書店経営2000年2月号掲載分

《事件だ、事件だ》

■何でもある書店
 書店の売り場面積の肥大化は、僕の目にはあまにも過激に見える。確かにこれまでお目にかかれなかった本と出会えるチャンスが増えたことを素直に喜んでいるが、せっかちな僕には棚を隈なく見るという根性はない。だから巨大な書店より、僕が読みたいなぁと思うような本をちょっとした気配りで見せてくれる、ごくありふれた書店の方が性に合っている。美人揃いのクラブより、気さくなお姉さんがいるスナックの方が気が楽だ、というのになんとなく似ているような気がする。大都市や大都市近郊の郊外には必ずと言って良いほど巨大な書店がある時代になったのだが、僕は未だ、そんな書店になじめないでいる。
 25年以上前のことだが、大阪にある某超大型書店が開店したとき、僕は田舎に住んでいた。一年に一度はその書店を訪れることがあったのだが、その時は本当に驚いたものだ。僕の田舎にある書店は、大きいと思っていたのだが、せいぜい150坪ほどのもので、その数倍もある書店の大きさにとにかくビックリした。ここなら何だって揃っていると思ったし、実際何でもあった。いや実際は何でもあったのではなく、僕の見知らぬ本がとにかくたくさん並んでおり、あれもこれもと買っていたというのが本当のところだ。そんな風だから何でもあるように思えたのかもしれない。

■事件が起こった
 その後神奈川県にある大学に進学し、僕は横浜に住んだ。東京に出てきて、なぜか僕は真っ先に上野に行った。西郷さんが見たかったのだが、花見客で一杯のそこへ僕は近づけなかった。次に目指したのが神田の書店街だった。ここへ行けばどんな本だってあるという「うわさ」を僕は田舎で聞いていた。三省堂はまだ木造だった。古書店の多くは今のままだ。そんな風景の中で、僕はこの町にない本はないと確信した。だから僕は、わざわざ横浜からこの町まで電車賃を払い、大学での勉強に必要な本を求めて出かけたものだ。
 しかし「事件」が起こったのだ。僕は、大学で使うテキストを神田で探していた。4、5軒の書店を回ったのだが、見つからなかった。この町にない本があるなんて信じられなかった。手に入らない本を教授は教科書に指定したのだとも思った。もう手に入れることが出来ないのだ、とあきらめ電車に乗って渋谷まで戻った時だった。僕は、渋谷にも大きな書店があることを思い出し、最後の望みを託してその書店に向かった。もうあきらめていたから大きな期待はしていなかった。エスカレーターに乗りながらその日1日の疲れを体に感じていた。一冊の本のために1日をつぶしたのだから。
 僕は目的に棚にまっすぐに向かった。するとどうだろう、僕の目の前に僕が探していた本があった。嬉しかった。声を出して「あった。」と叫びたかった。僕は、何も考えずその本を持ってレジに急いだ。僕が幸せな気分だったことは言うまでもない。
 それからだ、すべての本がある場所なんて存在しない、神田にだってない本があるのだ、何でもあるなんてそれは思い込みだ、あるように見えるだけだ、と分かったことは、僕とって大きな「事件」だった。しばらくたってから、書店には得意な分野や苦手な分野があり、ひとつの書店ですべてをまかなおうとするのには無理があることを知った。小説の棚はどの書店にもあるが、ベストセラーしかない書店やそうとうマイナーな作家まで揃えてある書店があることも知った。書店のそんな事情から、僕の学生時代は、僕の住む町の書店を含めて5軒ほどを「なじみ」にしていたのだ。

■書店が大きいということ
 あれから時代が変り、時が流れた。当時150坪の書店と言えば、それなりに総合書店として立派なのれんを掲げていたものだ。しかし今では漫画専門店でも100坪を超える時代だ。150坪で何が出来るのか、何を売るのかを考えた時、相当練られたアイデアがない限り、店を順調に成長させることは難しくなっている。一般書、実用書、専門書、雑誌、文庫、漫画などを読者の満足に合わせて品揃えしようとすれば、それだけで相当の坪数を必要としてしまうのが現実だ。そんな事情を反映して書店の規模は大きくなるばかりだ。僕がそう思っていたように、大きな書店には小さな書店より本があると誰もが思い足を運ぶ。小さな書店には人が来なくなり、やがて店主は戦意を喪失し、さらに客の足が遠のくというのが、小型の書店が潰れていく構図だ。
 でも、本当にそうなんだろうか。巨大書店に行けば、満足が得られるのだろうか。口の悪い人がつぶやくのを聞いたことがある。
「あそこは大きいだけ。」
自分が欲しい本がないことが不満で、そう言ったのかもしれない。しかし、すべての人の満足を得るための大型化ではなかったのか。大型店には大型店の売り方があり、そうすることで小さな店では出来ない総合的な販売ができるのではないのか、と僕は思う。小さな店であれば「置いてませんね。」という言葉は、店が小さいがゆえの言い訳であるが、大型店では、その言葉はお客に対する裏切りに他ならない。品切れています、ありません、その言葉を出来るだけ少なくするべく専門的な知識を身に付けた人を多く配し、その人たちの日々の努力が店の信頼を得てゆくことで、少なくとも何でもあるように思われる書店として存在する必要があるのだ。そうしなけば、「大きいだけ」と言われてもしかたないのではないかと僕は思う。

■大型書店への期待
 大型書店は、今利益を上げるために、急速にリストラを行っている。人が少なくなった分POSへの期待は大きい。5人の社員で売上が100なら4人にすれば利益が上がる、そのためにPOSを活用するというのだ。理屈は正しいしPOSの活用はそれを実現させてくれると僕も理解している。しかしながら大型店においてその手法が100%有効かどうかについて、僕は疑問を持っている。なぜなら大型店には本を探しに来る人が大きな期待を持ってやって来るからである。あそこに行けば必ずある、あるだろうという期待は、その規模に比例して大きくなるのだ。その期待に大型書店は多くの有能な人材を投入することで応えてきた。しかし読者のそうした期待にPOS管理で応えられるのだろうか。人の期待に応えれるほどPOSは進化していないように僕には見えるのだが。
 人件費が上がり、売上が下がるこの時代に書店は、機械化された大型書店という道を選んだ。そのことに読者は喜んだのだろうか。100坪の店より300坪の店、300坪の店より500坪の店、500坪の店より1000坪の店の方が本当に本と出会えるチャンスをくれるのだろうか。大規模安売り店の中にはただ大きいだけの店がたくさんある。安くもなければ、品揃えも悪いのだ。書店について、「ただ大きいだけ」という陰口を聞くことは今は少ない。しかしながら店の利益確保だけに走り、顧客を忘れてしまっては、いつか誰かの口からそうした言葉が漏れるようになるに違いない。僕がかつてそう思っていたように、あそこに行けばあるだろうという期待を顧客に持たせ続けなければ、書店の未来はないのだと思う。

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