我々の議論が都市計画、 建築、 土木から出発しますと、 どうしても設計とかに興味がいって、 肝心の居住者の社会的な調査は意外とおろそかなんです。
県や市は知っていて公表しなかったのかもしれませんが、 例えば先行買収で区画整理に応じた方々がどこに行ったのかとか、 比較的裕福な人が出ていったのだろうかとか、 どんな家賃の場合しか住めないのかといった情報が一切分からなかったわけです。 ごく素朴な社会調査なしで、 皆が復興の議論をしていたような気がします。 実は本当はそういったことが分かればだいたいの事が読めるんじゃないかと思うんです。
例えば、 もし低家賃でないと住めないという場合は、 その方の平均寿命相当間だけ社会福祉的施策でやるといった対処が考えられたわけです。 つまり、 都市計画やまちづくりで全ての問題を背負うのは無理なのに、 福祉的な施策との境界がどうもあいまいで、 むしろすぐに公営住宅の量的問題などが課題にされていたような気がします。 そのあたりが当時、 外から見ていてもどかしい感じがしました。
そうは思いますが、 行政がデータを出さないだろうし、 本当はこれだけまちづくり協議会が出来ていて、 なぜそういう社会調査がまち協なりで出来なかったのか、 という話もあるのです。
少なくとも真野地区は、 しつこく追いかけております。
小野君にも言いたいんだけども、 人が戻らないのには、 やはり地域がそいういうパワーを持っていなかったという事情もあるんです。 本当は地域にしかできないんです。 しかしそこまで地域が力を持ち得なかった、 だから人間を逃がしてしまったという部分もあると思います。
山口:
一般に市街地の区画整理では人口の3割が減ると言われています。 尼崎の築地の場合は改良住宅などを建て、 ある程度元の所に残れる仕組みにしたのですが、 それでもかなり多くの方が先行買収、 あるいは事業用地の買収で出ていかれたんです。 誰が出ていったか調べてみると、 誰の土地を買ったという記録しかなくて、 そこにどんな人が住んでいたかは記録としてほとんど残っていませんでした。
僕はずっと築地のまちづくりをやってて、 誰が出ていったか、 あるいは残ったのはどういう人かということに興味があります。 かなりの人が震災事業を契機として出ていってしまったわけですが、 それは概して若い人で、 築地から出ていきたい人が潜在的にかなりいたんだということが分かりました。
一方、 まちづくりは残った人を対象にやっていくのですから、 どういう人がどのくらい残ったのかをデータとしてまとめたいと個人的に思っています。 そういう事に対しては誰もお金出してくれませんし、 データを集めるといっても、 本当に内輪のデータを集めないといけないのです。 買収の目録を見て、 元の住民票と照らし合わせたり、 元々住んでた人にヒアリングしたりということですが、 是非やっていこうと思っています。
そのうえ、 これからは電縁で、 サイバーコネクションみたいなものがどんどん進むわけです。 そんな中でも「まちづくり」はやはり古い地縁にこだわっていくんだろうと思いますが、 それならそれで、 新しい地縁、 「まちのかすがい」を見つけないことには「まちづくり」と言っても具体的に何もないだろうと思います。
「まちのかすがい」自体は地区でそれぞれ違うわけです。 後藤さんには怒られましたが、 僕は松本のせせらぎも一つのかすがいだと思います。 またコレクティブハウスも、 まさに小さい単位の地縁、 いや、 一緒に飯を食べているんだから食縁です。
ということで、 何か新しい「まちのかすがい」、 先程は「やっかいごと」と言いましたが、 それを見つけていかないと、 「まちづくり」は具体的にはないし、 必要とされないんじゃないかと思っています。
また、 それは現場に行って見つけるしかないわけです。 一般解はないけれども、 やはり全てサイバースペースにもって行くわけには行かないでしょう。 肉体とその周りの環境はなくせないわけで、 くだけて言ったら健康ということになります。 だから街の中に散歩道をつくろうと、 そういう発想でやっていきたいということです。
野崎:
今、 山口さんの話を聞いていて思ったんですが、 やはり今までの震災復興では、 新しい事をやろうとし過ぎていたような気がします。
都市は自然に積み重なってきて、 できたものです。 昔は都市の中に弱者と強者が共存して住んでいたわけですが、 災害公営住宅があんなに沢山出来て弱者を隔離してしまいました。 その結果、 従来の地縁のサポートがなくなり、 別のサポートが必要とされるようになっています。 それをもう一度、 都市本来の混ざりながらバランスをとって生活を出来るような場所に戻すにはどうしたらいいのかと考えています。
そのためには、 なぜ弱者と強者が一緒に住めたか、 昔の生業はどういうふうになりたっていたか、 出ていった人は何をしていた人で、 どこに出ていったかを吉坂隆正先生が言われた「発見的手法」を使って再度考えなければならないという気がしました。
少し文脈から外れますが、 基本的に神戸は大都市ですので、 ある地域が衰退しておかしくなってしまうということが相対的にはあるかもしれませんが、 全国レベルで見れば都会の活力を保った中での復旧なり復興をやってきたということだろうと思います。
それから新在家もいろいろあるようですが、 実は京都の一番新しい伝建地区は大正時代にできています。 だから新在家も徹底的にやると将来は伝建地区になるかもしれません。
そういう意味では地域の趣なり風情なり、 そういう事がある程度良いと思われれば維持されるわけです。 昔は誰も見向きもしなかった町屋が、 匠が造ったとか言われて評価が変わったり、 古材が見直されたりする時代ですから、 世の中何がどうなるか分かりません。 基本的にある程度の生活が維持されている中でどうやっていくかを議論できる幸せな時代にいると思います。
また私は震災後、 2度台湾に行ったんですが、 台湾では日本文化が流行していて、 例えば本屋に行くと、 台湾の若い女性が単身で日本に来るためのガイドブックがずらっと並んでいるんです。 日本のファッション、 音楽もすごい人気で、 最新の厚底ブーツは既に中国本土にも出回っています。
だから、 あの長田のシューズプラザも難しく考えないで、 最新のブーツを安く並べたら、 台湾のお金持ちのお嬢様方がどんどん来てくれるんじゃないかと思います。 そういうことを含めた活性化を考えた方がいいですね。
つまり、 いかに神戸で遊ばせるかが、 重要な都市戦略になると思うんです。
野崎:
とにかく5年、 それ以前の歴史もありますが、 神戸はひらがなの「まちづくり」と言いつづけてきて、 それなりのリアリティをいろんな場面でつかんだんじゃないかと思います。 ただ、 それを今後どう育てて行くかが、 今後の課題だろうという事で、 締め括りたいと思います。
どうもありがとうございました。
9 社会的な調査の必要性
基本的なデータがない
越澤:
自分たちで調査するしかない
宮西:
再び、 まちのかすがいとは
もう少し全般的な話としては、 僕はこれからまちづくりをどうしていったらいいのか分からないところがあります。 というのも人間の縁というのは、 元々は血縁であったのが、 地縁、 金縁へと、 次々に移って行っているんです。 それと平行し、 全般的には日本はある程度豊かになり、 それに伴い住宅も多少良くなった。 今まで長屋に住んでいた人が、 ちょっとお金ができて郊外の戸建に住む。 そういうふうに豊かになっていくにつれて、 長屋で建物を共有していた、 あるいは前の私道を共有していたというような「共有するもの」がどんどんいらなくなり、 それが普通になってきているわけです。
まとめにかえて
越澤:
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