書店経営2000年1月号掲載分

《悲しきダンゴ3兄弟》

■閉ざされたシャッター
 出版営業の仕事をしていると、商店街を歩くことが多い。活気のある所もあるが、残念ながらそうでない所も多くなっていることに最近気づいた。文房具店、金物屋、洋服屋、時計屋と順に店を見ているとシャッターを降ろした店があった。看板を見るとそれは書店だった。全国の商店街を歩いているとそれは書店だけではなく、ふとん屋だったり、おもちゃ屋だったりする。そんな風景を目にすると、不況が長引いていることは勿論だが、小売店という商売に大きな変化が起きているのだと思う。僕が見たシャッターを降ろした書店は、家族だけで経営を切り盛りしていただろうと思われる、いわゆる「三ちゃん書店」だった。店の規模は10坪ほどで、かつては町の子供達や勤め帰りのサラリーマン、買い物のついでに立ち寄る主婦などをお客にして、それなりに経営が成り立っていた書店だ。シャッターを降ろした商店の風景は寂しいものだ。その中でもこの業界にいる人間として、書店のそれを見ることは胸が痛む。
 その書店がシャッターを降ろすにはそれなりの理由があったはずだ。書店の努力、流通の仕組み、出版社の姿勢、商圏の移動など多くの要因がそこには絡んでいるはずだ。そして規模が小さくなればなるほど影響を受けやすい。その困難さを乗り越えていくことは容易ではない。
 そこには、かつてお客が満足できる商品が並んでいた書店だったはずだ。店主は品揃えに努力しただろうし、お客にいろいろなサービスもしただろう。しかし店を閉めなければならなくなったのだ。どうしてなんだろう。
 今、本という商品は、目まぐるしく商品特性を変えている。タレント本、ヘアヌード、パソコン、映画原作本、暴露本、占い本、溢れかえる文庫本の量、コミック、雑誌の種類の膨大さなどだ。本を買うという消費行動の原点は今でも変らないが、変化してゆく商品の流れをキャッチし、品揃えしていくには、相当の努力を必要とする時代になっているということだ。

■大きな書店と小さな書店
 食品だろうが、家電だろうが、良く売れる商品は良く売れる店に集中する。出版でも同じだ。大型で売上の良い店に商品が集中して配本される。日々配本される商品をもてあますくらいにだ。これとは逆に規模が小さく売上の悪い書店には、ほとんど配本がない。配本されたとして、10坪の書店が1000坪の書店と同じ量の配本を貰えばどうなるかは想像出来ると思う。当たり前だが、10坪の店と1000坪の店では、同じ書店でもまったく別のものなのだ。しかし大型店で売れているものを小型店が置こうとする。同じことをやっていたら大型店の方が有利であることは誰が考えても分かることなのに。出版物全体を見ている大型店と、その一部しか見ていない小型店とでは、そのニーズの把握の仕方がまるで違う。ましてや大型店で売り尽くした商品を陳列したところで何の魅力もない。
 かつてはその違いはそれほど顕著ではなかった。それは、出版点数がはるかに少なく、また読者の嗜好もこれほど多岐に渡っていなかったし、大型店は大都市のほんの一部の地域にしかなかったのだ。だから小型店は小型店なりに自店の読者ニーズを踏まえていれば、お客が離れてしまうことはなかった。ベストセラーだって数ヶ月はその売れ行きが止まらなかったわけだから、急いで商品調達をすることもなかった。そして客は待ってくれた。世間の動きをゆっくりを眺めていれば、売れる本を探し出せたのだ。

■大きな書店の存在理由
 本は今、短期間に大量に売ることを目指して作られている。話題の鮮度が極めて短くなっている現在、3ヶ月ヒットを続けるのは至難の技だからだ。昨年ヒットした「ダンゴ3兄弟」を思い出せばわかる。話題はあっという間に陳腐化してゆく。またある商品がヒットすれば類似商品の山だし、パート2、パート3と続け、完全にその話題が萎んでしまうまで消費してしまうやり方だ。そう言えば、ミスタービーンは可哀相だった。
 これが1ジャンルだけでなく様々なジャンルで行われている。かつての大量消費時代と違うのはこの点である。一つのものに人は群がらない。様々な価値を一人が持っている時代だからだ。あなたの好きなものは何ですか、って言う質問に僕は、ロックンロール、バス釣り、本を読むこと、ドライブ、ギターを弾くこと、金魚の飼育、商店街の観察、友人とのメールのやりとり、トラッド、写真、日本酒なんていうことがすらすら言えてしまう。仕事というのを入れないところがミソだけど。こういうのを多趣味というのではない。恐らく誰だって多くの価値を身につけて生きていると思う。それらの価値をくすぐられると消費という行動に出るのが、現在の消費者のパターンだ。本という商品でも同じだ。多くの価値を持つ人に、仕掛けを作ってそのひとつひとつに対して消費行動を起こさせるのだ。しかしそういう人のそのひとつひとつは浅い興味から成り立っているから、その鮮度はあっという間に落ちてしまう。だから次に仕掛けられるものに目を光らせていなければ次のヒット商品を見落とすことになる。こんな風だから、読者を満足させる書店を作るのにはそれなりの規模が必要だってことになる。書店の規模が大きくなっている理由はこんなところにあるのだ。じゃあ、「小さな本屋はダメ」ということなのかということになるけど、こんな話はどうだろう。

■5坪の書店
 僕が生まれた町は地方の小都市で、学校の教科書を扱っている書店が町一番の店だった。店は大きかった。理工書も置いていたように思う。それでも今思えば100坪ほどだったようにも思う。同じくらいの規模の書店がその向かいにあり、その2軒を見れば必要なものは一応揃った。しかしその2軒に置いていない雑誌があった。それはロックの専門誌で、その雑誌だけは5坪ほどの小さな書店で買っていた。それから駅前に20坪ほどの書店があり、エロ本の立ち読みはそこでしていた。またその書店は、町にない本を注文したりするのに利用していた。理由は家から最も近く便利だからだ。僕は、高校時代このように4軒の書店を利用していた。多くの人もそうしていると思うのだが、書店とはもともと1軒では用が足りないものなのだ。なぜなら1軒ですべての用が足せる書店に僕は今まで出会ったことがないからだ。1000坪の書店だって、ない本はないのだから。
 その5坪の書店のおやじは、毎月ロックの専門誌だけを買いに来る僕のことを覚えてはいないだろう。けれども、発売数日で完売するその雑誌のことは覚えているに違いない。その書店を利用していたのは、僕だけでなく、ロック好きの友人4,5名だったのだ。入荷数は少なく店に行ったら品切れということもよくあった。そして僕達が大学に進み町を離れたとき、きっとあの雑誌は売れ残るようになったと思う。当時まだまだマイナーだったその雑誌をなぜ大きな書店にはなく、小さな書店にあったのか僕はまだわからない。おやじの風貌からしてロックが好きだったなんて考えられないし。
 今読者の満足を得るためには、商品情報を数多く持ち、商圏読者の嗜好を把握し、目まぐるしく変化するニーズを棚に反映させなければならない。だけどなんでもかんでもやっていたら、店がどんなに大きくてもやって行けない。僕が通っていた5坪の書店は、あの雑誌だけで輝いていたし、僕は3年間に渡ってお金を払い続けたのだ。そんな風に考えると、結局書店って、身近な読者に身近なサービスを提供することで成立するものだと思うようになった。

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