発揮しました。

 また、 商店街自身のCI(コーポレート・アイデンティティ)も他地区に先駆けて行いました。 しかし、 商店街の人には分かりづらかったようで、 せっかく350万円もかけてマークを作ったのに、 名刺に使うぐらいであまり役に立っていないのが現状です。 まちづくりを進めすぎてもだめなんだと思います。


アートビレッジ構想と舟券売場騒動

 そのほかのまちづくり協議会の提案としては、 アートビレッジ構想があります。 まちづくりはその町の歴史や文化を無視しては出来ないものです。 何を残し何を伝えるのかを考えたら、 文化や芸術をまちづくりに取り入れていく必要が見えてきます。 その思いがアートビレッジ構想になり、 若いアーティストに新開地の場所を提供して発表の場にしてもらったり住んでもらうおうということになりました。

 「何で新開地に芸術やねん。 漫才や落語の方がええ」という反応がほとんどでしたが(実は私もその一人でした)、 構想実現の手始めとして、 小さい場所を神戸市が買い取りそこにアートビレッジセンターが出来ました。 地下1階地上4階の建物で、 43億か45億円かかっており、 センターの上には分譲住宅が出来ています。

 そのセンターで行われる催しは音楽、 演劇、 美術、 映画と実に多彩です。 特に神戸には演劇を行う場所が意外と少ないものですから、 新開地というより阪神間の演劇をサポートする場として作りました。 これは淀川長治さんが新開地で講演をされた時に「これからのまちづくりには文化がいります。 だから百人が入れる小さなホールを町が持つべきです」と力説されたのが頭に残っていたからでもあります。 実際は200人は入れる立派なホールが平成7年4月に出来ました。

 ところがアートビレッジの運動を進めている最中に、 町を二分した場外舟券売場「ボートピア」の問題が発生したのです。 神戸市も我々も共同再開発をしてもらいたいと思っていた場所で、 どうしても1カ所だけ持ちこたえられない所が出てきて、 いつの間にか場外舟券売場「ボートピア」を作ろうという発想になってしまったのです。 それが平成5年のことです。

 それで「ボートかアートか」とまちづくりがごちゃごちゃになってしまったのです。 まちづくり協議会の先代の会長は「まちにそんな賭博施設を持ってきてどうするつもりか」とかんかんに怒って大反対したのです。 しかし周辺自治会のみなさんが賛成してしまったのです。 普通は商店街が誘致して周辺が反対するのですが、 ここでは逆のことが起こりました。 その理由は、 ボート施設をつくる代わりに、 周辺自治会が欲しがっていたコミュニティ施設をつくってあげましょうと持ちかけられたからなんです。 大きなカステラを目の前にぶら下げられたというわけです。

 特に湊町のみなさんは低所得の方が多く、 亡くなっても葬式も出せない、 場所もないという切ない思いをしておられましたので、 まちづくり協議会としても何とかしたいと思っていました。 しかし先手を打たれて、 「ここまで新開地が落ち込んでいるのに舟券売場が来るくらいなんだ。 自治会館を作ってくれるんだから、 なんぼかましや」という論調になっていったのです。

 その時はボートピア賛成か反対かで町がまっぷたつに分かれ、 それこそ市民投票をしようというところまでいったのですが、 神戸市が「市民投票なんてとんでもない」と反対し、 この問題は新開地の中で収めようということになりました。

 結局は、 20年の歴史を持つ商店街連合会が解散し、 ボートピア推進の会と絶対反対の会ができました。 どちらも署名運動をやりましたが、 こういう小さな町ではどこがどこに属しているかはすぐに分かりました。

 こういう動きを見ているうち、 会長がリーダーシップを執るという従来のやり方ではなく、 副会長の合議制で行うようにまちづくりの体制を変えなければならないのではないか、 と私は思うようになりました。 そこで、 その時までのまちづくり協議会の会長を更迭する結果になりました。 任期があと1カ月という時の総会で、 神戸市から助役もきていただき懇親会も用意していたのに、 助役さんを何時間も待たせてやり合ったあげく、 会長は泣きながら帰っていったということになったのです。

 同席していたコンサルタントの方からは「こんなぶさいくなことをして」と言われましたが、 今までのまちづくりの組織のあり方がおかしかったのだということを話し合って、 会則も変え、 副会長合議制という体制になりました。 だから私の肩書きは会長となっていますが、 副会長たちが選んだというだけで何の決定権もありません。

 ボートピア問題に戻りますが、 これは町に大型パチンコ店が出来るようなものです。 商店街が潤うことはなく、 人びとは通り過ぎるだけでしょう。 それならば、 ボートピアが神戸市に納めるお金をこちらに回してもらおうという話になりました。 船舶振興会が売り上げの3.3%を取り、 自治体が1.3〜1.5%を取るそうですから、 それをこの町のために使おうということです。

 そこでボートピアが新開地に来たいのなら、 アートの問題に取り組め、 ボートピアのファサードはデザイン委員会のもとでやり直し、 新開地活性化のために年間1千400万円を出せと、 いろんな要望を出しました。 もちろん自治会館も作るから4億円出せとも言っています。 こんな言い方してると、 まるでヤクザの親分ですね。

 とにかく、 これらのことをこれからのまちづくりの推進につなげていこうという発想だったのです。 こういう方向でボートピア問題は、 新開地で全部預かることになり、 賛成・反対双方に矛を収めてもらいました。 これが現在のまちづくり協議会やまちづくり推進機構につながり、 それが発展して昨年はNPOができました。


震災後

 肝心の震災復興の話をする時間がなくなりましたが、 当時はボートピア問題で揺れている最中でもあり、 まちづくりに関する市民の関心は高く、 震災後もすぐに連絡が行き渡り、 まちづくりの方向を考えられました。 2月15日にはまちづくり案も決まっています。 建物診断や被害調査も早く、 神戸市の中でも町のまとまりが強かった地域です。 忌まわしい震災を乗り越えられたのには、 皮肉にもボートピア問題が幸いしたと考えています。

 ただアーケード街の再建ですが、 30年以上建っているものですから倒れそうで危ないんです。 しかし、 すでに神戸市と国からモール化のお話があったときに「やらない」とお金を返している以上、 建て替えることが出来ない状況でした。 ですから「アーケードではありません。 似てるけどアートゲートですよ」ということにしました。 そのため、 デザインを重視したものを京都大学の竹山聖先生にお願いして設計してもらい、 強引に作りました。 神戸市さんなど関係各位にはご迷惑をおかけしましたが、 後の祭りですのでそこのところはよろしくお願いいたします。

左三角前に 上三角目次へ 三角印次へ


このページへのご意見は阪神大震災復興市民まちづくり支援ネットワーク

(C) by 阪神大震災復興市民まちづくり支援ネットワーク

阪神大震災復興市民まちづくりへ
学芸出版社ホームページへ