97番目

《優秀なピッチャーについて》

 かなり前のことだけど、 読売新聞に作家の阿川弘之氏のコラムが載った。 それによると 「ある書店で 《新潮》 を買おうと書店人に訪ねると、 《週刊新潮》 を差し出された。 違う、 というと今度は 《小説新潮》 を差し出した。 違う、 《新潮》だ、 と言うと呆然とした。」 というような内容だったが、 《新潮》を知らない書店人がいたことに氏は落胆し、 文学の凋落を感じたのだと思う。

 僕は、 《新潮》 を知らなかった書店員を責めることはできないと思っている。 売れないものまで覚えている必要はないとも思っている。 だけど《新潮》を知らなくても当然、 とは思わない。 もし、そういうことならば、 本という商品とのかかわり方が極めて怠慢であると思う。

 プロ野球において、 優秀なピッチャーは優秀なバッターである必要はない。 しかし優秀なピッチャーになる過程において、 彼は優秀なバッターになるための練習を積んで来たはずだ。 ピッチングの練習だけすれば優秀なピッチャーになれるなら誰もがそうしたはずだが、 そうしないのは、 野球はピッチャーだけでするものではないからだ。 ピッチャーは野球というひとつの世界のひとつの要素に過ぎないからだ。
 書店というのは、 ひとつの世界である。 経済や法律、 宗教に哲学、 文学や自然科学、いろいろな世界を文字や写真で見せてくれる本がぎっしり詰まった空間である。 そうした世界に積極的にかかわろうとした時、 《新潮》 という雑誌がどのようなものかが見えてくる。
 僕は新潮社の人間ではないので、 こんなに 《新潮》 のことを書き立てることはないのだけど、 新聞の記事がちょっと気になったので書いてみた。

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