すいません、 ちょっと噛み付くような発言をさせてもらいます。
僕は、 プランナーがまちづくりを支援していく中で本当に良いものは何かということは、 やっぱり自分で判断しなくてはいけないと思います。
僕だったら先程の松本地区のせせらぎは絶対やりません。 「住民が負荷を受けること、 それがまちづくりの軸だ」などというのは理屈だけの話であって、 「地域住民」という集団は実際はそれほど信用できないと思うんです。 もう少し地域住民とは何なのかを見極めた上で、 自身で判断するべきではないでしょうか。
それから僕は、 コレクティブハウスみたいに他人が集まって住むということ自体、 「これは将来に残るもんや」とは思えません。 むしろ人間の本質を外れている、 と思っているくらいです。
越澤先生は5年でまとめなさいと言われたましたが、 まとめるときにあんまり下手なまとめ方をしない方がいいと思いました。
山口:
「やっかいごと」の件は、 正直言って僕もすごく不安なんです。 しかしそこはまあ、 とことん「やっかいもの」を世話するしかないと思います。 それによって空間が良くなるとか人の繋がりができるとか、 そういう事がないと駄目なわけで、 結局「やっかいもの」が「やっかいもの」のままで終わったら、 それはやっぱり失敗だから、 壊しても仕方が無いと思います。
コレクティブがどこかに伝播して行くことについてですが、 神戸の中ならまあ何とか良い結果は出るだろうと思います。 しかし、 例えば「親水」と言ったら日本全国の川が金太郎飴みたいに同じ具合に変わるといったように、 日本全国にコレクティブが出来ていったら、 それは許せないかもしれません。
神戸は神戸なりに考えて、 いろんな運動を引っ付けてコレクティブをやってきたわけで、 単に流行を作り出そうなんていう思いでやっているわけじゃないんで、 その辺は誤解のないようにお願いします。
石東:
後藤さんとの見解の相違ですけど、 私はコレクティブ的な生活は人間の本質に合っていると思います。 それより後藤さん自身がコレクティブをどう捉えているか、 ということが問題なんです。
私はさっき言ったみたいに「平成の長屋」と思っています。 いつもいつも共同で何かをしようって話じゃなくて、 集まりたいなと思っても1DKとか2DKの住宅だけだったら集まれるスペースがないから、 それを作っておこう。 で、 その後のやり方は皆が住みながら考えていったら良いけど、 初めての器を与えられたのだから、 その器に沿うような住まい方が見えてくるように居住サポートをちょっとしているということです。 後は居住者が年月と共にその使い方を変えて行ったらいいと思っています。 ともかく、 私は日本の人間の本質に合ってる住まい方やと思っています。
今回できたもので一番分かりやすいのはコモンスペースというか、 そう言うのもおこがましいような小さなスペースではないでしょうか。 コレクティブで言えば協同室です。 小野さんならプラザ5(ファイブ)、 私が所属しているコー・プランで言えば茶店「きんもくせい」、 後藤さんだって「好文園コミュニティホール」があり、 野崎さんの「ココライフ」もそうです。
住宅とか道路とかまち協とかは、 しないといけない事だから出来たけわけですが、 それと同様にこれらのスペースも、 支援があろうとなかろうと、 とにかく「いるから出来た」のだと思います。 続かなかったらやめれば良いし、 売っぱらえばいいし、 茶店「きんもくせい」は大家さんに返せばいい。 そんなことは気にしなくて良いのです。
ですが、 そういう小さなスペースがどうして要るのかというと、 後藤さんとは見解が違って石東さんに組みするわけですが、 「一緒にいる」わけですね。 マンションにしろ集合住宅にしろ、 密集市街地にしろ、 一緒にいるわけですから、 いる以上はしょうがないと思うんですよ。
中には「一緒にいたい」わけではない人もいるかもしれませんが、 お金が無いからとか、 それぞれ事情があってのことで、 一緒にいる以上はしょうがないわけです。 戸建じゃないんだから。 戸建でも西部劇のように広野の真っ只中に住んでいて全部自活できているんだったらともかく、 密集市街地では隣近所がおるわけです。 ゴミ問題はどうするとか、 一緒に何とかするという話にならざるを得ないわけで、 そういった共同で解決する部分は生活の形態としてあるわけです。 だからそれに対する技術も施設もいるし、 お互いの我慢も必要です。 そういう意味では「ムーネ」の一つだと言えます。 だから南芦屋浜の段々畑もコレクティブの協同室もあるのではないでしょうか。
今回の震災復興で出来なかったことは厳然としてあるんです。 それは何かと言うと、 災害公営住宅の質が20年前に下がったということです。 「平成の長屋」なんて言葉で遊んでいるだけであって、 今回の1DKも2DKも昭和前期の水準に戻っているんです。
公営住宅の中身も基準が皆決まっています。 東部新都心の外見がいくらかカッコ良いのは、 現実的に言うと中が単純だからです。
だから、 なぜ共同のスペースがいるかというと、 住宅の中身があまりにも貧困だからなんです。 今回の震災で歴史的に残すものと言って、 同潤会アパートに匹敵するものとしてコレクティブを出すから余計おかしくなるんです。
今回の震災復興では、 20年前に遡って何で今ごろこんなもの作るのか、 21世紀に向けてなんで新しい公営住宅を皆で考えてつくらないのかと言ったら、 そんなもんは金も時間もあらへん、 とにかく20年前に戻ってやろうということで公営住宅を何万戸も作ったわけです。
そういう意味では、 コレクティブの話を僕が嫌がってるのは、 「コレクティブ」という言葉にごまかされて、 本当の公営住宅のあり方を見失っているようなところがあると思うからです。
6 まちづくりの多様性
理屈が先行していないか
後藤(GU計画研究所):
コレクティブを擁護する
宮西(神戸・地域問題研究所):
出来てきたものはコモン
小林(コー・プラン):
コモンづくりは
後藤:
復興の貧しさを隠しているだけ
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