司会(辻):
これまでまちづくり協議会の活動と今後についてうかがったわけですが、 ここで神戸市のアーバンデザイン室の中山さんに、 これまでのまちづくり協議会の活動に対する評価や、 これからの役割、 展開についてお聞きしたいと思います。
私はまちづくり協議会のお世話をしている立場からコメントさせていただきます。
今、 神戸市にはまちづくり協議会が100ございます。 そのうち27が震災前から活動しており、 73が震災後にできた協議会です。 また、 先ほどの行政が主導する震災復興事業に関わった協議会は73のうち55で、 震災復興をやりとげるためにこの協議会が話し合いの場として大きな役割を果たしています。
先ほど認定のお話がでましたが、 現在100のうち65団体をまちづくり条例における認定団体とさせていただきました。 実は震災後、 震災以前と同じ12団体のままずっときたのですが、 やはり条例でうたっている以上、 きちんと認定したほうが良いということで、 昨年一挙に認定させていただきました。
そもそもまちづくり協議会は、 都市改造のための区画整理をするときに、 行政が網をかけて区画整理審議会で全てを決めることに反対があり、 住民の方に事業に参加していただこうということで始まったものです。 例えば板宿では72年、 東灘の山手地区では75年にできています。 このときの協議会は今回の復興事業とほとんど同じ形でしたが、 事業のために行政から権利者あるいは住民の方に情報をお知らせし、 まちづくりの進めかたをご相談するということが目的でした。
それが条例に位置づけられたのが81年のまちづくり条例です。 これは地区計画のための条例として全国に先んじて作ったのですが、 神戸市にはすでにそのような活動をしている協議会がありましたので、 それを認定し、 まちづくり提案を出していただき、 まちづくり協定なりを結んでいこうと考え、 その手続きを盛込んだわけです。 ですから、 どちらかというとハード系よりもルール系を重視した条例です。
それらの協議会がどうやってきたかは、 それぞれの地区でまったく違います。 同じコンサルタントが入った地区は、 似たような方針で進んでいる場合もありますが、 そういう場合は例外的だと思います。
5年たって振り返ると、 この協議会の力が非常に大きかったと痛感します。 協議会が立ち上がらなかったら、 ここまで事業は進捗しなかったと思います。
協議会を支えるために最高で年間100万円の助成金を出していますが、 これは協議会に自由に使っていただいています。 これはそういう仕組みがまちづくり条例ができる以前からすでにあり、 条例の中にも盛りこまれたものです。
神戸市から協議会を作ってほしいと地元に働きかけたのは事実ですが、 先ほど鷹取東のお話にもありましたように、 その後の活動は、 自らがコンサルとなられるほど地元主導になったところもありました。 本当に朝から晩まで会議を何百回とされたというぐらいエネルギーがあり、 その中で協議会が実質化されたわけです。 今その協議会方式が評価され、 全国レベルの法律の中でもそういう制度が認められています。 国も活動に対して助成金、 補助金をつけようというところにまで変わっています。
話をしているうちに、 英語ではそれはミーティングだなということになりました。 つまり、 「協議」する「会」であり、 「協」のための「議会」ではないということです。
日本は、 後にしこりを残さないことを大事にします。 アメリカはともかく議論をやって、 最後にはとにかく決をとる。 自分の思いを全てぶちまけて、 それで決まればしようがないという考え方です。
日本はそこまで話ができないという面もあるのですが、 今日のお話でもありましたように、 来られない方に何度も電話したり、 いろんなチラシをつくったりして、 積極的な賛成ではないとしても、 反対がないという状態を目指します。 海外のように言いたいことをいって、 最後は51%をとれば勝ちということではなく、 消極的かもしれませんが、 反対という声をできるだけ抑えていく、 そういう仕組みがミーティングと訳すことで理解され、 評価されたと思います。
こうしなさいということは我々は言っておりません。 また、 お金の切れ目が縁の切れ目という話もございましたが、 財政も厳しく全ての地域に助成金がいくとは考えておりません。 ただこれからは、 例えばNPOについては、 助成ではなく正式に委託をしたいと考えています。 本来行政がやることをやっていただくということであれば、 方向が見えてくるのではないかと思います。
最後になりますが、 2001年は、 まちづくり条例ができてちょうど20年になります。 その間、 震災があり世の中がだいぶ変わってまいりましたが、 20年前に制度化された協議会という考え方は将来を見越していたのではないかと思います。 大多数でものを決めるということは当時としては非常にユニークな発想だったと思いますし、 基本的な意志決定の仕組みとしては、 非常にうまい仕組みだと思っています。
今度都市計画法が改正され、 地区計画については地域からの要請を受けて決めることができるようになります。 実はこれは我々が言っているまちづくり提案+まちづくり協定とほとんど同じ考え方です。 この20年で法律が条例に追い付いてきたわけですから、 我々も条例をどのようにしていくかを問われていくと思います。 かつて先見の明があったように、 どうやってこれから先の10年、 20年に取り組んでいくのかということです。
司会(辻):
ありがとうございました。 中山さんからは、 震災後のまちづくり協議会のつくりかたは、 ずっと前の区画整理にルーツがあるということ。 それから、 協議会の意志決定、 合意形成の方法として、 大多数の消極的な賛成を重視するところが日本的なやり方だとの指摘がありました。
今後のまちづくり協議会は、 地域の実情に応じていろんな形になっていきそうだとのお話しでしたが、 それは今日ここに来られている5地区のみなさんの将来ビジョンがそれぞれ全く違うことからも明らかだと思います。
それではもう少し時間がございますので、 会場からご意見とかご質問とかございましたら伺いたいと思います。
2 まちづくり協議会の
今後の展開(神戸市から)
まちづくり協議会の歴史
中山:
震災復興で果たした役割
今回の大震災では、 都市計画決定を行政からかけたわけですが、 それだけではまちづくりが進まないことは認識しておりました。 ですから行政のほうが現地に行って相談を受けるための現地相談所、 そして専門家の派遣、 まちづくり協議会と、 いわゆる3点セットで進めたわけです。 その中で先ほど申し上げた55の協議会が立ち上がりました。
協議会とは何か
まちづくり協議会というと、 よく誤解されることがあります。 たとえば震災の研究に来られた海外の方に英語でどう言ったら良いのかが分かりませんでした。 最初はカウンシルと訳していたのですが、 カウンシルは議会といった意味で、 どうしてもニュアンスが伝わりません。 つまりカウンシルというと海外の方、 特にアメリカの方はすぐに「過半数で決定するのか」と聞かれます。 いやそうではなく、 条例上では大多数という形で了解されることを求めているんだ、 過半数でも形式上は進むかもしれないが、 後で必ず軋轢が生じるので何度も何度も話し合ってやっていくということを説明しますが、 理解されないのです。 そういうのはおかしいんじゃないかと。 アメリカの民主主義のルールからいくと、 ちゃんとプロセスを踏んでいればそこまでしなくてもいいんじゃないかということで、 ギャップがありました。
協議会の今後
この100の協議会がこれから全て続いていくとは我々も考えておりません。 震災前には、 だいたい1年に二つずつできていましたから、 条例ができて20年になる来年には、 40ぐらいであるはずでした。 また今は、 事業が終わったらどうするかを、 協議会の方で模索されていると思います。 自治会に移行するのか、 あるいはまちづくり会社に移行するのか、 NPOという形もありえますし、 コミュニティビジネスのような形に移行することもありえます。 もちろんそのまま、 まちづくり協議会として残っていくこともあるでしょう。 これからこの五つぐらいの選択肢の中で動いていかれるのではないかと思います。
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