阪神大震災復興市民まちづくり支援ネットワーク
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3 市民まちづくりの現場

野崎

 論点がいくつか見えてきました。

 ひらがなの「まちづくり」がかなり定着してきた、 そのリアリティを現場で感じたというお話がありましたが、 ここで、 もう少し現場に即した市民まちづくりの状況を聞かせていただこうと思います。


やっかいごとの共有

まちづくりの決め手は「やっかいごと」

山口

 今回の復興まちづくりは、 地震というものすごく大きな「やっかいごと」をみんなで抱えた事から始まりました。 それが復興が進んで、 とりあえず地震という「やっかいごと」が消えかけたとき、 これから何を契機にしてまちづくりを進めていくのかと言いますと、 それはやはり「やっかいごと」だと思っています。

 松本地区では区画整理で道路が広がりますが、 そこに鈴蘭台の下水処理場から高度処理水を引っ張ってきて「せせらぎを流す」という話になっています。 当初は「せせらぎなんか流したら、 ゴミ捨て場になるは、 汚れるは、 そんなやっかいなもんはいらん」と言われていたのです。 それに対してまちづくり協議会会長の中島さんは「せせらぎはコミュニティのバロメーターや。 せせらぎが汚れているということは、 住民がきちっとしていないからや。 せせらぎがきちっと流れているようなまちづくりをみんなでしていこう」と提案をされました。 つまりやっかいものの「せせらぎ」を逆にまちづくりの軸にしていくことになったのです。

 それから、 さらに街路樹を植えようという話になりました。 樹種は何にするかと聞くと、 まず落ち葉の話が出てきます。 「常緑でなきゃあかん。 落ち葉なんか誰が掃除するんや」と。

 松本地区では今後、 協議会から自治会に活動をバトンタッチするんですが、 その自治会の活動として「オール松本」で落ち葉に取り組んでいこうという事で、 その結果ケヤキという落ち葉の多い樹を選びました。

 余談ですが、 部会で樹の勉強をした際に属性別に樹種を尋ねたときには「常緑で花や実がなり、 あんまり大きくならない樹がいい」という話だったのに、 具体的に樹のリストを渡したら、 一番人気がケヤキでした。 全然違う結果です。

 とにかく、 ケヤキもせせらぎも、 これからのまちにとっては確実に「やっかいもの」になると思います。

重荷みたいなムーネ

 まちづくりと言われますが、 僕の感覚では「まち」というより「コミュニティ」という言葉です。

 僕らが学生の頃はコミュニティ論が流行っていたのですが、 いつのまにかひらがなの「まち」になってしまいました。 でも「コミュニティ」は、 日本語に直らないからそのまま英語で使っていたと思います。 フランス語で「コミューン(Commune)」、 イタリア語では「コムーネ(Comune)」です。

 この「ムーネ」というのは、 実は「役割、 負担、 責任、 重荷」というような意味です。 まさに「世話」というか「重荷を一緒に担う」という所からコミュニティが生まれているのです。 そういうことになると、 まちづくりの単位については、 地域をあまり限定してとらえる必要はないと思います。 重荷を一緒に担えるなら、 いろんな所でいろんな形のコミュニティがあっていい。 むしろ、 重荷みたいな「ムーネ」をいっぱいつくってやろうと思っています。

ムーネを壊した私

 実は私には学生時代の心に残る体験があります。 伊丹の3階建のアパートで1人暮しをしていたのですが、 中年夫婦とか子供のある若夫婦が12軒住んでいました。

 そこでは大家さんに週1回交代で玄関の掃除をさせられていました。 家賃+清掃費として千円払っているのにおかしいと、 奥さん連中が文句を言い始めたのです。 で、 独り者の私の部屋で決起集会を開き「清掃費をなくすか、 当番をなくすか」という文書を作成し、 「あんた男やから」ということで、 私が持って行きました。 その結果、 当番制の掃除は無くなりました。

 ところが、 掃除をしていた間は12軒がだいたい顔を知っていて、 駅で会うと会釈したり時候の挨拶くらいはしていたのですが、 そのうち言葉をかけなくなりました。 会釈もしなくなり、 賃貸なので人の入れ替わりも多く誰が住んでるか分からなってしまいました。 そうなったら「隣は何をする人ぞ」です。

 だから、 掃除の件は、 実は大家さんが12世帯を顔見知りにするためにしてくれたことだったのかと。 それを私が先頭を切って壊しに行った。 コムーネのムーネを無くしに行ったわけです。 そんな人間がまちづくりとは、 何をしてんのやと。

 ですからその反動として、 これからムーネをいっぱい作ってやろうと、 考えているわけです。


まちづくりの単位ときっかけ

小野

 まちづくりの単位、 あるいはきっかけを考えると、 私の場合はそこに住んでる人間が自らの疑問とかエネルギーを反映できる状況があれば、 そこから始まるという感覚です。 「重荷」があって「こんちくしょう」と思った時に、 それを共有できる人間がいることが単位であってもいいんじゃないか。 それが一つのマンションでもいいし、 路地でもいい。 コミュニティは重層的であっていいし、 そこから波及するものがあるんじゃないかと思います。

 それから、 きっかけとしては第三者も重要だと思っています。

 僕の場合は、 御蔵という地域で動き回って、 はじめは「なんやねん」という受け止められかたでしたが、 今では「小野ちゃん、 まあ飲めや」という事になっています。 要するに余所者が動きまわっていて、 地域のコミュニティがその余所者を受け入れ、 そこを窓口にしながら、 情報を収集したり発信したりしていく事が、 まちづくりの出発点になってもいいんじゃないかと思います。

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